8-3 「あなたは司なんかじゃない!」
「みんな腰抜けよ!責任とることから逃げてばっかり……!舞ちゃんは、大体京姫じゃないのよ!みんなを率いて戦っていく存在なのに、どうしてそんな生ぬるいことを言っていられる訳?!舞ちゃん……本当に、世界を守る気あるの?」
「姫様……」
傷心の舞が一人さびしく帰る下校の路で、左大臣も舞の異変を感じ取って鞄から顔を出す。舞は左大臣に向かって微笑みかける。ゴールデンウィーク中は素晴らしく心地よい天気に恵まれて、行楽の人々は幸いであった。ほとんど桜花市に留まって過ごした舞でさえも、その陽気を謳歌することに努力を惜しまなかった。今日は日差しも疲れたと見えて、薄い雲が青空に羅のように被せられ、午後の日はそこから曇り硝子を透かしたような乳白色の光を投げかけるだけである。野良猫が暢気そうに民家の塀の上で欠伸をし、雀たちがそうした怠惰な猫は恐れる価値もないと言わんばかりにその真上の木の枝で鳴き交わしている。その庭の家にたくさん実をつけているジューンベリーが彼らを呼び寄せるらしい。見上げる家々の窓に、薄曇りの空が映って流れている。舞はまるで、偉大な川の流れを、決して絶ゆることのない時の遷り方を見るような気がした。
「どうされました?元気がありませんな」
「ちょっとね……翼ちゃんと喧嘩しちゃっただけ」
「なんと、翼殿と!」
「……仕方ないの。私が甘えたことばかり言ってたから。翼ちゃんの方が私の百倍しっかりしてた。私、自分が情けなくって、仕方なくて……」
左大臣が何も返さないのを、当初はただ言葉に詰まっているだけかと思ったが、それにしても沈黙が長すぎる。ふと、肩に抱えた鞄を見遣ると、テディベアの顔はとっくに引っ込んでおり、ファスナーだけが中途半端に開いている。「左大臣?」鞄の中に向かってそっと呼びかけた直後、舞は自分の上に翳された影に気がついた。咄嗟に自分の左肩の方を仰ぎみた舞の目は、司の冷やかな薄紫色の瞳にぶつかった。
「うわああああっ!!」
舞は叫んですさまじい勢いで後ずさり、彼女の右手に続いていた塀にぴたりと背中を張り付いた。雀たちが一斉に飛び立ち、猫が驚いて塀の上から飛び降りて逃げていく。閑静な住宅街に響き渡った舞の声の大きさに、司は神経質そうに美しい頬を引き攣らせながらも、舞にならって立ち止まった。
「ゆ、結城君!!」
「……なに一人でぶつぶつ話してるんだ?」
「えっ、えぇっ?!あっ!えっ、えーっと……電話!電話してたの!!」
「随分と不良になったんだな。前は僕の携帯電話にどうこう言ってたくせに」
そう言い捨てて立ち止まっていた司は歩き出す。しかし、司の背ってあんなにも高かったかしら――突然司が現れた驚きからようやく立ち返りはじめた舞は、司の言葉が指す意味に気がついた。今、司の方から初めて、怪物に襲われたあの日のことに触れたのだ。今までそんなことなどなかったかのように振る舞っていた司が……
「結城君!待って!」
慌てて駆けつけてその隣に立った舞に、司は一瞥もくれなかったが追い払おうともしなかった。横顔の澄まし切った様子は、やはり近寄りがたくて怖いけれども、でも見つめていたくもなる。舞の足がもつれて、はからずも司の肩に頭がぶつかると、二人は慌てて距離を置いた。司の肩、私の頭より上にあったんだ。小学生まで、私の方が、背が高かったのに。舞は急いで首を振る。違う、小学生時代を一緒に過ごしたのは、この結城司じゃない。
「……お前は何か知ってるのか?」
隣に並ぶなり降ってきた司の言葉に、舞は戸惑う。
「なんのこと……?」
「怪物のことだ。僕が転校してきた日、怪物に襲われただろう。あの後もこの町では正体のよくわからない獣の目撃談が相次いでいた。あくまでも噂だが……それでもこの数週間でこの町の行方不明者が増加しているのは本当らしい。それから先週のことだ。お前は確か『あの怪物がまた現れた』とそう言ったはずだ。だが、クラスの奴の話では、現れたのは巨大な蜘蛛だという……なぜ、お前はあの時僕にああ言ったんだ?どうして『あの怪物』だなんて言った?第一どうしてあの時、怪物が現れたことがわかったんだ?」
舞は答えに窮す。なんと説明したらよいものか……舞は鈴が鳴ったから、咄嗟に「あの怪物」が現れたものだと思い、司にもそう説明しただけだ。そう説明した方が、司にはよりよく理解できるはずだから。それがこんなところで仇となるなんて。言い訳を考えなければ。しかし、もう嘘を考え出すほどの気力もない。舞は途切れ途切れにようやく思いついたことを語る。
「それは……お姉ちゃんが、教えてくれて……あの時、駅前にいたから、連絡くれて……」
「なら、なぜ『あの怪物』なんて、言った?」
「お姉ちゃんが怪物って言ってたから、私、てっきり……」
司は呆れかえったような溜息を吐いた。信用していないということを示す溜息だ。それが意図せずして舞の心を傷つける。どうしてそんな細かなことをこの人は気にするのだろう?私はただ、守ろうとしただけじゃない。司とその母親とを。
「結城君……!」
「……あの怪物に襲われた日、あの怪物は明らかにお前を狙ってた。お前はこの町で起こってる事について、何か知っているんだな」
「違う!私はなにも……!」
「嘘をつくな」
怒鳴った訳でもない司の静かな声が、剃刀のような鈍色の刃を閃かせて、舞の心に差し込まれていく。舞は冷水を浴びせられかけたかのように凍りついた。舞は右手の指を左手でぎゅっと抱きしめるようにして胸の上に掲げて立ち尽くす。舞より数歩進んで、司も足を止める。しかし、司は振り返りもしない。
「京野、先週のことについては、僕は感謝していなくもない。僕は母を病院に連れていくところだった。お前が忠告してくれなかったら、僕も母もあの事故とやらに巻き込まれていたかもしれないからな。今頃その巨大な蜘蛛とやらの餌食になっていたかもしれない」
司は皮肉な笑いを音だけで舞に示した。
「だが、お前が怪物についてなにかを知っているのであれば、更に言ってしまえば、お前のせいでこの町の人間が怪物に襲われているのだとしたら……お前はよくも平気で日々を過ごしていられるな。お前には何かしら手を打つ義務があるだろう」
舞はますます強く自分の右手の指を握り締める。もう痛みを通り越してほとんど感覚がなくなっている。それでも舞は翡翠の瞳を見開き、華奢な体を震わせながら、込み上げてくる言葉を必死に必死にのみこもうとする――戦ってるじゃない。命を懸けて、戦ってるじゃない……!
「……まあ、お節介だったな」
舞がなにも言わぬのを何の印と見たかはわからぬが、司はただそう言い残して革靴の音をたてはじめる。遠のいていくその足音を聞いているうちに、舞は堪えようとしていたものがついに堪えかねる段階まで来たことを悟った。あの日、怪物に襲われ、京姫として覚醒したあの日から、否、司の死を目の前に見たあの日から、舞の中に注ぎ込まれ続け、撹拌されて澱を掻きたてていたものが、翼との口論で嵩を増していた。それは必ずしも他人にぶつけるべきものではなく、ただあふれ出て自分の胸の中でこそ新たな濁流を生じるべきものではあったが、今の舞の心には、あふれ出たものを抱えきれるだけの器がなかった。卑怯だと知りつつも、舞は司の背中に向かって言う。
「なにも知らないくせに!」
驚いたように司が振り返る。舞が大切にしていた人と見間違えてもおかしくないほど、遠のいた場所で。でも、違うのだ。あの人は結城司ではない。司さえいてくれれば、舞がこんな苦しみを知ることもなかったというのに。
「あなたは、あなたは、私のことなにも知らないじゃない!知ったような口きかないでよ!……あなたは司なんかじゃない!結城司じゃない!」
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