7-7 「ただの絵描きだもん……」
「あっちに行け!近づくなっ!」
奈々は手当り次第、掴めるものを、絵の具なり絵筆なりなんなりと蜘蛛たちに投げつける。しかし、蜘蛛の巨大な体と分厚い皮膚は、そんなものがぶつかるもぶつからないも同じことで、奈々たちの方へにじり寄ってくる。蜘蛛たちは明らかに食事と狩りとを楽しんでいるらしい。蜘蛛が笑い声をたてる訳はないと知っているけれど、今蜘蛛たちがその口にさざめかせているのは明らかに哄笑である。怒りによって占められていた奈々の心の玉座に、恐怖が膝をかけ始めている。奈々は遂に空の鞄まで投げつけて、唯一足元に残ったスケッチブックを、これだけはどうしても手放せずに抱きしめる。駄目だ。だって、これを投げつけたところで、事態はなにも変わらないんだもの。蜘蛛たちの声がこの部屋いっぱいに渦巻いている。まさしく悪魔の饗宴の中にいるみたいだ。自分たちは今、悪魔の鍋の中で煮られている。なすすべもなく……奈々はその場に崩れ落ちた。眼鏡の奥に涙が滲んでいた。
「助けて、お兄ちゃん……!」
奈々は扉の開く音を聞かなかった。蜘蛛の鋏の音がもう耳元まで迫ってきていたから。なので、蜘蛛たちがなにかに気がついたかのように和室からリビングに向かって飛び出していくのを見て、唖然とした。さらに、蜘蛛たちの体が無残にも切り裂かれ、殴打され、やがて水の泡や桜の花びらとなって消えていく景色をみると、もうこれは夢かと疑うばかりであった。黒田家にひしめいていた蜘蛛の姿は跡形もなく消え去り、リビングには見知らぬ二人の少女の姿が残された。いや、この人たちには、なんとなく見覚えがあるような……
「奈々さん、大丈夫ですか?」
「えっ……あ、あなたたちは……?」
藍色の髪をリボンで二つ結びにした、袴姿の少女が駆け寄ってきて言うと、奈々は戸惑う。青龍はふと奈々の上に吊るされている双子に気がつくと、もう一人の少女に受け止めるように頼んで二人の糸を切り離した。体中に巻かれた糸を取り除かれて、音々と美々は力なくぐったりと畳の上に寝転がった。奈々はその体を揺すぶった。
「音々!美々!」
「動かさないで、奈々さん。姫、ほら、やってみて」
「できるかなぁ……」
「大丈夫。前世で治療もやってたって、前に左大臣が言ってたじゃない。玄武よりは下手だったらしいけど」
姫と呼ばれた少女は、確かにその称号に相応しい麗しく気品ある顔立ちをしている。でもやっぱり見たことがある。でもどこで?姫は、持っている仗の頭についた、中に桜を模した宝石を閉じ込めた水晶玉を双子の上に揚げ、何事かを呟いた。すると、水晶玉から花びらが零れ出て、そのひとひらずつが二人の額に落ちる。花弁はそのまま二人の体の中に吸い込まれた。奈々がはらはらして見守っているうちに、二人がうめき声をあげ、音々の方が先に目を開けた。音々の目はまず妹を見遣り、それから少し年の離れた姉の姿を捉えた。
「奈々姉ちゃん……?」
「音々!」
「あれ、私……」
奈々は双子を両腕にかき抱いた。妹たちはまだぼんやりした様子で、なぜ姉が泣きながら自分たちを抱きしめているのかについてはまるで覚えのない様子だった。京姫と青龍とは微笑み合う。と、奈々にとっては嬉しい出来事がもう一つ。扉の開いた音がしたかと思うと、「ただいまー!」と大きな声を張り上げて、弟の悠太が飛び込んできたのである。悠太は遠慮せずに、双子の間に割り込んで、姉の首にしがみついた。
「悠太!あんたどこ行って……!」
「ななねえちゃん!すごいんだよ!このおねえちゃんたちね、ヒーローなんだよ!わるいくもからぼくを守ってくれたの!ねっ、すごいでしょ?!」
奈々がきょとんとして見遣る前で、京姫と青龍は変身を解いた。
「えっ、す、鈴、螺鈿に渡しちゃったんですか?!」
「うん……あー、やっぱりまずかった?」
妹弟たちのためにオムライスを作ってやっている奈々の後ろで、舞と翼は危うく卒倒しかける。テディベア姿の左大臣は双子と悠太によってうさぎのぬいぐるみと戦わされているので、その衝撃的な知らせは耳に入っていない様子であった。
「そ、それで螺鈿は?」
「そのまま持ってっちゃった。でも、その鈴って一体さっきの話とどう関係があるの?」
「その鈴で変身するんですよ!ほら、あたしたちも……!」
舞と翼は首から下げたそれぞれの鈴を奈々に示した。奈々はフライパンを動かす手を休めずに、間近に顔を寄せてその鈴を見た。そして、「あー、まずったなぁ」と呟く。ただ、その口調はどことなく暢気である。代わりにあせりだすのは翼だ。
「まずったなぁ、じゃなくて!とにかく鈴を取り返さなくちゃっ!!」
「翼ちゃん、落ち着いて。どっちにしろもう今日は無理だよ。螺鈿もいなくなっちゃったし」
「舞ちゃん、霊力でなんとか探せないのっ?!」
「そんなこといわれても……」
「おーい、みんな、ご飯だよ!」
奈々の言葉に、音々、美々、悠太は歓声をあげて左大臣とうさぎとを放り出し、食卓の周りに集まった。できたてのオムライスを三人が食べている間、舞、翼、奈々、それからへろへろになった左大臣は、和室で向かい合った。そこで、奈々は改めて、舞たちから京姫、四神、前世のこと、漆のこと、螺鈿のことを説明された。
「とにかく一刻も早く鈴を探さなくちゃっ!螺鈿のやつが鈴を壊しちゃうかも……!」
翼の焦燥を、左大臣はテディベアながらに落ち着いた態度で押しとどめた。
「まあ、待ちなされ、翼殿。鈴の破壊が目的なら、恐らくその場で行ったはずですぞ。それに、その鈴は試してみればわかりますが、容易に壊れる代物ではありませぬ。たとえ螺鈿の火の中で炙ったとしても傷一つくわえられますまい。それよりも案じられるのは、螺鈿の奴が鈴を用いてなんらかの呪術を行おうとすることです。わたくしにはこちらの方が、可能性が高いように思われてなりませぬ」
「じゅ、呪術って……?」
舞が尋ねると、左大臣はこほんと咳をしてから言った。
「詳しいことはわかりかねますが、鈴はそれぞれの持ち主の前世での霊力の結晶。その鈴の力を持ちいればどんなに強力な呪術を行うことも容易いことでしょう。もしかすると、それは漆を蘇らせる儀式かもしれませぬし、または、まったく別のものかもしれませぬ」
「だったら、急がないとっ……!」
「落ち着きなされ、翼殿。呪術というものはその呪術が強力であればあるほど、制限がかかるもの。日取りや天候などに大きく左右されまする故、いますぐに螺鈿がどうこうするという心配はないでしょう。しかし、翼殿の言う通り、鈴は取り返さなくてはなりませぬ。奈々殿の覚醒にはあの鈴が欠かせないのですからな。察するに、奈々殿は、京の北の守護者であり、冬を司り草木や土を自由に操られる玄武かと思われます。今すぐという訳には参りませぬが、できるだけ早く、鈴を取り返さねばなりませぬな」
「奈々さん……っ!」
翼は奈々の方に膝を寄せて、畳に無造作に降ろされていた奈々の左腕に縋りつく。
「奈々さん、一緒に戦いましょうっ!漆のやつが世界を滅ぼそうとしてるんです。この町の人たちの命も危ないんです!現に悠太君も……奈々さん、お願い!必ず鈴はあたしたちが取り返しますから……!」
「もちろん!……と、言いたいところなんだけどさ」
奈々は頬を掻いてそっと翼から目を逸らした。
「ごめん、なんかまだよくわからなくて……そうね、鈴は取り返さないとね……どうやら、そうしなきゃいけないことは分かってるんだけど。いや、その、戦いとか、とてもあたしには……」
舞は急いで声をあげた。
「そんなことありません。私だって、急になにがなんだかわからないまま巻き込まれたけど、今までなんとかやってきました!」
「あたしもです!だって、奈々さん……!そうしなきゃ、皆が傷つくんですよ?死んじゃうかもしれないんですよ?!」
奈々は黙りこんだ。その沈黙が決してよい返事ではないことを、舞たちは知っていた。奈々の瞳の表情は、眼鏡が反射してしまっているせいで見えないけれど、噛みしめた唇のほの白くなった部分が表しているものはよくわかる――
(奈々さんは怖がっている。自分の力なんて信用できないまま。自分に世界を守れる力なんてないって思ってる。当たり前だ……私だっていまだに自分の力なんて信じられてないんだもの。それに、戦うってとても辛いことだもの……とても、無理強いできないよ……)
「ななねえちゃんはヒーローにならないの?」
いつの間にやら襖から覗きこんでいた悠太が尋ねる。口の周りをケチャップと卵まみれにして。その背後で聞き耳をたてていたらしい音々と美々が、悠太を叱りながら引っ張って行こうとする。それでも悠太は襖から離れようとしなかった。
「どうして?ぼく、ななねえちゃんもヒーローになったらいいのに、って思うよ。ぼくも戦いたいな」
「悠太……」
奈々が両手を差し出すと、悠太は双子の姉の手を振り払って、奈々の胸にとたとたと寄って来てその膝の上に腰をおろした。奈々はティッシュでその口元を拭ってやったまま、手の中で丸めたティッシュを屑籠には放り投げずにそのまま握りしめていた。悠太の重みに温められながら、俯く奈々は何を思うか。
「奈々さん!!」
「翼ちゃん……!」
制止されて舞の顔をはっと振り見た翼に向かい、舞はゆっくりと首を振った。舞の意味するところがわかってか、翼は紡ぎかけた言葉を呑みこんでしまう。舞は、これ以上自分たちはなにも言うべきでないと諭したのであった。左大臣もまた、舞の意を汲んでか、奈々に険しい目をじっと向けるばかりである。七畳の和室に、舞と、翼と、奈々と、左大臣と、そして悠太と音々と美々と。七人もの人間が集まって、囲炉裏を囲うように、奈々の運命を囲んでいた。あるいは、この町の、あるいはこの世界の運命を。まるでその七人の間で全て片が付く問題であるかのように。奈々は、静かに悠太の日焼けして茶色くなった髪を手で梳いていたが、ある瞬間になってふっと微笑んだ。
「あたしはヒーローにはならないよ、悠太」
その言葉に瞳を揺らしたのは悠太ばかりではなかった。
「あたしは戦えない。ヒーローにはなれないんだ。ごめんね、悠太…………あたしはただの中学生で、ただの……ただの絵描きだもん……」
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