7-6 「四神の鈴を寄越しな」

「左大臣は大丈夫かな?」

「平気でしょっ。あっ、ほら、走ってくるの、そうじゃない?」

 眠ってしまった悠太を京姫が抱きあげる傍らで、青龍は道路の向こうから駆けてくる狩衣姿の老人にむかって手を振った。

「左大臣ー!こっちこっち!」

「……ねぇ、青龍。どうして螺鈿は姿を現さなかったんだろう?」

 京姫はふと最後の残照に向けて顔を上げる。鮮血のように燃える西の空を、炭のような烏の影が横切っていく。一陣の風が吹いて、京姫の長い髪を揺らした。

「姫、なにを心配してるの?」

「わからない……でも嫌な予感がする。なんだかとっても嫌な予感が。ねぇ、もしかして……」


 天頂には星が瞬きはじめている。京姫は思い出す。幼いころ、司が事故に遭った日のことを。あの日もこんな夕焼けだった。世界の終わりみたいな、恐ろしいほどに美しい夕暮れ――救急車の音が響いていて、家々の沈鬱な壁に赤い光を投げかけていた。舞は母親に抱きとめられながら必死に泣き叫んだ。司が連れていかれてしまうような気がして。ぞっとしたのは、急に冷えはじめたせいではないだろう。電車の音が背後から聞こえてくる。一時的に止まっていた電車も動き始めたらしい。町のざわめきが、光が、戻り始めている。だというのに、なぜこんなにもあらゆるものが遠く感じられるのだろう。


 舞は幼子の温もりに縋るよう、ぎゅっと抱きしめた。その胸元で鈴が大きく鳴った。


「舞ちゃん……!」

「やっぱり……!」


 舞と青龍とは走り出した。舞が変身を解いたので、強制的にテディベアの姿に戻された左大臣は、通り過ぎ様に青龍に腕を引っ掴まれて、風に小さな体を靡かせながら、なにごとかと目を白黒させた。


「ひ、姫様?!青龍殿?!」

「左大臣、騙された……!」


 舞の言葉に左大臣は手足をじたばたさせるのをやめた。


「なんですと?」

「おかしいと思ったの。なんで蜘蛛だけ現れて、螺鈿がでてこないのか……蜘蛛は囮おとりだったんだよ!螺鈿はきっと、なにか他に目的があって、私たちが戦ってる間に他の場所に現れたの!」

「し、しかし、一体どちらに……!」


 舞は立ち止まって目を瞑る。


(落ち着いてやれば、大丈夫よ、舞……)


 京姫に再び変身しなくとも、敵の居場所ぐらいはきっとわかるはず。息を吸い込んで、藤娘の歌を口ずさめば、きっと……舞の脳裏にある光景が浮かんでくる。北山――その名の通り、町の北部に位置している小さな山だ。正式名称は誰も知らない。そこから画面が引いて、町の中へ。市役所、花魁井戸……ううん、もっと北の方。住宅街を通り抜けて……見えてくるのは真新しい小さなマンションだ。その一室の窓に見える、女性の影。


「こっち!」


 舞は青龍と左大臣とを導いた。その腕の中に悠太を抱きしめつつ……



「あっれー、いないなー」


 桜花交番をのぞきこみながら、奈々は人目もはばからずに独り言をつぶやいた。その声の大きさたるや、交番前を通り過ぎた人々が思わず振り返るほどであった。入り口の脇には「パトロール中です」と書かれた看板だけが掲げられている。交番の中には、指名手配犯や行方不明者の写真の載ったポスター、あるいは詐欺に気をつけましょうなどという防犯用ポスターが貼られ、勤務用の机と椅子がぽつねんと置かれている。鍵はかかっていなかった。


「翼ちゃんのパパに会えるかと思ったんだけどなー。まっ、いいや。お弁当だけ置いてこーっと」


 と、机の上に弁当箱を置いたところで、奈々は鞄の底が震えだしたのを感じて、開けっ放しのチャックに手を突っ込む。おおよそ世の中のルールに縛られない奈々は携帯電話を学校に持っていくぐらいの罪を、元よりなんとも思っていなかったけれど、両親が共働きで、奈々が妹・弟たちの面倒を見ているという家庭事情も様々あって、奈々が弟の保育園と連絡をとりあわなければならないようなこともあったから、学校が絶対に他の生徒の前では使わないという約束で携帯電話の持ち込みを許可してくれていたのだ。従来型すなわち折り畳み式の、それも男物の携帯電話を取り出して、奈々は母親からの着信を確かめた。


「もしもし、ママ……?」

「奈々!悠太を知らない?!」

「えっ……?」


 突然の母の言葉の意味が、奈々には理解できなかった。ちょうどトラックが通りかかったところであったので、奈々は聞き返す。


「悠太がどこにいるか知らない?!」

「えっ、だって……保育園じゃないの?今から迎えにいこうと……」

「ああ!それが、あの子、保育園からいなくなっちゃったの!あの子、時々、こっそり抜け出すくせあったでしょ?今日も先生が一瞬目を離した隙に抜け出しちゃったみたいなの!先生たちも探してくれてたんだけど、まだ見つかってなくて……お母さんのところに連絡が入ったの。それに、なんだか今日、駅前で事故があったみたいで心配で……!奈々、まだ外にいるんでしょ?お母さんとお父さんはこれから保育園に向かうから、奈々はとりあえず一度家に戻ってみて。まさかとは思うけど、もしかしたら一人で帰ってるかもしれないし、どっちにしろ音々ねねと美々みみが留守番でかわいそうだから」

「……わかった!」


 言うなり、奈々はさっと手を挙げて、ほとんど行き過ぎようとしていたタクシーを停めた。運転手は奈々の制服にやや胡散臭そうな視線を向けたけど、家の住所を告げると、なにも言わずに車を走らせてくれた。奈々のせっぱつまった様子が運転手を黙らせたのかもしれない。タクシーは交番のある交差点を右折して、しばし北山を正面に大通りを直進した後、六丁目の交差点で左折して住宅街の中へ入り込んでいった。自宅のあるマンションの前で降ろしてもらうと、奈々は紙幣を適当に掴んで運転手の手に押し付けて飛び出していった。「おい、おつり!」運転手は追いかけようとしたが、奈々は早々にマンションのエントランスへと飛び込んでしまった。


「悠太、いるか?!」


 407号室の扉を開けて、奈々は薄暗い部屋の中にむかって怒鳴った。返事はない。電気もついていないということは、まだ誰も帰ってきていないのだろうか……でも、鍵は開いていた。奈々はふと、足元を見下ろした。妹たちの靴がきちんと並べられている。悠太の靴はない。悠太はやはり帰ってきてなどいない。しかし、それなら音々と美々はどこにいったのだろう……もう小学校は終わっているはずだから、とっくに帰っていなければならない時間帯なのに。


「音々!美々!」


 再度怒鳴ったが、部屋は澱んだ沈黙で返す。そういえば、なんだか今日はいつもより空気が澱んでいるような気がする。ごく微かではあるが、溝のような臭気がして、それに混じって麝香の香りが漂ってくる。廊下の奥の扉が開いていて、電気を点けていないリビングが見通せる。音々と美々とやつら、悪戯のつもりだったら容赦しないけど……ああ、せめて、悪戯であってほしい。悠太のことも。奈々は靴を脱ぎ捨てた。


「音々、美々、ただい……」


 顔に吹き付けてきた夜気が奈々の口を閉じさせた。どうして、窓が開いているの?まさか、妹たち、窓から転落したのでは。血相を変えて窓へと駆け寄った奈々が何者かの気配を感じてさっと振り返った瞬間、暗い部屋が突然赤々とした光で照らし出された。奈々は目を細める。家族の団欒の舞台たる食卓の上に腰をおろし、右掌の上に灯り代わりの炎を灯している女性の姿がある。しかし、おおよそその姿は現代人とは思えない。あれは江戸時代の花魁ではないか。


 花魁はくつくつと笑う。炎に頬を寄せ、鳥のように赤く目元を彩った華美な化粧を、闇の中に一層濃く浮かび上がらせて。彼女が纏う打掛は、テーブルクロスの地味なチェック柄を圧して食卓の上を朱色の滝のように流れ、その裾の飾りや、前帯が炎に照らし出されて目のくらむような金色に燃えている。花魁がそっと右手を揺り動かすと、炎はひとりでに奈々と花魁との中間に浮かび上がって、ますます勢いを強めた。花魁はどこからともなく煙管を取り出して、変わらず残虐な目を奈々に据え付けたまま、嗜み始める。


「だ……誰……?!」

「まあ、そういいたくなるのもわかるけどねェ。まずはこいつを見てご覧よ。物言いを改めたくなるに違ちげぇねぇからサ」


 螺鈿が指で空気を弾くと、リビングに隣接している和室の襖がひとりでに開いた。そこに繰り広げられた光景に、奈々は絶句した。たった六畳の和室に互いの脚を絡ませ合うようにして辛うじて収まっているのは、おぞましいばかりの巨大な蜘蛛の群れ。そして、天井から、同じ容貌をした二人の少女たちが、それぞれ体を蓑虫のように白い糸に包まれて、逆さに吊り下げられている。双子の妹は結んだ髪を垂らして、蒼白な顔でかたく目を瞑っていた。


「音々……!美々……!」


 奈々の声は驚きと恐怖のあまりかすれていた。螺鈿は笑い声をたてた。


「大丈夫サ、死んじゃァいないよ。あちきが手を出させなかったからね。でもこれでわかったろう?あちきにどんな口を聞くべきなのか、サ。まっ、そりゃともかくとして、だ。風情はねぇが単刀直入に言うよ。あんたが持ってる四神の鈴を寄越しな。そしたら、ガキどもの命は助けてやってもいい」

「ゆ、悠太は……?悠太はどうした?!」

「さあ、知るもんか。あちきはこのガキ以外見ちゃあいないよ。もう一人ぐらいいたら、確かにあちきの可愛い蜘蛛たちに食わせてやってもよかったけどねぇ」

「ふさけるな!!……なんなの、その四神の鈴っていうのは?あたしはそんなもの持ってない!あの子たちを離してよ!」

「なるほど、お前めぇさんはまだ『覚醒』ってやつをしていないんだねェ。そんなら、無理にでも目を覚まさせてやるよ」


 突如、奈々の周囲を囲うように、炎が上がった。火災報知器がけたたましく鳴りはじめる。なにごとかまだ状況を読みこめないでいる奈々を嘲笑い、螺鈿は食卓の上に優美に立ち上がって、煙管の灰を落としながら、蜘蛛たちに命じた。


「お前たち……食ってもいいよ」

「やめろ!!」


 螺鈿の言葉に、蜘蛛たちはキーキーと声を上げ、あるものは飛び上がり、あるものは鋏をかしゃかしゃと動かして狂喜の体を表した。奈々は蜘蛛の方に向かっていこうとしたが、炎の熱がそれ妨げる。蜘蛛は一頻り喜びの踊りに興じたあとで、吊り下げられた奈々の妹たちの方にじりじりと近づいていった。まるで、奈々をいたぶるかのように。


「ほーら、さっさとしないとかわいい妹たちが死んでいくよ。大丈夫さ。お前が四神だったら、妹たちを助けるために『覚醒』できるはずなんだから。もし四神じゃなかったら、その時はお前も妹たちも死ぬしかないけどねェ」

「なんの話だ!あの蜘蛛どもを止めろ!あたしは関係ないっ!……妹を離せ!!」


 奈々は肩から下げていた鞄を妹たちの周りに集いつつある蜘蛛たちに向かって投げつけた。突然飛んできた鞄に驚いて、蜘蛛たちは一瞬飛びのいた。開けっ放しになったチャックからは様々なものが散らばった。絵具、絵筆、鉛筆、スケッチブック、携帯電話、図書館で借りてきた画集など。続けて、奈々は窓辺に飾られていた鉢植えに目を遣った。妹たちが去年の秋に植え付けたスノードロップの球根は、早春に可憐な花を咲かせていたが、今はすでにひと時のまどろみを得ている。それを投げつけようと思って掲げた時、奈々はふと思い立って炎に向かってそれを叩きつけた。土の力が炎を一瞬弱めた。奈々は靴下の足元に散らばった植木鉢の破片の中に輝くものを見つけると、ほとんど無意識にそれを拾い上げ、炎を飛び越えて再び妹たちの方に群がらんとしている蜘蛛たちの中に飛び込んだ。奈々が手に持っていたものを翳すと、その輝きと音色とは蜘蛛たちを遠ざけた。それは、まさしく四神である証の鈴であった。螺鈿の目が光った。


「アレ」


 螺鈿は煙管の一振りでもはやなんの存在意義もなくなった炎を消し止めると、宙にふわりと浮いて和室の方へと赴いた。奈々は妹と螺鈿の間に立ちふさがって、訳もわからぬままに鈴の輝きを螺鈿に掲げる。螺鈿は目を細めた。


「そいつは、あちきの欲しがってた鈴じゃァねぇか。そいつをこっちに寄越しな。そうしたら約束通り、お前たちの命だけは助けてやろう」

「……これが……?」


 奈々はようよう自分が握っているものに気付いてそれを見つめる。澄んだ音色を高く響かせて震える、黒い鈴。透き通った内部には、亀とその甲羅に絡みつく蛇の姿を模った銀色の宝石が浮かんでいる。美しい鈴だ。だが、単に美しいというだけなら容易に手放す決意もできただろう。この鈴はなんだか懐かしい。それに、奈々の勘が絶対にそれを手放すなと言っている。けれども……


「なんだい。鈴一つを惜しむのかい?かわいい妹たちの命がかかってるっていうのに?お前もつくづく非人情な姉だねぇ……血の繋がっていない妹たちは、やっぱりかわいいとは思えないかい?」


 それを聞いて、奈々の目は怒りのために強く燃え立った。


「バカを言うなっ!!こんなものが欲しいならくれてやる!早くこの場を立ち去って!」


 奈々は鈴を螺鈿に向かって投げつけた。螺鈿はふんと鼻を鳴らしながらも片手でそれを受け取る。二人はしばし無言のうちに睨み合っていたが、やがて螺鈿の方が口の端を吊り上げた。


「いい子じゃあねェか。あの忌々しい小娘どもの仲間にしては。でも、その口の利き方だけは最後までなおらなかったねェ……やっぱり死んでもらおうか」


 それまで動きを停止していた蜘蛛たちが、ごそごそと動き始めた。裏切られた奈々は、その絶望を一瞬露わにしたが、螺鈿の哄笑を聞いて、吊り下げられている妹たちの体を両腕に強く抱きしめた。妹たちには指一本触れさせない。あたしが守る――螺鈿は鈴を手に入れて、もはや奈々にはなんの関心も持てなくなったようであった。開け放った窓からその身をすらりと滑らせて夜空へとのぼる。螺鈿は夜風に心地よさそうに表情を緩ませた。


「やはり、夜はいいねェ。夜こそがあちきの時間だ。さて、四神の鈴も手に入れた。あとはただ準備を進めるだけ……」


 螺鈿は半月にも足りぬ月に凭れ掛かり、笑い声を響かせる。


「全て焼き尽くしてやる……あの漆という野郎も。あの夜、わたしが……」


 螺鈿はさっとこめかみの辺りを抑えた。鋭い痛みがそこに走ったのである。同時に思い出しそうになる。記憶の奥底に封印してしまったはずのことを。螺鈿はぎりぎりと歯を鳴らした。唇の紅が憤怒で歪んだ。


「けっ、つまんねぇことを!」


 螺鈿は腹いせと言わんばかりに、手を大きく振りかざした。すると、真下に見ていた家々から焔が上がってたちまち燃え広がり、殺風景な夜の街に鮮血のように赤々とした花を咲かせる。虫けらのように矮小に見える人々が、叫び、騒ぎだしはじめる。螺鈿はそれを見て満足げににやりと笑うと、西の空へと消え去った。

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