6-3 「水底の国、玉藻の国は」



 その日の放課後、舞と翼は(美佳と恭弥は部活、司は恐らく女子二人のところに男子一人混ざるのが嫌だったのか用事があるといって逃げた)、青木家に集まり、螺鈿について学校や桜花市の図書館で借りてきた本を並べてみた。目が覚めて舞が部屋にいないのであたふたしていた、左大臣もポーチに入れて連れてきた。翼の部屋は和室で、舞の部屋のように可愛らしいものをいっぱい並べるといったこともなく、ごく簡素に片付いていて、大きなものといえば勉強机に使っている、よく旅館などで見かけるような木製の和机だけ。寝る時はそれを退かして布団を敷くらしい。雑誌とか読まないの?とあまりの物のなさに慄きながら舞が尋ねると、「そういうものは全部お姉ちゃんに借りる」との返事が来た。翼は三姉妹の末っ子なので、なるほど、確かに自分の部屋にはそれほど物を置かなくても事が足りるのかもしれない。ただ、部屋の隅に小さな子供用の鏡台が置かれているのが微笑ましかった。


「珍しいわね、小難しそうな本ばかり並べちゃって」


 翼の母親は、ショートヘアをした闊達そうな細身の女性で、翼と同じ藍色の髪をしている。翼はきっと母親似なのだろうな、と舞は思った。なんとなく気の強そうなところもよく似ている。けれども、やはり翼の母は娘に受け継がれた性質通りに優しい女性でもあって、初めて来た舞の訪問を大いに喜んでくれた。翼の母親は娘たちの邪魔にならないよう、ジュースとお菓子とを置いた。


「これ食べてね。舞ちゃん、どうぞごゆっくり」

「あ、ありがとうございます」


 舞はぺこりと頭を下げる。翼の母親は手を振りながら、部屋を出ていった。


「全く、柄にもないことするんだから」


 翼がつぶやいた。


「お母さんのこと?優しそうなお母さんだね」

「全然っ!もう滅茶苦茶こわいったら。まあ元警察っていうのもあるんだけど、ほんと厳しいのよ、うちのお母さん。お父さんのことも尻に引いてるくせに、猫被っちゃってまあ……」

「そういえば、うちのお母さんも電話の時、すっごい声変わるよ」


 舞は自分のテストの点を叱りつける途中で電話が鳴ったときの母のことを思い出して、思わず笑いだしそうになった。


「母親って、みんなそんなものなのかしら……」

「これこれ、姫様、翼殿、螺鈿について調べるのではなかったのですか!無駄話してる暇はありませんぞ!」


 ぬいぐるみの姿で一生懸命重たい本を開こうと苦闘しながら、左大臣が二人を叱りつけた。二人の少女は気のない声で「はーい」と返した。しかし、少女たちの関心は、まず翼の母親が持ってきてくれたおやつの方へと向かう。


「舞ちゃん、シュークリームとショートケーキどっちがいい?」

「えっ、翼ちゃん選んでいいよ」

「姫様……!」

「いいの、いいの。恭弥の家のケーキだから、うちよく貰うし……」

「いいなぁ!プロムナードのケーキ、美味しいよね!」

「翼殿……!」

「まあねっ。確かにこの町じゃあ一番美味しいよね。たまにテレビに出ることもあるみたい」

「そうなんだ!すごーい!あっ、じゃあ、私ショートケーキね!」

「姫……!」

「あっ、ラッキー!あたし、シュークリームがいいなって思ってたから」

「翼ど……!」

「相性ばっちりだね、私たち」


 左大臣がようやく少女たちにかまってもらうようになるためには、『桜花市の伝説の成立過程――螺鈿伝説の系譜――』ごと、机から転がり落ちる必要があった。


 すやすやと寝息をたてる翼の顔を肩に載せて、舞はぱらりと伸ばした膝の上に載せた本の頁を捲って、欠伸をする。菅野先生が貸してくれた本は難しすぎてわからないところも多いけれども、そこは左大臣に任せておけばいい。もっと噛み砕いて中学生用に示した本などのおかげで、螺鈿伝説と呼ばれているものが、舞にも大方わかってきた。


 元々、町に伝わっていたものは、一人の遊女が花街の火事の際にこの町まで逃れ、水を飲もうとして井戸に転落し溺れ死んだという話であるらしい。これはどうも史実であるらしくて、その話を聞いた歌舞伎狂言作者・志村正蔵しむらしょうぞうが書いたのが、菅野先生の言っていた『恋合阿古屋心中こいあわせあこやのしんじゅう』で、こちらは、元々ただの遊女であった悲劇のヒロインを、吉原、阿古屋の花魁・螺鈿とし、豪商・犬君屋の主人と、螺鈿の恋人・善國よしくにの三角関係を主題として話が進み、螺鈿が犬君屋の主人に身請けされることが決まって行き詰った善國がいよいよ火を放ち、螺鈿と連れ立って逃げることとなっている。しかし、逃げ延びた先で、火付けの大罪を犯したことに今になって善國は怯えはじめる。また、善國に想いを寄せていた、螺鈿の妹分の生駒いこまが火事で逃げ遅れて死んだことを知った螺鈿と善國は大いに悲しみ、死を決意。入水すべく川へと向かう途中、追手にあって善國は切り殺され一人生き延びた螺鈿も井戸に身を投げて死ぬという筋書きになっているという。そこから、設定や物語を逆輸入して、花魁・螺鈿が死んだところだとしたのが花魁井戸だと、ある本には書いてあった。しかし、そこまで読んで舞は変に思う。


「それだと、変じゃない?だって……螺鈿は螺鈿でしょ?自分でそう言ってたんだから」

「その通りでございます。ですから、大方、この博士が間違っているんでございましょう。まったく、よく調べもせずに困りましたな」


 現在伝わる螺鈿伝説は、大まかに三つ。一つは恭弥が教えてくれたもので、螺鈿は井戸の水を飲もうとして誤って井戸に転落したというもの。二つ目は、螺鈿には恋人があって、その恋人と結ばれない運命を儚んで井戸に身を投げたというもので、桜花市はこの伝説の方がよほど好みらしく、墓や井戸の傍にあった看板にわざわざ書き立てているのはこれだ。最後は、螺鈿は水面にやけどで傷ついた自らの顔を映そうとして井戸に落ちたというものだ。どれが真実かは、螺鈿に聞いてみればわかるだろう、と舞はちょっと皮肉めいた考え方をしてみて、自分がひどく疲れていることに気付き、本を閉じた。


 菅野先生から借りた長いタイトルの本は、女が井戸に落ちて死ぬという伝説を全国各地、様々な時代から取り集めて分析し、水辺で死ぬ女という発想の起原を万葉集の歌にまで求めながら、日本人の心意伝承(左大臣がこの言葉を発したとき、舞の頭の中では漢字変換されなかった)について論じたものであった。左大臣は案外面白がって読んでいたが、舞の方はすっかりくたびれてしまって、隣で眠っている翼の方へ、そっと視線を移した。たった二時間かそこらの睡眠で、毎朝祖父と行う剣道の稽古もさぼらずに学校に来たのだから、よっぽど疲れているはずである。舞は翼をえらいなあと思う。これぐらい、自分も頑張れればと思う。一方で、そうして力を抜くことのできない翼が少し心配にもなってくる。舞はせめて、自分の前だけでも、京野舞の前だけでも、翼が気楽にいてほしい、せめて自分だけには甘えてみてほしいと思った。友に対する温かな感情が、舞の唇から自然に迸る。


「水底の国、玉藻の国は、永久とこしへにあれど。あまつ乙女の涙なければ、嘆きなければ。神々は何処いずこにしや……」

「……姫様……!」


 舞の歌声に、左大臣は驚いたように本の上から顔を上げた。舞は口を噤む。知らぬ歌が勝手に出てきた。一体どうして?ああ、そうだ、今朝の夢の中で歌っていたではないか。


「前世のことを、思い出されたのですか?!」

「前世?」


 左大臣の言葉に、舞は首をかしげる。テディベアはぴょんと飛び上がって、舞に一番近い和机の端までやってきて身を乗り出した。


「左様。その御歌は、歴代の京姫にしか歌う事を許されぬ御歌ですぞ!いやはや、懐かしや!姫様はそういえば、よくその歌を口ずさんでおいででしたな。乳母めのと殿が無暗に歌うものではないとよく叱っていたのを覚えていらっしゃいますか?」

「ええっと……」

(ああ、あれ前世の記憶だったんだ……)


 せいぜいその程度の認識の舞は、困ってしまって頬を掻く。


(メノトってなに?)


 しかし、舞の困惑も構わずに、左大臣は机の上から飛び降りて、舞の膝元に正座をすると深々と頭を下げた。


「姫様!恐れながら!なにとぞ!なにとぞもう一度お聞かせくだされい!できれば始めから終りまで……」

「で、でも……」


 もう一度なんて歌えるだろうか。今もただ、歌の方が勝手に口を打ち出でてきただけだというのに。


「いえ、どうぞ、何卒……!」


 仕方ない。別にもったいぶるようにことでもなかろう。思い出せるところまでなら、なんとか。テディベアの体とはいえ、老人に頭を下げさせているのだから。

 舞は目を閉じた。人前で歌う時はいつもこうして目を閉じていた……いつもってどういうこと?前世ではってことかな?私、人前で歌う機会なんてあったんだ。そういえば、思い出せる気がする。妓女たちが楽器を奏でていたっけ。でも、私、そういう時に限ってあまりうまく歌えなかったな……



 上手に歌えたのは、一人、日差しの下、庭で歌っている時だった。ああして歌っている時は、歌声を咎めようとする人たちも、つい何も言わずにおいてくれた。「姫様は歌っているときと舞をまわれているときが一番幸福そうですわ」と誰かが言った。でも、私は決して幸せだから歌っているのではなかった。舞っているのではなかった……いつもは、なんだか悲しくて、さびしくて、それを紛らわせるために歌っていた。桜の下で歌ったあの時、初めて嬉しくて歌ったの。


 星々の光の下で歌う時……あの時だけ、私は無性に苦しかった。どうしてだったっけ?思い出したいけれど、思い出すのが恐ろしい気もする。誰かに歌を、想いを届けたくて。遠い誰かに。もう二度と会えぬと思っていた、あの人に……


「水底の国、玉藻の国は、永久にあれど。天つ乙女の涙なければ、嘆きなければ。神々は何処へ去にしや。天つ乙女、自ら問へど、答うれど……」


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