第七話 罠

7-1 アトリエの少女―奈々

 桜花市の西部――というよりすでに桜花市をはずれているところなのだが――は、日本橋から伸びて小田原で東海道と合流し、そのまま京へと続く街道によって縦断されている。この街道こそ、桜花市が江戸時代に宿場町として栄えた由縁なのであるが、今はその道の一部が幹線道路になっていて、かつてこそ旅の疲れからつい桜花町に赴いた人々の足も、車という文明の利器を得たからにはこんなうらさびれたような町には誰一人興味を抱くこともなく通り過ぎていくばかりである。桜花市側から見て幹線道路の向こう側は、それこそ一面野原になっており、草の中に紛れて小さな神社が置かれている。今はあまりに高く伸びすぎた草の影に鳥居も覆われているが、その神――旅路の神は、人に祀られなくなった今なおも確かにそこに坐したのである。そうして、祀られぬさびしさを、目の前を通り過ぎる人々を守ることによって、紛らわせてもいたのだが。


 そんな優しい、小さな神の憂鬱もついに皐月の始めの暁に終わりを迎えた。何者かの社の訪うを聞いて、嬉しげに舞い降りた神の肩を八つの脚が絡めとった。驚きもがく神の背に毒牙が突き刺さる。青ざめ痙攣していくその体を糸がゆっくりと包んでいく……


「まだ食わないのかい?」


 紫煙がこの社の内にくゆるのはこの神社の建てられて初めてのことだろう。人々が絶えず此処に足を運んだころも、そして、叢にさびしく打ち捨てられたあとでさえ、かくも畏れを知らぬ者はいなかった。螺鈿は、埃と蜘蛛の巣に塗れた、壊れかけ狭い社いっぱいにおおよそこの場には似つかわしくないきらびやかな打掛をひろげ、赤く爪を彩った足を暗闇に差し延べている。その背後では子蜘蛛たちがけたけたと喧しい笑声をたててじゃれあいながら、御神体であった鏡をとりあっていて、それが床や壁に叩き付けられたり、あるいは蜘蛛の足に踏みつけられたりするごとにひびわれて破片が散らばるのに、いかにも楽しそうに歓声をあげていた。蜘蛛たちはこんなことの他にも、夜中の幹線道路をぽつりと寂しく走っている車を急襲して、激しい火をあげさせるという遊びにも夢中である。それに、卑しい人間どもの肉は、神と比べれば味は劣るけれども腹が膨れることは確かなのだ。兄弟たちの遊びに入ることのできない一際小さな一匹の蜘蛛は、部屋の隅で昨夜の獲物の骨を転がしていた。螺鈿がそれともわからぬ仕草で手招きすると、蜘蛛はまるで子犬のように骨をくわえてやってきて、螺鈿の手に小さな(兄弟たちとくらべれば)頭をすり寄せた。


「……まあ、好きにおしよ」


 と、螺鈿は、暗い室内を一層陰らせたものがあることに気がついた。「おや」と呟いて、ぽんと煙管の灰を落とすと、遊びまわっていた蜘蛛たちははしゃぐのをやめて、部屋の隅にすごすごと下がっていく。拝殿の扉が音もなく開いて、長い髪を流した女の影がそっと生温い外気とともに入り込んでくる。螺鈿は恭しく頭を下げた。


「これはこれは、芙蓉様……」

「いつまで遊んでるんですの?」


 芙蓉の声は不機嫌である。


「せっかくお前を蘇らせてやった恩はもう忘れたんですの?お前が蘇ってから、月は大分痩せ細りましてよ。いたずらに人間どもを燃やす以外にお前にはすべきことがあるんでなくて?」


 だが、そんな風に芙蓉にとがめられても、螺鈿はさほど動ずる気配はない。却って不遜な笑みを口元の紅に閃かせたほどだった。


「なんですの?」

「いいえ。芙蓉様、あんたがおっしゃることはもちろんわかっていますとも……えぇ……ねぇ、芙蓉様。あちきがもし、例の四神とやらの一人を見つけたとしたらどうします?」

「見つけたのですか?」


 芙蓉の問いかけに、螺鈿ははぐらかすように両方の眉を吊り上げて冷やかに微笑んだ。


「もしそうだとしたら、褒めてもらえますかねぇ?」

「お前の褒美はあの溝のような井戸を出させてやったこと、それで十分でしょう。御託はいいわ。ともかく早く動きなさい」

「仰せのままに」


 芙蓉が夜空に消えていくのを、螺鈿は炎のように光る眼で見守っていた。まあ、優雅な装いをしていても随分とせっかちな人だ。こっちにはこっちの考えがあるというのに。まあいい。どうせあいつらも、燃え尽きて塵と消えるに違いないのだ。燃え尽きて塵と消える――ああ、なんて素晴らしい響きだろう。井戸底に閉じ込められていた折には、夢にも思わなかった。


 と、螺鈿は、どしんという鈍い音と地響きに振り返った。子蜘蛛たちが大きいものから小さいものへと縦に積み重なって、天井から吊るした白い繭のようなものを取ろうと足掻いていた。音は、あの骨で遊んでいた末の子が失敗して、転げ落ちたときのものらしい。すると、兄たちは甲高い声で囃し立てながらその末の子に群がった。所詮は憎悪と悪意ばかりに取り憑かれた化け物の性である。螺鈿は部屋の中央、闇の中にまた一つ、新しく白いものが紡ぎだされる景色を、煙管を嗜む間の余興とした。


「まったく。見下げはてたやつらだねぇ」



「珍しいわね、舞が寝ないなんて」


 桜花駅に降り立った舞は、母親が笑いながらそう言うのにほんの少し拗ねてみせる。歌舞伎座の一階席を取ってきたので、今日は母も娘もめかし込んでいる。舞の母親はきっちりと着物を着こんでいた。


「私だって、そろそろ話が分かるようになってきたもん……!」

「そう。なら、また連れていってあげてもいいかもね。さあてと、お夕飯は何にしようか」


 五月六日木曜日。本来ならばゴールデンウィークの途切れ目ということで授業があるはずだけれど、桜花中学校は本来ならば休みであるはずの先月四月の二十九日に授業を行ったので、今日は振替で休みである。いつもなら友人と行くところであるけれど、今月は珍しく娘が行きたいと言いだしたので、展示会が終わって一区切りついたところでもあるし、娘もちょうど休みであるというので、親子水入らずで東銀座へ向かった。芝居が跳ねてからは寄り道せずに帰ってきたけれど、桜花駅に着くころには六時を少し過ぎたところで、駅前通りは夕食の買い物をする人で賑やかである。


「今日はお父さんとお姉ちゃん置いてきちゃったから、お父さんたちが好きなものにしようかな」

「お父さんだったら鍋焼きうどんじゃないの?」

「そうねぇ、でもそろそろ暑くなってきたからなあ」

「お姉ちゃんは何好きなんだろ……なんでもよく食べるよね」

「お姉ちゃんは昔から好き嫌いないわね、本当に。舞は小さい頃偏食が激しくて、お母さん毎日離乳食作るのほんっと大変だったんだから。お母さん、泣きながらご飯作ってたのよ」

「で、でも、今はちゃんとなんでも食べるでしょ!」

「あなた食べ過ぎよ、動かないくせに」

「ちゃんとお稽古行ってるでしょ!」

「まっ、育ち盛りだもんね……さて、お夕飯、お夕飯っと。そうねぇ、お母さん、今日は豆腐ハンバーグの気分かなぁ」

「結局お母さんの好きなものじゃない……」


 と、舞はある小さな雑貨屋のショーウィンドーに目を留める。ロイヤルブルーの大きなリボンのついたカチューシャが飾られている――青い宝石で飾られたリボンはすぐさま翼を連想させた。そういえば、翼の誕生日、五月七日って言っていったっけ?つまり、明日……?


「あら、かわいいカチューシャ」


 足を止めた娘につられて母親も舞の肩の上から顔を覗かせる。きらびやかな窓に、黒い髪を結い上げた和服姿の母と、明るい茶色の髪にカチューシャをして紺色のワンピースを着こんだ娘の、親子の顔が並んだ。


「なあに、欲しいの?」

「ううん、友達が明日誕生日なの。プレゼントにどうかなって」

「あら、いいじゃない。お金ある?少し出してあげようか?」


 舞は笑顔で首を振った。


「大丈夫!今日は少し多めに持ってきたの。それに、友達の誕生日だから自分で買う!」


 ちょっと待ってて、と言い残して、舞は店の中にぱたぱたと駆けこんでいった。外装、内装ともに白を基調として、そこにセンスよくかわいらしいもの、綺麗なものを飾りたてているその店に、舞は初めて入った。ぱっと見は小さな店に見えるけれど、中に入ってみると案外天井が高くて、白いペンキで塗った木の壁や床が温かい。画家のアトリエという設定らしく、描き掛けの柄が配置してあったり、わざと店内が絵具で汚されていたりして、なかなか面白かった。もっと時間があったら、ゆっくり見ていくのになと思いつつ、舞は目当ての品を手にとるとまっすぐにレジの方に持っていった。


「あの、プレゼントでお願いします!」


 地味ななりだがなんだか気の優しそうな、髪を一つに束ねている女性の店員が丁寧に包装してくれているのを待っていると、舞は壁に掲げられていた絵に見とれていた肩をつんつんと不意に突かれた。母親かと思って振り返って見てみると、そこには見知らぬ少女が立っていた。


 黒い髪を少年のように短く切り込んだ、背の高い少女である。痩せていて、胸の膨らみすら容易に目につかないので、舞の目は一瞬その人の性別がどちらか迷ったほどだ。黒縁の四角い眼鏡に黒いタンクトップ、裾の広がった黒いズボンと、何もかも黒ずくめななかに、眼鏡の奥の瞳だけがマホガニー色。その目が垂れ目で睫毛がふさふさと豊かなので、舞はこの人は女性だろうと判断した。少女はにこやかに、そしていかにも親しげに話しかけてきた。


「ねっ、その絵、気に入った?」

「えっ……?」


 舞はきょとんとした。まるで古い友人に話しかけるかのように、少女は尋ねてきた。けれども、不思議と馴れ馴れしいという感じを与えない。なんだかそうやって話すことの方が、礼儀正しく語りかけてくるより、この人には相応しいという感じがする。少女はにこにこと続ける。


「いやー、じーっと見てたから気に入ってくれたかなーって」

「えっ?あっ、は、はい!とてもきれいな絵だから……なんだか私まで雪の中にいるみたいで」


 すると、少女はいかにも嬉しそうに飛び上がる。


「やったー!ねぇ、凛さん、聞いた?あたしの絵気に入ったって!」


 凛さんと呼ばれた女性の定員は、包装紙を折りたたみながら、舞に微笑みかけ、続いて歓喜している少女にやんわりと言った。


「もう、奈々ななちゃん、いきなり話しかけるから、お客さんがびっくりしてるじゃない……」

「でも、あたしの絵気に入ったって!あの絵ね、スコットランドの森の絵なんだ。お兄ちゃんが送ってくれた写真を元に描いたんだけど、その森のたたずまいがとてもすてきだったの。しんとしてて、雪だけが降り積もってて、多分永遠ってこんな感じなんだろうなって思ったの。だから描いたんだ。あとね、お客さんが買ってくれた、それ」


 と、少女は、すでにラッピングされて姿が見えなくなっているロイヤルブルーのカチューシャを指さした。


「それもあたしのデザイン」

「えっ、お、お姉さんが……?!」


 舞は素直な驚きを口にした。少女は満面の笑みで頷いて、「そう!」と言いながら、舞の両肩に手をのせて揺すぶった。


「そうなの!だから、なんだかすっごく嬉しくなっちゃって!あたしの絵も、カチューシャも気に入ってくれたんでしょ?あたし、すっごく幸せ!ほんと、ありがとう!……あっ、やっばい。こんな時間だ。悠太お迎えにいかなくっちゃ。じゃあ、またね!絶対また会おうね!」


 扉に取り付けられた鈴の音を高らかに鳴り響かせて、嵐のごとく少女が店を飛び出てしまったあとで、女性店員は苦笑を浮かべつつ、舞に詫びた。


「ごめんなさいね。驚いたでしょう、変な子で……でもあれでも、あの子、実はかなり有名人なんですよ。奈々ちゃんっていうんですけど、将来有望の少女画家っていうのでとっても注目されているんです。絵の才能だけじゃなくて、アクセサリーなんかのデザインも得意で。それで、うちのお店に奈々ちゃんがデザインしたものを少し置いてるって訳なんです。それはいいんだけど、才能が偏り過ぎちゃったせいなのか、あの通りすっごくマイペースな変わった子で。まあ芸術家ってそんなものなのかもしれないけれど……あっ、お待たせしました」


 店員から商品を受け取ってからも、舞はやや名残惜しそうに、柔らかな筆致で描かれた、眠れる針葉樹の森と湖の絵を――少女曰く「永遠」――を見ていたが、母が待っていることを思い出して店を後にした。

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