第八話 少女たち

8-1 「京野、お前に聞いてるんだ」

 ぱしん、という乾いた音と、パーンという華やかな音とが、同時に響いた。翼はなにがなんだかわからぬまま、玄関に腰をついて茫然としていたが、クラッカーのテープを頭の上から浴びせられて我に返る。打たれた頬に手を宛がいながら立ちはだかる人影を見上げると、三角帽を被り、鳴らしたばかりのクラッカーを持って怒り狂った母親と、その背景に同じく三角帽を被り、クラッカーを手にあきれ返った様子の、祖父、祖母、姉二人の姿が見えた。翼はどうやらビンタと祝福とを同時に受けたらしい。


「えっ……?なに?」

「つ、翼、誕生日、おめでとう……!」


 後ろの四人がそろわぬ声で言うと、続いて降ってきたのは母親の怒号だった。母親は容赦なく襟首を掴んで娘を引っ立てた。その剣幕たるや。さすが犯罪者相手に張り合っていただけのことはある。


「てめぇの誕生日だっていうのにこんな遅くまでどこほっつき歩いてたの、このバカ娘が!」


 と言ってから、母親は急に涙ぐんで翼の肩を抱き寄せる。


「お、お母さん……?」

「翼、お母さんは心配してたんだよ。駅の方でなにやら事故があって、怪我人が出たっていうし、六丁目の方では何軒も火事に遭った家があるっていうし。それに連絡もとれないから」


 祖母が説明すると、母親はますます翼を抱きしめる腕に力を込めた。抱きしめるというよりは、しがみつくに近い。翼はその愛が嬉しかったし、非常に申し訳なくも思ったが、いい加減離してほしくもあった。


「お母さんだけじゃないぞ、翼。わしらも随分心配したんじゃぞ」

「ごめんなさい、おじいちゃん、おばあちゃん……とっても大事な用があったの。あのね、駅前の事故に巻き込まれた男の子を家まで送り届けてたの。それで……」

「だとしたって、連絡ぐらい寄越しなさいよっ!」

「お、お母さん、耳元で怒鳴るのやめ……痛い、痛い、痛い!つねらないで!!」


 青木家の末娘への祝福は、例年より少々手荒かった。しかし、かくして、翼は十四歳となったのである。





 苧環おだまき神社の拝殿の一室に、その人は憩っていた。長い眠りから目覚めるべく。長い眠りを以てしてもついに癒しえなかった傷を癒すべく。部屋の中には白いその人の口元の輪郭ばかりが浮かび上がり、あとは、その人が着る黒い直衣が色こそ紛れども、悪鬼、悪霊、その他つまらぬ落ちぶれた神どものざらついた呼吸を溜めたざらついた闇の中に唯一違う質感を示して艶やかに流れているのが、触れればそれとわかるだけ。そして、その衣にすら触れられる人はただ一人であった。


 漆は天井を仰いだ。慣れた目には、長い間放置されている間に湿り気を帯びて膨らんだ梁と、そこを伝っていた鼠どもの足跡も見えるかもしれないけれど、今見上げる人の眼はいまだに煙に焚かれたような濁りを帯びている。ただその瞳は、憎悪と、人々が恒久と呼ぶところに含まれているあまりにも長い年月の間にそれすらも弄ぶことできるようになった残忍さとを、映すことはできる。彼は脇息に凭れ掛かったらその後、自らの力では容易に起き上がることすらできない己への憐れみを、己への蔑みを、ただ一人の少女への殺意の薪としてべ続ける。その炎はやがて、この世界全てをも燃やし尽くすのであろう。かつてその人は確かにそれをし遂げたのだから。終末は、彼が見届けぬところで訪れたのだけれども。


「漆様……」


 襖の奥に衣擦れの音がする。入るように命ずると、芙蓉の薄色の髪と人形のそれのような面とが、その上に被せていた布を取り払ったかのように現れた。芙蓉は恭しく頭を下げる。


「どうした?」

「螺鈿の奴がなにごとかを企んでおります」

「企んでいるとは?」

「仔細はわかりかねます。ただ、新たに見つけた四神の鈴を奪い取ったのちに行方を眩ませました。わたくしの式神に追わせているからには、すぐに見つかりましょうけれど……始末いたしますか?」


 漆は冷たく微笑んで、芙蓉を嗜める。そんな風に戯れるとき彼らはいつも、猫が獲物をいたぶるときのように、無邪気な心のうちに、その爪先の鋭さを、爪先にこびり付いた血の香りを、ひけらかさずにはいられないようだった。


「これこれ、芙蓉。せっかくお前が苦労して蘇らせたものを、もう始末しようというのか?お前もつくづく殺生なやつだ」

「でも、漆様……!」


 漆の戯れに絆されて、芙蓉の口調には媚びるような柔い音が加わった。漆が手を伸べると、芙蓉は膝をいざり寄せて主人の元に身を寄せた。髪を梳かれ、耳朶に触れられ、芙蓉は息を零しながら目を閉じる。


「漆様……」

「案ずることはない。あんなはしために一体なにができるというのだ?泳がせておいても危ないことはなかろう。いよいよという時にはお前が手を下せばいい。お前が私についている限り、遅すぎるということにはなるまいよ……ところで、芙蓉、傷は治ったか?」


 長い芙蓉の髪を滑って、腰のあたりへ、それから更に腿へと滑っていこうとする漆の手を、芙蓉は抑えて咎めるような視線を主へ向けた。


「よくなりましたわ。もうお返ししてもよろしいのですけれど……この体」

「……無理をするな」

「漆様こそ……」


 芙蓉はそう呟いた唇を漆の肩に押し付けた。それが彼女の出来るせめてもの抗議であったから。しかし、螺鈿のやつ、あれだけ手をかけさせておいて、もし漆様に歯向かうような素振りを見せでもしたら……芙蓉は立ちのぼってくるものを堪えるべく両腕で漆の肩に縋った。それは怒りばかりではなかった。



 舞、美佳、恭弥、司の四人は、机を寄せて集まって、今週木曜日の社会の時間に行われる中間発表のために準備を進めていた。舞はついこの間見にいった「恋合阿古屋心中」のあらすじの載った歌舞伎の筋書きを持ってきていて、それを回してはみたが、美佳と恭弥はきらびやかな舞台の写真だけには興味を示して、あらすじの頁を開くと、もう訳がわからないという風に冊子を閉ざしてしまった。司だけは、どういう感情を示しているのかは不明だが、怪訝な顔をしながらもきちんと筋を読み通していた。現段階で、きちんと調べ学習を行っているのは、舞と翼だけのようである。恭弥と美佳は舞がまとめてきた話を聞いてひたすら感心しているだけだった。


「さっすが、舞!きちんとやってるわねー。これで安心だわー」

「美佳、ほんっとになんにも調べてないの?」

「だーって、ついこの間まで試合だったのよ?とーっても無理だって」

「ゴールデンウィークがあったじゃない……」

「ところで、翼のやつはどうしたんだよ?サボりか?」


 恭弥がきょろきょろ周囲を見回して翼の姿がないことを確かめてから言う。


「つ、翼ちゃんはちょっと用事があって……」

「なんだよ、それ」

「ほ、ほら、学級委員だったり、なんなりで……!」

「でも佐々木も学級委員じゃねぇかよ。あそこにいるぞ」

「え、ええっと……」


 同じく二年A組の学級委員である佐々木という少年を指さして恭弥が言うと、舞はすっかり慌ててしまう。どう言い訳したものか。その時、はからずも美佳が声をひそめて助け船を出してくれた。


「そういえばさ、聞いた?先週の金曜日に、駅前で事故があったでしょ?佐々木のやつ、本当に見たんだって」

「……見たって何を?」


 珍しく司が反応してみせたので、美佳は一瞬意外そうな顔をみせた。一方で、舞は話の行き先がどんどん怪しくなっていることに、焦燥を隠し得なかった。舞は慌てて桜花図書館から借りてきた本を引っ掴み、逆さまになっていることも気づかずにそれを掲げた。


「ええっと、それで、この本のことなんだけど……!」

「ほら、ネットにあがってたじゃない、バカでかい蜘蛛の写真!あれ、合成だのなんだの騒がれてたけど、佐々木のやつ、本当に見たんだってさ」

「そーいえば、あの蜘蛛の写真撮ったの加東の兄ちゃんらしいぜ」

「蜘蛛……?」


 恭弥と美佳が盛り上がっているその間を横切るようにして、司は舞に視線を投げかける。舞は本に集中しているふりをしようとしたが、なにせ表紙が逆さまになっているために全く無意味であった。

「お前も見たのか?」

「……」

「京野、お前に聞いてるんだ」


 恭弥と美佳が急に口を閉ざして舞を見遣る。舞はまだ本を下ろしきれないまま口元だけを覆い隠して、口の中でなにか言葉にはなりきらないものをもごもごと呟いた。


「なによ、舞、あんたも見たの?」

「えっと……」

「お前が教えてくれたんだろう、怪物が現れたから帰れって」

「あっ、あれは、その……」


 司の詰問に舞はたじたじになる。どう返せばいいのだろう。舞としては、漆のことや怪物たちのことはできる限りは伏せておきたいのだ。そんなことが世間に知れ渡ったら、大混乱になるだろうし、なによりも自分が京姫としてそれらと戦っているという事実を誰にも知られなくないのだ。しかし、よくよく考えてみれば、助けを求めることの方がはるかに容易なのだ。なにもたった数人で世界の命運など背負う必要はない。もし、誰かに、もっと力を持った賢い大人に助けてもらえれば……


(信じてもらえっこない……)


 舞は即座にそう思って、それから、そう思い込むことで人に打ち明けることから逃れようとしている自分に気付き、愕然とした。舞はその心の機構を解きあかそうとして胸の中をかき回し、ただ心の底に溜まった砂を、掴んでいくうちから零れ落ちていく砂を、拾い上げただけであった。自分はなぜ人を遠ざけようとしているのだろう。他人を戦いに巻き込みたくないからか。土足で、前世の記憶のなかに踏み込んでほしくないからか。違う、前世の記憶など……舞にとって大切なのは、司との記憶である。今、舞を見つめている人ではなく、幼いころ一緒に笑い合い、泣き合い、泥だらけになって駆け回った人との。誰かの介入が、舞一人ならば漆との戦いによって得られるかもしれない――あるいは取り戻せるかもしれない――なにかを、ぐしゃぐしゃに踏みつぶしてしまいそうで、舞はそれが怖いのだ。


(ああ、私やっぱり信じてるんだ……司とまた会えるって。少なくとも、それをちゃんと願ってたんだね、まだ……)


 そう気付いた瞬間、舞は司の前にいることが急にいたたまれなくなってきた。目の前にいる結城司という少年を紛い物のように感じている自分自身になにかしら後ろめたいものを覚えて。舞はわざとらしい声をあげて立ち上がる。本が床に落ちた。舞の声に驚いて、美佳が飛び上がる。


「な、なによ、急に?!」

「わ、忘れてた!私、その、菅野先生に呼び出されてたんだった!ちょっと行ってくるね!」


 舞のお粗末な言い訳に騙された者は誰一人としていなかったが、舞が飛び出していった理由を追求しようという者もいなかった。美佳は「なーんだか」といって肩をすくめて見せたし、恭弥はすでに司をサッカー部に勧誘することに集中しはじめていた。ただ、司だけは、舞の消え去った後になおも鋭い視線を留めていた。


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