8-4 「……泣いていたのですか?」

 舞はくるりと踵を返して駆けだした。司の足であれば追いかけてくることは容易であったはずだが、そうする必要性を単に感じなかったのか、それとも舞の発した言葉の意味に当惑したものか、司は追ってはこなかった。舞の足は自然と学校を行き過ぎて、大通りに沿っている真っ直ぐな住宅街の路を抜けて町の北の方へと進み、そして、見知らぬざわめきの中に止まった――白いセーラー服を着た少女たちの小鳥のさえずりのような明るくきらびやかなざわめきの中に。


 ちょうど下校時刻であるらしい。私立水仙女学院の豪奢なアーチ型の門が開け放たれていて、そこから可憐な装いをした生徒たちが鈴のように笑声を震わせて次々と現れてくる。校門横には守衛が一人立っていて、帰宅する少女たちの背中を見守っている。その大半はこの町の出身ではない少女たちは、公立中学に通う舞の制服に、無邪気ながらも怪訝な面持ちをさり気なく向けていた。舞は怒りと悲しみで表情をくしゃくしゃにして、しかも結構な距離を駆けたせいで息がはずみ、汗だくになっている自分を急に恥ずかしく思った。電柱の陰に隠れて汗を拭い、ついでに目元にハンカチを押し当てて、舞は息を整える。「では、御機嫌よう」白い帽子を被った少女たちからは、そんな嘘のような言葉すら飛び出ている。舞は姉がしとやかに挨拶を交わしている情景を想像して、思わず吹き出しそうになった。


「姫様、大丈夫ですか?」


 左大臣が鞄の内よりささやきかける。舞は頷いた。


「大丈夫……ありがとう」

「しかし、いやはや、あの結城という少年は恥知らずな。一体なんなのですか?!姫様に助けてもらったご恩も忘れて……!」


 我を忘れて憤激する左大臣に、舞は唇に人差し指をあてて「しーっ」と言った。


「いいの、左大臣。結城君のことは言わないで。私もさっき相当ひどいこと言っちゃった……きっと結城君には意味がわからなかったと思うけど、謝らなくちゃ」

「なんと!姫様が謝る必要はないではありませぬか!先にあちらが……」

「仕方ないよ、左大臣。だって、結城君は私が戦ってることなんか全然知らないんだもん。そういう見方されても、無理ないよ……それより、左大臣、いいニュースがあるよ!」


 私立水仙女学院図書館は、初代学長の友人であり、偉大な蔵書家であった人が、一切の係累を持たぬままなくなったので、振鈴しんれい文庫の蔵書印を捺された彼の全ての本を受け継いで、以来国内でも有数の厖大な蔵書数を誇るようになった。もちろん、貴重書や古文書の類は研究対象として大事に保管されているから一般公開はされてはいないけれど、図書館ではそうした本を電子データベースから見ることができたし、その蔵書家とやらがこの付近の地域研究を行っていたこともあって、桜花市に関する古い資料が直接手にとれるもの、とれぬものも含めてとにかく豊富なのである。水仙女学院の生徒ではない舞がその恩恵に与れるのは、今から五年ほど前に桜花市と学院が提携して、一般の桜花市民も図書館への立ち入りと資料の閲覧ができるようになったためで、今までは一度も足を踏み入れたことはなかったけれども、左大臣がなにかと古い本が好きなのを思い出して行ってみることにしたのである。それに、螺鈿に関してももっと調べられるかもしれない。


 図書館への入り口は学院を囲っている白い壁を回って反対側、水仙女学院桜花キャンパスの方の入り口へとまわらなければならなかった。メインのキャンパスは都内にあるので、文学部と教育学部だけというこちらのキャンパスはさほど大きくはなかったけれど、最近真新しくしたばかりの、ガラス張りの校舎を持っていて、図書館はその校舎の上から三階分を占めている。きらきらと日の光を反射している回転ドアを潜り抜けて、洒落た身なりをした女子大生たちに憧れの眼差しを振りまきながら、舞は広々とした日当たりのよいホールを横切りエレベーターに乗り込んだ。幸いエレベーターに他に乗り込む者がいなかったので、舞は呟いた。


「いいなあ。私も水仙女学院に入れたらなあ」

「勉強なさりませんと」


 と、左大臣が鞄の中から言う。舞は頬を膨らませた。


「そんなことわかってるもん……!」


 エレベーターが最上階についたので、舞は降り立った。図書館の受付で生徒手帳を示し、入館証を受け取って中に通してもらう。閲覧スペースは天井までガラス張りになっていて、幾分弱められた日差しの下に柔らかな椅子と長机とがずらりと並べられ、影を伸ばしている。舞は左大臣とこそこそと相談しながら、備え付けられたパソコンで螺鈿にまつわる資料を検索し、指定された書架へと向かった。書架のあるスペースの天井はさすがにガラス張りにはなっていなかったが、図書館にありがちな無機質な白い蛍光灯ではなくて、オレンジ色の照明が据えられていたので、居心地がよさそうに見えた。舞は絨毯の床を踏みながら、ずらりと並べられた本の背表紙をきょろきょろと見回して、本棚の森を掻き進んでいく。そんな風によそ見をしていたので、舞は本棚の影から突如現れた人に気付かず、まともにその人の上腕に頭突きを食らわしてしまった。倒れたのは舞の方だったが。


「すまない!大丈……」


 ぶつかった人は舞の顔を見るなり言葉を途切れさせた。しかし、それは舞とても同じだった。「大丈夫です」と言いかけた口がそのまま動かなくなってしまったのだ。ぶつかった人があまりに美しかったので。


(きれいな人……外国の人かな……?)


 腰まで伸びた豊かなプラチナブロンドの髪、透けるような皮膚、憂いを帯びたような柳眉、みずみずしいアイスグレイの瞳にすらりと通った高い鼻、そして薄く引き締まった唇。背がすらりと高く、頭に学生帽を被り、白い丈の長い学ランの下に黒いシャツ、ぴしっとアイロンをかけられた白いズボンとを履いている。どこの制服だろう。なんとなく色合いは、姉のゆかりがいつも着ている水仙女学院高等部のものに似ているけれど――でも、水仙女学院は女子校であるはずだし。目の前の人の性別はどちらだろう。


 じっと見つめていると、その人ははっと我に返ったように、舞の傍に跪いた。その人の手が肩に触れて、舞はどきっとした。とてもよい香りがする。それから舞は、ふと、その人の手が震えていることに気がついた。ごく小刻みにではあるけれど。


「すみません、大丈夫でしたか?お怪我は……?!」

「あっ、は、はいっ!大丈夫です」


 声を聞いてもなお、舞にはその人が男か女かとわかりかねる。少しかすれたような、深みのある低い声だ。その人に助け起こされて、舞は礼を言いながらにこっと笑いかけた。すると、その人も微笑んだ。少し躊躇いながらも。しかし、事が済んだあとも、その人の目は舞の顔から離れない。


(えっと、知ってる人だっけ……?でも、こんなきれいな人、会ってたらさすがに覚えてるよね……)


「あっ、あの、どうかしましたか?」


 舞が尋ねると、その人は急いで帽子の鍔を掲げなおして瞳をその影の中に押し隠した。


「い、いいえ……!その、ぶつかってしまってすみません」

「そんな!私の方こそぼんやりしてたので……」


 それから、その人は舞の方に横顔を向けて、何度か唇を動かしたのちに声を一層低めて尋ねた。


「……泣いていたのですか?」

「へっ?」

「顔に、涙の痕が……」


 舞は恥ずかしくて頬を両手で押さえる。なんだ、まだ私泣いた顔のままだったんだ。確かに涙が乾いてきて、皮膚はひりひりしはじめてきたところだったけれど。「あっ、いや、その……」見知らぬ人に言い訳をしようとして舞の頬はますます赤らんでいく。


(なんかもう、今日ついてないな、私……全部私のせいではあるけれど)


 また涙が出てきそうになるのを、舞は耐えた。知らない人の前で泣き出すわけにはいかないから。


 と、舞の手の甲をとって、その美しい人はその上にそっと唇を落とす。そんなことをされたのは生まれて初めてであるので、舞はただただ唖然とするばかりである。会ったばかりの人にこんなことを……しかし、不思議と嫌な気はしなかった。その人が美しいためだろうか。そんなのは不貞だと、舞は自分の心を責めてみる。だが、溜まった涙が悲しみのそれから安堵のそれへと変わったことは認めぬ訳にはいかなかった。自分はこの人を知っているのだろうか。この人とも、もしや前世で……


「失礼を」


 その人は舞の手を離すと、丁寧に頭を下げて本棚の中へと紛れていった。舞はくちづけられた手を抑えられたまま、しばらくの間放心状態でいたが、ようよう左大臣に袖を引っ張られて現実の世界に戻ってきた。それでも尚、舞はふわふわした気持ちのままでいた。


「姫様、お知り合いですか?わたしにはよく見えませんでしたが」


 左大臣が小声で尋ねる。舞は首を振った。


「ううん、全然知らない人……」

「全然知らない人?!見知らぬ人の接吻せっぷんを受けたのですか?!」

「セップンって、なに?」


 左大臣はどう答えたものか迷っている間に、舞はもう一度右の甲に触れてみる。なんだかまだ温かい。それから舞はふと、セーラー服の胸ポケットに小さな切り花が咲いていることに気がついた。白い薔薇がたった一輪だけ。

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