9-2 「許して!許して!!司っ!!!」


(また行くのか、苧環神社に……)


 チャイムに追い立てられて、舞は教室へ向かいながらつぶやく。


(今度行ったら、また恐ろしいことが起きるんじゃないかって、思っちゃう。できれば行きたくないな。あそこは司が……)


 死んだ場所だから、とまで心は言いかけた。途端に舞の頭の中に横切る光景がある。椿の花弁の如く赤いもの、滴るもの。手水舎に振り落されてきた司の体。朽ちかけた柄杓ひとつ、傷ついた体ひとつで怪物に立ち向かい、無残にも突き飛ばされる司。舞の声に応えぬ司……


「舞ちゃん?!」


 突如、激しい吐き気が込み上げてきて、舞は教室の床に膝を突き、両手で口元を覆った。なんで今まで忘れていられたのだろう。そうだ、司は死んだんだ。血を流して、ボロボロになって。翼をはじめとして女子たちが舞の周囲に群がってきて、舞を解放しようとする。慌てて洗面器をとりに向かおうとする者もある。けれども、舞の目にはどれもが無意味なものとして映る――どうしてこの人たちは、司を失ったのに平気でいられるの?


 音のない、涙でぼやけた世界で、舞は司の遺体と向き合っていた。司の体は地面に伏せられ、その周囲の土がひろがる血を吸ってどす黒く濡れていた。司の唇は著しく歪んでその隙間から真っ赤に染まった口内とその中でただ一顆、光る白い前歯とを晒している。その目は目尻の裂けるのでは、眼球の零れ出るのではないかと危ぶまれるほどに大きく見開かれ、舞に向けられている。まるで、舞を恨むかのように……


「まい……」


 司の体が震えだす。絞り出された声が彼のものだとは到底認めたくはないけれど、舞にはそれと分かった。彼の口が動いて、その前歯が喉奥から吐き出される夥しい血に押し流されて地面に転がり落ちるのを見ないでも。


「ま……い……おいで、よ……おれは……こ、こ……」

「いやああああああああ!!!!!!!」


 舞は耳を塞いだ。しかし、必死に伏せようとする目はなぜだか司の上に釘付けになって、瞑ることさえできないまま。司が赤黒い地面に手をついて立ち上がろうとしている。その腹の傷口から濁流のように血が溢れ出し、遂に土の吸収できる容量を超えて地表を滑り、舞の方まで流れてくる。舞の膝に司の血液が触れると、生まれたての仔馬のように不自然に関節を折り曲げながら立ち上がっていた司の顔がにやりと笑った。その広げた口からまたもや血と歯とが零れだす。目はいまだ大きく見開かれたまま、左右の眼球がそれぞれ全く異なる方向を見つめている。だが、その眼球がぐるりと一回転すると再び舞を捉えた。舞は悲鳴をあげた。


「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだっ!!」

「まい……あいして、るよ……だから、こっちに…………」


 司が歩んでくる。舞の腰元がその血に浸りきってしまうほど血を流しながら。一度朽ちた体は、もはや元の筋肉の使い方を忘れ去ってしまったかのように、爪先立ちになって、指先が後ろを向くほどに内股になり、ふらつき、よろめきながら。舞はただ拒絶の言葉を喚き続けるだけだった。逃げようと思っても体が動かないのである。とうとう司が舞の正面までやってきて、がくんと膝から崩れ落ちた。司はそのまま均衡を失って地面に倒れ込んだ。だが、その手だけはしっかりと舞の手首を掴んだ。


「舞……おいで……」


「いやああああああああああああああっ!!!!!!!」


「舞ちゃん、落ち着いて!」


 正体なく泣き叫ぶ舞を、クラスメート全員が蒼白になって見守っている。舞は穏やかな生徒だった。こんな風にヒステリックな素振りをみせたことは今までない。ただ、それは舞に限らず、このクラスのどの生徒に関してもあてはまることであろうが。叫び、床の上に頭を抱えこんで何かを追い払うかのように腕を激しく振る舞の様子に、女子たち数名が後ずさった。単に恐ろしかったばかりではなく、物理的な危険を感じたためであった。と、その手で舞は両耳を塞ぐ。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!許して!許して!!司っ!!!」


 その時、騒ぎを聞きつけた担任の菅野先生がやってきた。舞は叫ぶことをやめてひたすらにすすり泣きに徹し、翼がその肩に触れる。菅野先生はいつもの飄々とした様子はどこへやら、すばやく舞を抱きかかえると、保健室へと駆けだした。翼もその後を追う。残されたクラスメートたちは目線を交わすだけでも精一杯で、言葉も出ない有様であった。ようようひそひそ声で女子たちが話し出す。


「どうしちゃったの、舞ったら?」

「いつも騒いだりしないのにね。珍しいっていうか、あんなの見たことないわよ」

「ごめんなさい、って叫んでたけど」

「うん。『許して、司』って……」


 ちょうど菅野先生と階段ですれ違い、一体何事かと慌てて教室に戻ってきた東野恭弥は女子たちのささやきにはっとした。司だって?その名前を持つ人が、このクラスにたった一人……恭弥が机に座っているその人の横顔を見遣ると、その人の目はいつものように洋書の中に注がれながらも、その顔は紙のように白くなっていた。




「本当に、ごめんなさい……」


 保健室の椅子に腰かけて、舞は涙で汚れた顔をハンカチでぬぐいながら菅野先生に呟いた。舞の隣には翼が腰かけ、舞の手をしっかりと握りしめている。パイプ椅子に腰かけて菅野先生は舞と正面から向き合い、小さく何度も頷いてみせた。


「謝ることはなにもありませんよ。少しは落ち着きましたか?」

「はい……私、どうしちゃったんでしょう。ついさっきまで何にもなかったんです。急に何が何だかわからなくなって……」


 養護教諭の先生と菅野先生はちらりと顔を見合わせた。みんな、私のこと、きっと頭がおかしいと思ったに違いない。そう考えると、舞は気分が滅入った。おぞましい幻覚はとうに消え失せてはいた。あの幻覚が残した心証よりも、これからクラスメートになんと思われるか、それから先生方が自分をどう考えているか、そのことの方がよっぽど舞を落ち込ませた。舞はちらりと壁の時計を見上げる。もう授業が始まってから十分近く経つ。今日の社会科の授業は例の調べ学習の中間発表だ。中心メンバーである舞と翼がいなくてはきっとろくろく発表もできまい。よし。


「先生、私、授業に出てもいいでしょうか……?」

「いけません!次の授業はおやすみして、少しここでゆっくりなさい」

「でも……」

「京野さん、お水飲む?」


 養護教諭の里見先生が、冷たい水をコップに注いできてくれた。


「大丈夫だと思うけど、次の授業はお休みした方がいいよ。きっと疲れてるんじゃない?お母さん、今日おうちにいらっしゃるかな?」

「いやです!帰りません!」


 いつになくきっぱりと舞が言ったので、先生方も翼も驚いた。


「お願いです。せめて、六時間目だけでも……もう元気になりましたから、本当に大丈夫です。ありがとうございます」

「……青木さん」


 菅野先生が言った。


「青木さん、京野さんは大丈夫みたいですから、授業に戻ってください。どうも付き添いありがとうございました。それから里見先生、少し京野さんとお話ししたいのですが、外していただいてもかまいませんか?」


 里見先生はさらりと引き下がったが、翼の方はまだ後ろ髪引かれる様子だったので、舞は「発表お願い」と頼むことで、翼をなんとか解放してやった。後に残った舞と菅野先生は、里見先生が職員室から持ってきてくれた温かい紅茶を飲みつつ、しばらく無言のままでいた。


「……そういえば、以前お貸しした本はお読みになりましたか?」


 菅野先生が急に言ったので、舞は拍子抜けした。


「えっ?……あっ、はい!読みました!」

「面白かったですか?」

「はい。あの、ちょっと難しかったんですけど……」


 菅野先生はいつものからからと心地よい笑い方をした。その声を聞いていると、舞もなんだか安心できる。舞は翼ともう一人、自分の正気を疑っていない人間を見つけることができた気がした。先生が私を信じてくれるなら、大丈夫。舞は両手で包んだマグカップから紅茶をすすった。涙で冷えた体がじんわりと温まっていく。


「あれを中学生で読み込めたら、大したものですよ。面白いですねぇ、螺鈿伝説は。あれは作られた物語だということがお分かりになったでしょう?」

「はい。歌舞伎からとってきちゃったんですよね、螺鈿って花魁の話」

「そうなのです。町は一応、あの場所で死んだのは螺鈿ということでやっていきたいみたいですから、不都合な真実という訳ですね。しかし、何事も真実を正しく見据える目というのが大切なのですよ。風情というものは大切ですし、物事をそのまま曝け出すのは野暮ですがね。でも、風情というものだって、なにか存在するものを飾りたてる上でようやく成り立つものなのですから、その基礎を無視するのはいかがなものかと思われます。どうでしょうねぇ?」

「わ、私もそう思います!」

「ですよねぇ。まあ、私たちが歌舞伎の世界で楽しむぐらいにはいいでしょうが。螺鈿ということにして祀っていられたら、大往生を遂げたかもしれない現実の螺鈿さんにも失礼ですし、あの場所で死んでしまった女性が浮かばれませんものね」


 でも、あの場所で死んだのは確かに螺鈿に違いない。だって本人がそう言っているのだから……先生はやはり違うと思っているみたいだけれど。舞はふと思いついて聞く。


「あの、先生は、本当にあの場所で死んでしまったのは誰だと思いますか?」


 先生が苦笑した。


「困りましたねぇ。実は考えてはいるのですが、あまり中学生に聞かせるような話では……それにこんなところで二人きりで話したとなると、セクハラだと訴えられかねませんからね」

「えぇっ?そ、そんな話なんですか……?!」


 菅野先生は困ったように笑っていたが、まあ、と言って切り出した。


「じゃあ、誰にも言わないでくださいよ。僕の考えではね、あの場所で死んだのはこの辺りの宿屋の飯盛り女です。飯盛り女については詳しいことは、僕は言えませんからね。調べたければご自分で調べてくださいな。簡単に言えば、言葉の通り、飯を盛る女、宿屋で働いていた女性ですね。この辺りは宿場町でしたから。まあ、そういう女性というのは、遊女まがいなこともしたわけです。おわかりかしら?」


 舞は赤らむ顔を隠すために懸命に頷いた。


「ところで、伝説では遊郭が火事になり、遊女がここまで逃げてきたとのことですが、まあ現実的に距離からしてありえないでしょう。花魁ならばなおさらです。だから、僕は、この町のかわいそうな飯盛り女の一人が火事から逃れてきて死んでしまい、それを憐れんだ人々が話を残しただけのことだと思うのです。だけといっては失礼ですがね。ただ、水辺で死ぬ女性の伝説というのは世界各地にもたくさんありましてね。元の話などまるきりなかった可能性もありますが。宿屋が火事になった記録もいくつか残っていますし……」


 そこで、先生は言葉を切った。紅茶をいっきに飲み干した。舞はきっと、先生は喋りすぎて喉が渇いたのだろうと思い、自分もまた紅茶をすすったが、実はそれが話題を変えるための先生の巧みな操作であったことに、舞はあとから気付いた。


「元気が出たようですね、京野さん」


 先生がにこにこと笑いながら言ったので、舞は思わず「はい!」と言った。


「よろしい。僕の見立てではあなたは正常です。なにも心配しなくてよいですよ、京野さん。しかし、やはりもう少し休んでいらっしゃい。疲れが出た可能性もありますからね、もし気が進めば、寝かせてもらうといいでしょう。ところで、今日は三者面談でしたが、できれば別の日程を……」

「ああっ!ダメです!今日やります!!」


 舞は慌てて言った。


「しかしね、京野さん……」

「だって、明日以降は英語の小テスト返ってきちゃうんですもの!そしたら、うちの母、きっと面倒なことになりますから!」


 先生はかなり迷ったようであったが、考えたのちに唸って言った。


「よろしい。お母様と今から電話で相談してまいります。もしお母様がよいということでしたら、今日やりましょう。しかし、京野さん、交換条件です。お母様がいらっしゃるまでは、保健室で過ごすことです。確か三時でしたね?それまでここにいられるというならば、今から電話して参ります」

「わかりました」


 舞は素直に言った。もう自分は大丈夫だと自信があったし、前回のテストに関しても全く出来ていないという自信があったので。


「では、少し横になりなさい。僕は行ってきますから。あとで鞄を届けさせます……」

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