7-5 「正義のヒーローよ」


 雑貨屋「白のアトリエ」の女主人・風間凛かざまりんは、天井に向けて大きく伸びをした。今日は退屈だ。少しも客が来ないし、いつもなら保育園に弟を迎える途中で自分の作品が売れたか確かめにくる奈々も来ない。ふうと溜息をついて、凛は肩をまわし、少し外の空気でも吸いにいこうかと思った。このごろなんだか頭が重いのは、どうも目を使いすぎるのが原因らしい。アクセサリー作りは細かい作業であるし、仕事ができるのは夜のうちだから、つい目を酷使することになる。外に出て、緑でも眺めてこよう。


 外に出た凛は、突如店の軒からつつと下がってきたものの影に視界を塞がれた。疲れた目を瞬かせてみる。もし見間違いでなければ、それはおぞましい大きさの蜘蛛……


 悲鳴をあげて、店の中へ逃げ込もうとする凛を、蜘蛛の足が捉えようとする。凛は飛び込んで店の扉を閉ざそうと試みたが、閉ざしかけた扉の隙間に蜘蛛の足の一本が差し込まれる。パニックになり、自分でも訳のわからぬ言葉を喚きながら、凛は全身の体重を扉にかけた。その必死な攻防の振動で、商品や壁にかけていた絵が床に散らばったが、今の主人にはそんなことすら目に入らない。


「いやぁっ!!いやぁっ!!助けで……誰かあっ!!」


 蜘蛛の脚が引っ込められると、主人は何も考えずに扉の鍵を閉ざした。そのまま、床にへなへなと座り込み、息を整える。涙がとめどなく流れる。叫んだ喉がひりひりと痛む。それに全身がじんじんする。


 蜘蛛のやつはどうしたのだろうか?凛が窓からそっとのぞき込んだとき、目の前の通りにいた蜘蛛の体の上に銀色の稲妻のようなものが閃いて、蜘蛛の体が真っ二つに裂けた。凛はぱっと口を覆う。蜘蛛の体から臙脂色の血がどくどくと流れ出して、「白のアトリエ」の扉の隙間を縫って凛の足元までひろがっていく……女主人は気を失った。


 京姫が仗を振るうと、蜘蛛の死骸と血液は桜の花弁となって消え去った。駅前通りは阿鼻叫喚の地獄絵図だ。突然現れた巨大な蜘蛛たちに、人々は悲鳴をあげて逃げ惑っている。蜘蛛は恐らく螺鈿のしもべであろうが、前回見たときよりも幾分小ぶりに見えるのは気のせいか。それに火を吐きだしもしない。彼らは人々を捕らえんとして糸を吐き、牙で店の硝子を割り、車を踏みつぶした。京姫と左大臣とが必死に蜘蛛の横暴を食い止めたおかげで、なんとか怪物の口の中に桜花市民が入ることをすら免れているものの、怪我をしている人は多く見られた。蜘蛛の一体がスーパーの屋根から飛びかかってきたので、京姫は仗を高く掲げて桜吹雪を唱えた。蜘蛛の姿は花となって消えた。


「ぜ、全部で何匹いるの……?!」


 京姫が尋ねると、左大臣は身軽にもパン屋の屋根の上に飛び上がって、駅前通りを見渡した。


「ここから南側に二匹、北側に三匹おります」

「螺鈿は?!」

「見えませぬ!恐らく近くにいるとは存じま……むっ、南側にいた奴らが駅の方に向かって動きだしましたぞ!」

「私がそっちを倒す!左大臣は他のやつらをお願い!」

「承知いたしました!」


 二人はそこで別れ、京姫は駅の方へと駆けだす。青龍は気付いているだろうか。早く来てくれれば心強いのに……!日はもう西に傾きはじめている。



「いやー、すっかり遅くなっちゃったー。翼ちゃんお疲れ!」

「ど、どうも……」


 ずっと同じ姿勢でいたために体が固まっている翼は、表情まで強張ってしまっていた。もうくたくただ。それに今何時だろう。そうだ。早くお父さんのお弁当届けなきゃ。お母さんも誕生日パーティの支度をして、待っててくれているはずだし……そんな心配も、奈々がきらきらした目でスケッチブックに見入っているのを見ると、なりを潜めてしまう。この人は本当に絵が好きなんだということがよく分かる。


「ふふっ、おかげでなかなかいい絵になりそう!そうだ、今日誕生日なんでしょ?じゃあ、誕生日プレゼント!出来上がったら渡しにいくね」

「えっ、でも……!」

「心配しないで!ちゃーんときれいに色をつけて、立派な絵に仕上げておくから!家に帰ったらさっそくやろーっと」

「いや、そういうことじゃなくて……」


 だって、個展を開くような人の絵を無料ただでもらってしまっていいのだろうか、翼は案じたが、奈々はすっかり想像の絵具を取り出して、もう辺りが暗くなり始めてきたにも関わらず、スケッチブックの上で筆を動かし始めているようだった。翼は少し笑った。それから、父親のためのお弁当の包みの方へと近づいた。


「ありがとうございました、奈々さん。じゃあ、あたしはこれで」

「えっ?あぁ、帰るんだね」

「というか、お父さんにお弁当届けにいかなくちゃ……」

「えっ、今から?」

「はい。あたしのお父さん、今日は夜勤なんです。桜花交番に勤めてるんですけど、さっきお弁当つく……」


 翼は口を噤んだ。ごく微かな音ではあるが、鈴が鳴っている。どこかに敵が現れたのだ。「奈々さん、じゃあ、また!」叫んで翼は駆けだした。奈々が呼び止めるのも聞かずに。


「あっ、翼ちゃん、お弁当……!」


 後に残された奈々はぱちぱちと目を瞬かせて立ち上がり、お弁当の包みを手にとった。どうしたのだろう、いきなり走っていってしまったりして。待っていたら戻ってくるかしらん?奈々は十分ほど待ってみたが、やはり翼は帰ってこない。そうこうするうちに、日はどんどん暮れていく。そろそろ帰らなくては。今日は「白のアトリエ」には寄れないなぁ。


「あっ、そうだ。ついでにこれ、届けてあげよっかな」



 京姫は今、町に渡された十字路のうちの南端にあたるところを、蜘蛛を追って走っている。二匹の蜘蛛が向かう先には桜花駅がある。人々はすでに騒ぎを聞きつけて逃げ去ったと見えるが、駅にはまだ人がいるはずだ。電車にでも損害をくわえられたら溜まったものでもないから、京姫は痛む足にも脇腹にも鞭打って、懸命に走り続ける。もしかしたら、駅には舞の父親もいるかもしれないのだ。


 蜘蛛のうちの一匹に追いついた京姫は、必死に嫌悪感をこらえて覚悟を決めた。仗を地面に突いて棒高跳びの要領でひらりと飛び上がり、蜘蛛の細かな毛でびっしりと覆われた胴体の上へと飛び乗る。足元から寒気のようなものが駆け上ってきた。半泣きになりながら、京姫は一刻もはやくこの状況から逃げ出すべく、仗の先で蜘蛛の頭を突き刺した。蜘蛛は黒板を引っ掻いたような、耳障りな声をたてる。続けて同じ場所に二度、三度と仗を突き立てると、蜘蛛は電柱にぶつかって、乗り捨てられた車を数台巻き込みながら、コンビニエンスストアへと突っ込んだ。京姫はその蜘蛛の体の上から華麗に舞い上がり、潰された車の上に着地して、仗の先の水晶を砂塵と瓦礫に埋もれてぴくぴくと動いている蜘蛛の胴に向けた。


『桜吹雪っ!』


 蜘蛛の姿は掻き消えた。落ち着いてやれば、大丈夫よ、舞……京姫は自分にそう言い聞かせて、もう一匹の蜘蛛の姿を探す。駅まではあと数十メートルのところまで来ている。駅のホームで人々が騒いでいる声がここまで聞えそうなほどだ。でも、京姫が立っている地点と、駅までとの間に蜘蛛の姿は見えない。ただ、置き去りにされた車と、がらんどうになった店が並んでいるだけだ。


「どこにいったの……っ?!」


 その刹那、京姫は車から飛び降りた。車の影に潜んでいた蜘蛛が、ちょうどその場所に向けて糸を吐き出したところであった。蜘蛛は車を押しのけて、京姫に襲い掛かってくる。京姫は蜘蛛の脚を仗で弾きかえし、糸を吐こうとする口に仗を押し込んでそのまま蜘蛛の胴体の下に体をすべり込ませて真下から仗を突き上げた。仗は蜘蛛の口蓋から頭へと貫通した。


 「うわっ!」


 蜘蛛の体が崩れ落ちて来たので、京姫は慌てて仗を引き抜いて足の間から這いだした。間一髪であった。逃げ出さなければ押しつぶされていただろう。一息ついた京姫は、ふと見た商店のショーウィンドーの奥に他ならぬ人間の姿を見出した。最初はそれを、ガラスに映った自分自身かと思った。しかし、それはまだ幼い少年で、京野舞とは明らかに別人であり、電気の消えた店内で、うさぎのぬいぐるみを抱きしめたまま、恐怖に満ちた目で戸外の光景を見つめていた。京姫はすぐさま商店の中に駆け込んだ。元々は洋服屋であったらしいその店の中は、恐らくは蜘蛛が暴れまわったせいでマネキンやらハンガーにかけられた洋服やらが乱雑に散らばっており、それを踏み分けていった先の試着室のカーテンから、少年は姿を見せていた。京姫が近寄ると、少年はびくっと身を震わせてぬいぐるみを取り落とした。京姫はそれを拾い上げてやった。


「大丈夫?」


 京姫が尋ねると、少年は大きく見開いた目で京姫を数秒間見上げたのち、ぬいぐるみを奪い取るようにして受け取り、それから京姫の膝へと抱き付いた。年の頃は四歳か五歳ごろといったところだろうが、こんな小さな子供が婦人向けのブティックに一人で来ていたとは思えない。きっと母親とはぐれてしまったのだろう。よっぽど怖かったに違いない。京姫は優しくその頭を撫でてやる。


「よしよし、怖かったね。もう平気よ、大丈夫。お姉ちゃんが悪い怪物はやっつけちゃったからね」


 それから京姫はひょいと少女の体を抱き上げた。少女は尚も京姫の肩に縋って泣く。


「さあ、お母さんのところに行こう。お名前言える?」

「ゆ、悠太……」


 少年はくぐもった声で言った。大きな目から涙が零れ落ちていく光景には、京姫もたまらずもらい泣きしそうになってしまう。


「悠太君、お母さんは?」

「マ、ママはお仕事なの……ぼく、ほいくえんにいたの。お姉ちゃんがおむかえきてくれるから。おすなばでひとりであそんでたんだよ。みーちゃんもたけおくんも、ママがきちゃったんだもん。あそぶおともだち、だーれもいなかったんだよ……」


 京姫は辛抱強く聞くことにした。悠太と名乗る少年はそこでしゃくりあげた。


「でも、おすなばであそぶのもつまんないから、先生にばれないように、こっそりお外にでたの。ぼーけんごっこしようとおもって。いつもやるんだよ!でも、りかせんせいにばれるとおこられるから、こっそりね……それで、ぼく、このおみせのまえまできたんだけど、きゅうにみんなが『わーっ』って言って、にげだしたの。ぼく、びっくりして立ってたら、急にでっかいくもが走ってきて。ぼく、ここにかくれたの。お姉ちゃんは……」


 激しい振動とともにガラスの割れる音がする。京姫は咄嗟にガラス片から少年を庇った。少年を胸にきつく抱きしめ、振り返って見てみると、蜘蛛がショーウィンドーを突き破って、血の噴き出ている頭を店内へと突き入れようとしているところだった。少年が悲鳴をあげる。京姫は少年を試着室に突き戻すと、「大丈夫よ、守ってあげるからね!」とささやいて、ぬいぐるみを拾ったときに地面に置いておいた仗を拾い上げようとした。と、蜘蛛の糸が京姫より先に仗を奪った。「あっ!」と声をあげた次の瞬間、京姫は蜘蛛の脚に薙ぎ払われていた。京姫は、マネキンの折り重なっている上に落ちた。


「悠太君……っ!」


 蜘蛛の血は、床に散らばっている洋服の色を染めた。蜘蛛は窓枠におさまりきらない巨体を無理に押し込むようにして、店の中に入り込もうとしている。駄目だ。なんとか外に誘き寄せないと、悠太が巻き添えを食らう。京姫はなんとか立ち上がり、上半身だけになったマネキンを蜘蛛の頭部に投げつけた。そして、ショーウィンドー脇のガラス戸の方へ廻りこもうとする。


「こっちよ!こい!」


 だが、ガラス戸を突っ切ろうとする京姫を、蜘蛛が塞いだ。蜘蛛はすでにそう大きくはない店内に身を滑り込ませることに成功して、かしゃかしゃと鋏を鳴らしながら、怒りに満ちた八つの目で京姫を睨んでいる。しかし、仗を奪われてしまった今、京姫には対抗する術がない。足元に転がっていた電話の子機やら、店のファイルやらを次々に投げつけてみたが、大した効果がないことは京姫もよくわかっていた。


(まずい……私はともかくとしても、悠太君が……!)


 悠太のすすり泣きが聞こえてくる。その声を聞くだけで、京姫の胸は痛い。なんとか仗を取り戻さなければ。仗は蜘蛛の血に濡れた口元に咥えられている。仕方がない。京姫は、様々な形の帽子を飾り付けていたスタンドを、まだ帽子を引っさげたまま持ち上げた。こうなったら賭けだ。一か八かやってみるしかない。


 京姫は帽子掛けを槍のように構えて蜘蛛に向かって突進しようとした。ところが、京姫が二、三歩駆け出すか駆け出さぬかのうちに、『青海波っ!』と叫ぶ声がして、蜘蛛の体が清らかな水に包まれ、泡となって消えた。消滅した蜘蛛の巨体の奥に、凍解いてどけを構える青龍の姿があった。


「青龍!」

「なによ、それ」


 青龍は帽子掛けを構えている京姫を見て吹き出した。京姫は姿見に自分の格好を認めて顔を赤らめる。


「しょうがないじゃない!ロッド、とられちゃったんだもん!」

「もうっ、しっかりしてよねっ!ところで、姫、なんでこんなところにいるの……?」


 京姫は慌てて試着室の方を振り返った。悠太はどうやら敵を倒したらしいことを物音で察したのか、恐る恐る顔をのぞかせていた。「悠太君!」京姫は悠太をぎゅっと抱きしめた。


「今度こそ、本当に大丈夫だよ!さっ、おうちに帰ろう!」

「お姉ちゃんたち、ヒーローなの……?」


 悠太の問いに、京姫と青龍は顔を見合わせて苦笑し、それから二人そろって屈みこみ、悠太の頭を撫でた。


「そっ。お姉ちゃんたちは正義のヒーローよ」

「すごーい!」


 瞳を輝かせていう悠太に対し、青龍はこそばゆそうであった。京姫はくすくすと笑った。

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