6-2 「螺鈿伝説って……!」
舞が起きたとき、時計は九時少し過ぎを指していた。飛び上がった舞は、ばたばたとパジャマのまま階段を降り、母を探す。「お母さん、寝坊した!」泣きながら叫ぶ舞の声を聞いて、庭で洗濯物を干していた母親が窓から顔を覗かせる。
「あら、やっと起きたの。おはよう」
「おはよう!寝坊した!」
母親はくすくすと笑った。
「だって、何回起こしても起きないんだもの。よっぽど疲れてたのね。勉強でもしてたの?」
(もっとすごいことしてたんだけど……)
舞は密かに内心呟きながらも、うなずいた。
「あまり無理しちゃ駄目よ。学校行かなかったら本末転倒なんですからね。まっ、もう過ぎたことは仕方ないでしょ。菅野先生には具合が悪そうだから遅刻しますって連絡しておいたわよ。元気ならご飯食べて、学校行きなさい」
「ありがとう……!」
舞は母親の優しさに深く痛み入りながら、それでもまだぼんやりとする頭で、ご飯と、豆腐と大根とわかめの味噌汁と、サバの塩焼きの食事を済ませて、母が淹れてくれた緑茶を飲み、まだ眠っている左大臣をそのままにして学校へと向かった。左大臣もきっと疲れているのだろう。老体で翼を運んでくれたし、帰宅の際には舞の自転車も押してくれた。母がくれた優しさを、舞は左大臣にそのまま渡してみた。その本質が微妙にずれていることを、舞は知らなかったけれども。母のそれは、労りではなく娘への愛情であったから。
学校に着いた舞は、まずは職員室に向かって、菅野先生の元を訪ねた。菅野先生は元気そうな舞の姿を見て笑い、もう大丈夫ならばよかった、けれども無理はしないようにと忠告してくれた。舞はそんな菅野先生が、いつもの底抜けに明るい感じ――といっても若者のそれのようにどこまでも突き抜けていけそうな能動的な性質のものではなく、老いの境地にさしかかった人特有の、仙人じみた、つかみどころのないふわふわした性質のもの――が、今日に限っては影をひそめていることに気がついた。菅野先生の笑いは、いつものように快活ではなかった。なぜだろう。その理由を、舞は思わぬところに見出した。
「あっ……!」
先生の禿げ頭の後ろの方を見ながら、叫んだ舞に、菅野先生はきょとんとしてみせた。
「どうかしましたか、京野さん?」
「あっ、あの、螺鈿伝説って……!」
『桜花市の伝説の成立過程――螺鈿伝説の系譜――』他の本と共に並べられている、黒い背表紙にそう記されたその本を、舞は前から意識しないまでも、菅野先生の机の上に認めていた。だから、舞は螺鈿の墓でその名を知った時、どこかで見た名前だと思ったのだ。菅野先生は、「ああ」と呟いて上半身だけを捻って本を取り出すと、ぱらぱらと捲ってみせた。
「残念でしたねぇ、花魁井戸があんなことに……」
「や、やっぱりその螺鈿伝説って、あの螺鈿の……?」
「えぇ、もちろんですとも。実はですね、僕は大学時代にこの螺鈿伝説を研究していたことがあるのですよ。この本は大学のゼミの教授が書いた本でしてね。古い本ですが。僕は大学時代国文学科にいたのですが、こういう民俗学っぽいことが特に好きでして。京野さんも興味があるのですか?」
「えっ……ええっと、まあ一応」
菅野先生は満足げに頷いた。
「悲しい物語ですよ。京野さんは確か日本舞踊をされてましたね。歌舞伎はご覧になりますか?」
「何度か見たことがあります。母に連れられて……」
「そうですか。でしたら、来月の歌舞伎座の昼の部にぜひいらっしゃるといいですよ。ちょうどこの螺鈿伝説を元にした話がかかりますからね。『
螺鈿伝説の系譜――菅野先生が読むぐらいだもの。難しそうな本だ。でも、螺鈿のことを知ることは、すなわち敵のことを知ることは、敵を倒す上でなにか役立つかもしれない。左大臣の助けを借りればなんとか読めるかもしれないし。舞は大きくうなずいた。
「はい!ありがとうございます!」
重い本を一冊抱えて教室へ入ってきた舞を、すぐに女友達が勢ぞろいして出迎えた。「大丈夫なの?」「休まないで平気なの?」などなど。舞は笑顔で彼女らに応えると、机に頬杖を付いて、死んだような目で二時間目の授業の内容がまだそのままになっている黒板を見つめている翼に近づいた。翼も目の下に隈を作っていたが、気丈にも一時間目からきちんと出席しているらしい。舞は脱帽した。
「おはよう、翼ちゃん」
「おはよう……昨日はありがと。送ってくれたんでしょ?うちまで」
「うん。左大臣がおぶってくれたの。だから今日は左大臣おいてきちゃった。それより死にそうな顔してるけど」
翼はふるふると頭を振って、やつれた笑顔を浮かべた。
「大丈夫。今朝もちゃんと稽古してから来たし……」
「今朝も?!」
「とにかく、あたしは平気なんだから……!」
「平気じゃないよ!翼ちゃん、寝た方がいいよ!」
「よぉ、京野!」
明るい声で二人の会話に飛び込んできたのは恭弥であった。その手が引っ張っているのは、そうされても尚、洋書に集中していようと涙ぐましい努力を続ける司である。すぐ近くの席でぐっすりと熟睡していた美佳も、恭弥の声で目覚めて顔を上げたので、舞の周りにはおのずとCグループのメンバーが揃った。
「ひでぇ顔だな、二人とも」
「うるさいったら。あたしも舞ちゃんも寝てないんだから仕方ないでしょっ」
「なんだよ、ちゃんと寝ろよな。余計老けるぞ」
「余計ってなによっ?!」
「京野、ほら、昨日借りてた50円」
「あっ、アイスのときの……」
「助かったぜ!サンキュ!」
と、美佳が、舞がその腕に大事そうに抱えている本を取り上げて、眼鏡越しにそのタイトルをまじまじと見つめる。
「螺鈿伝説?あんたなんでまたこんなもん持ってんのよ?テーマ変えたんでしょ?」
「う、うん、そうなんだけど、個人的に興味があって。そしたら、菅野先生が本を貸してくれたの」
「……全焼だってな」
司の独り言にも似た言葉に、舞と翼は思わずはっと胸を衝かれる思いをする。司は以前恭弥に腕を掴まれつつも洋書から目を離さないで先を続けた。
「今朝のニュースで見た。花魁井戸、全焼したんだろう?」
「まじかよ?!俺、知らなかった」
「あたしも。どうして?」
司は無言で首を振って「自分の知ったことではない」という答え代わりにした。恭弥は尚も食い下がった。
「なんで燃えたんだ?放火かよ?」
「……テレビではそう言ってた」
「なにそれっ?!墓が荒らされて、次は井戸が燃やされるだぁ?一体なんなのよ、誰がそんなこと……!」
恭弥も美佳も人並み以上の憤りを覚えているらしい。この町に育ち、この町の伝説に馴染んできたものならば当然の反応だろう。町の史跡が損なわれたことは、この町が冒涜されたことと同じなのだ。きっと今朝のニュースを見た、この町の多くの人は怒りや悲しみのうちに、こう考えているに違いない――まさかこの町の人間はこんなことをするまい。こんなことをするのはこの町の者ではない誰かだと。舞と翼はそっと目を伏せる。誰が思うだろう。螺鈿が蘇り、自らの炎で井戸を焼き尽くしたなどと。
(螺鈿は恨んでた……)
舞は間近に寄せられた焼けただれた螺鈿の顔と、美しくよみがえった螺鈿のその狂喜する姿とを交互に思い出した。
(お墓を作ったぐらいじゃダメだったんだ。螺鈿の魂はずっとあの井戸の中にあって、たった一人で、暗くてさびしくて……だから芙蓉に蘇らせてもらったとき、その命令にすっかり従うことに決めちゃったんだ。でも、とにかくこうなってしまった以上は螺鈿を倒さなきゃ。そして、今度こそ、螺鈿の魂を成仏させてあげなくちゃ)
「ねぇ……!」
舞は美佳の机に置かれている本の上に、手を置いて切り出した。
「ねぇ、私、考えたんだけどさ、やっぱり螺鈿のことちゃんと調べてみたらどうかなって?ほ、ほら、こうなっちゃった以上、なんか意地っていうか……」
「そうね!なんかあったまきたし。この町をバカにするなってとこ、見せてやんなきゃ!」
「たかだか授業内発表で何言ってるんだよ……学者が研究してる訳じゃあるまいし」
舞に同調する美佳に、司が呆れて言うが、恭弥がその背中をバンバンと叩いて黙らせた。
「まあ、いいじゃねぇか。新しいテーマも結局決まってなかったしよ。今ニュースになってること扱えば、きっと橋爪のばあちゃんのポイントも高いぜ」
「あんたってほんと現金ね」
翼は欠伸を噛み殺しながら言った。
「でも、やっぱり調べる価値はあると思う」
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