6-4 歌い継がれるもの


いにしえの神々は、暁に消え残る、かの星々。残されしこの身は一人、君を恋ふ……」


 ……美しい調べに、青龍は足を止める。また、姫様が歌っているのか。無暗に歌ってはならないと散々叱られても懲りない方だ。青龍は溜息を吐く。しかし、珍しい、こんな夜更けに……青龍はつい歌声に聞きほれつつある自分を引き留めつつも、それでも柱に寄り掛かって、姫の歌う遠い古のことを、この国のはじまりのことに想いを馳せずにはいられない。青龍が寄りかかる柱の向こうには、寝静まった木々と茂みとが続き、京姫の坐す(姫君曰く、閉じ込められているだけ)桜陵殿おうりょうでんをぐるりと囲う石の壁までの間を、松明の火がぽつぽつと照らしている。その灯りの上を、火を消しかねぬほど涼しげな青い瞳で飛び移りつつ、青龍は物思う。天つ乙女が産んだ御子がこの国に降ろされて、この国の悪しき神々を成敗して帝となり、その血が今日この日まで延々と受け継がれてきた。正しい継承者の血だ。彼もまた。それなのに、なぜ……?青龍は柱に頬をもたれ掛からせる。それなのに、なぜ彼の即位を阻もうという人が現れるの。他の誰にも劣らず、次の皇位を継ぐ権利が彼にはあるというのに。正しい人だ。悪戯好きでやんちゃで、子供っぽいところもあるけれど。あんなに女房や家臣たちに慕われている人もないというのに。どうして彼の命を狙う人があるというの?


 手の届かない人。お傍にいることはできない人。それでもいい。それでも、あの人が、正しくその人が継ぐべき地位に就くことができるのであれば……あたしはただ、遠くから見守っているだけで、もうそれで……


「残されしこの身は一人、君を恋ふ」


「いとせめて、眠れよ、吾子あこよ、めぐし吾子、水底の国、玉藻の国は、がためにこそ作りしものを……」


 ……京姫は一種空恐ろしくなるほど散りばめられた星々を見上げて切なげに瞳を揺らした。今日の宴でこの歌をうたったとき――あの時は、星は出ていなかったけれど――あの人の視線を感じた。あの人は特に何も思っていないような、静かな落ち着き払った目で、ただしきたり通りのことを行う巫女として、姫を見つめているようだった。私だけだったというのだろうか。あの日、桜の下で出会った日、胸をときめかせたのは。突如降り注いで、二人を狭い木の洞の中に留めた雨を、天の慈雨だと見なしたのは。


(せめてもう一度だけでも、言葉を交わせたらな……)


 許されぬ願いが胸を締め付ける。かくも美しい、清らかな恋慕の想いすら京姫には与えられぬはずなのだ。京姫は聖なる乙女の身であり、神の御子にしてこの世の神である帝の妃。本来ならば、かの人との出会いすら在り得なかったというのに。



「天つ乙女、かくりたまひ、清らの御子、あめれましし、神のみこと、幼き御子、星の命を、涙の川に、降したまひき。天つ乙女、宣りたまひしく。は願う。神の命、星の命、玉藻の国をしろしめさんと。吾は願う。吾子がため。君がため。永久にあれ、水底の国。天つ乙女、かく宣りたまひき……」



 左大臣が目を閉じてうっとりと聴き入り、たまたま部屋の前を通りかかった翼の祖父が思わず驚いて足を止める。翼の眠りはますます平らかそうに見えた。舞は気付かなかったけれども、翼の部屋の窓がほんの少しだけ開いていて、椿の垣根越しの人の耳にも、その歌声は神の恩寵のごとく注がれた。ちょうど戸外では、小雨が降り始めていて、しめやかに土を濡らし、椿の葉に透き通った露を結んでいたが、そこに立ち尽くす人は、春の雨が白い制服の肩を灰色に染めるのにすら無頓着に、ただひたすら懐かしさに目を細めている。


 長い金色の髪を伸ばした、少年とも少女ともつかぬ容貌の人である。もしその人を女性とするならばかなり背の高い部類に入るだろう。前髪の一房がかかっている鼻筋はすっきりと通っていて、唇は薄く引き締まっている。頬は白く、薄い睫毛と深い彫のほのかな影とに縁どられた瞳の色はアイスグレー。顔立ちは日本人ばなれしており、凍れる大地に住む人を思わされる。こんな温かな日だというのに裾の長い学ラン姿で、その下に黒いシャツを着こみ、白いズボンのポケットに片手を入れ、もう片方の手で鞄を肩にかけている。その人が雨をさほど感じぬのは、その瞳に影を落としている白い学生帽のせいかもしれなかった。


 歌に聞き惚れていたその人は、何者かの視線を感じたのか、ふと振り返る。と、道路の向かい側にスーツ姿の長身の男が一人佇んでいるのに気がついて、その人は音楽の喜びにやわらかく煌めかせていたその瞳を、突如、不快と軽い敵意とに尖らせた。その人が何も言わずにスーツの男の前を通り過ぎると、男の方も後を追ったが、自分のためには掲げたモスグリーンの傘をついにその人には差し出そうとしなかった。


「こんなところで何をしている?」


 金色の髪のきららかな人が振り返りもせずに尋ねた。男とも女ともつかぬ、チェロの胴の琥珀色を思わす声だ。


「近づかないんじゃなかったのか?敵に気取られないように」

「用心は十分にしている。それにただ近くを通りかかっただけだ。学校帰りに……」

「それで、つい足を止めたと。随分と暢気じゃないか?」


 前を行く人は「黙れ」と静かに返した。この男に何がわかるのだ?自分たちが姫様に寄せる憧憬、愛慕、懐かしさ、切なさ――その歌声がどれほど傷ついた者、孤独な者の心を癒すか。どうしてこの男に分かるというのだ。前行く人に胸中唾棄されていることを知ってか知らずか、男の方は続ける。


「別にお嬢様を守るのは俺だけでいい。お前が姫様の元に参上したいなら、そうするがいい」


 この言葉を聞いて、初めて金色の髪の美しい人は立ち止まって、男を睨みつけた。アイスグレーの瞳はさながら尾を踏まれた虎のように猛々しく。


「お前一人に任せられるはずないだろう。玲子がああなったのはお前のせいだ。それに、私は忘れてはいない。かつて、お前が玲子になにをしたか……!」


 男は黒い瞳を刹那に閃かせた。だが、それは目の錯覚であったかもしれない。枝を揺すぶる風がその傘の上に葉に溜まった水滴を落として激しく音をたてた時、男は少しだけ傘を傾けて瞳を覆い隠したが、再び彼が覆いをあげたとき、彼の声は落ち着き払うどころか、むしろ相手への優越からくる高慢さすら漂わせていたから。


「そうか、お前がどうしたいのかはよくわかった。だったら言わせてもらう。俺を侮辱するのは勝手だが、気まぐれな行動は慎んでもらおう。敵にお嬢様のことを気づかれては困る」

「そんなことはわかっている……!」

「それならばいい」


 男はそう言って歩き出す。立ち尽くしたままの少年とも少女ともつかぬその人の傍を抜ける時、開いたままの傘をその人の足元へと放り棄てて、ますます強くなる雨の向こうへ、今はただ眠り続ける人の元へまっすぐと。異国の血を引く人は、その傘を踏みつぶしてその骨組みを折ると、重たく黒ずんでいくスーツの背中に怒鳴った。


「……貴様の指図を受けるつもりはないッ!」


 歩き続ける男は聞こえたというような素振りすら見せなかった。


「かかること、古きの、遠き代のことなれど、桜乙女、稲城いなき乙女、清き乙女が絶えず言い継ぐ……」


 歌い終わった舞の目に、一筋の涙が流れた。

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