第六話 歌い継がれるもの

6-1 一夜明けて…

「では、次のニュースです。貴重な史跡が失われました。東京都桜花市桜花町に江戸時代から伝わる、通称・花魁井戸が本日未明に火災の被害に遭い、全焼しました。花魁井戸は、江戸時代に遊郭の火災から逃れてきた花魁、螺鈿が身を投げた場所であるという話が伝えられ、地元市民に古くから親しまれてきました。昨日には同じく桜花町の月宗寺げっしゅうじにある螺鈿の墓が何者かによって荒らされており、地元の警察は町の史跡を狙った悪質ないたずらだと見て捜査を進めています。花魁井戸の近隣住民の話では、本日未明ごろ、花魁井戸附近で複数人が騒ぐ声が聞こえたとの情報も寄せられています」

「町の歴史を冒涜するような、心ない仕打ちには憤りさえ覚えます。一刻も早く犯人がつかまってほしいところです」

「続いてのニュースです……」


「お母さん!花魁井戸焼けたらしいけど!」


 ゆかりが口の中の白米を呑みこみきらずにもごもご言ったので、味噌汁を注いできた母親は答えるより早く、その頭をぱしっと叩いた。


「口の中にものいれたまま喋らないの」

「だって、花魁井戸……!」

「新聞にも出てるな」


 と、父親が写真さえ載っていない全国紙の小さな記事を指先でとんとんと示した。母親はゆかりと共にそれをのぞき込んで、手を頬にあてながら「まあ」と呟く。


「放火かもしれないなんて、ひどいことする人がいるものね」

「さっき、テレビでは花魁の墓まで荒らされてたって言ってたよ」

「なんの目的があって……」

「変な宗教団体とかじゃないの?」

「嫌だわ。そんな人たちがこの町の近くにいるなんて。ゆかり、帰り道気をつけなさいよ」

「わかってる。今、うちの学校結構厳しいんだ。六時にはもう学校から出なきゃいけないし。ほら、市長の娘、ずっと学校来てなくってさ」

「あら、赤星あかぼしさんの娘さん?」

「そう。噂では誘拐されたんじゃないかなんて。あのうち、大金持ちでしょ?身代金目的かもって。まあ、それはともかく行方不明なのは本当らしいのよ。だから警戒してるの」


 ふと、母親がテレビの画面端の時間を見遣る。午前七時三十一分。


「もう、舞ったらいつまで寝てるのかしら。今日あの子は授業あるのに……舞!まーい!遅刻するわよ!!」


 母親の声を聞いて、舞はげんなりした顔で目を覚ました。恐ろしく眠くて頭ががんがんする。起き上がろうと試みたけれど、全身が起床を拒否しているからには、すぐに枕に頭が戻ってしまう。そんなことを二、三回繰り返した。舞はついに布団で鼻までをすっぽりと覆い隠した。


「やだ、寝てたい、眠い、疲れた……お休みしたい……!」

「舞!いい加減にしなさい……具合でも悪いの?」

「世界を救うために、戦ってたのに……なんで学校なんか……」

「舞、あなた本当に大丈夫?」


 とうとう母親が階段をのぼってきて扉を開けたとき、舞は深い眠りのなかにあって、母親がいくら揺り起こしてもかわいい声で抗議するばかりであった。こんなことも珍しいので、母親は驚くやらあきれるやらで肩をすくめてしまう。遅刻したところで自分の責任なので、もうしばらく寝かせてやってもいいかもしれない。無遅刻無欠席の記録は残念ながら破られることになるけれど。まあ、それより今が猛烈に眠いというのであれば……


 母親はベッドの傍らに膝をついて、改めて舞の寝顔にじっと見入ってみる。舞に限らず、娘たちの寝顔をこうして眺めるのも久しぶりだ。親の贔屓目というのではなしに、娘たちはそれぞれ美しい愛らしい少女たちである。姉のゆかりはもう高校生にもなるからには、さすがに大人びて、かわいらしいというよりは美人という風になってきたけれど、舞の方はまだ、母としては少々心配になるほど、あどけなさというか、幼さを残していて、もしかしたらいつまでもそのままであるのではないか。永遠に、私の小さな舞でいてくれるのではないか、なんて淡い期待まで抱かせる。そうならないことを、もちろん京野美禰子きょうのみねこはとっくに知っていたけれど。なんだか急に切なくなって、美禰子は娘の頬をそっと撫で、額の前髪を整えた。それから指先で娘の目の下の隈をそっと突く。夜更かしでもしたのだろうか。この子が勉強していただなんて思えないけれど、でももしかしたら、娘はそうして成長しているのかもしれない。ふいに、涙ぐみそうになって、美禰子は誰に対するとも知れぬ恥ずかしさに思わず顔を覆った。自分の手で整えてやった娘の前髪の上にそっと唇を落として、美禰子は足を忍ばせて部屋を出ていった。舞はそうとも知らぬまま、静かに寝息を立てている。



 夢の中で、舞は見渡す限りの桜の下にいた。見上げればどこまでもひろがる桜色の空、舞の頬に絶え間なく戯れかかる桜色の風、瞳を潤し続ける桜色の水――限りない喜び、まさに生きることの喜びに、舞は一人声をあげて笑い、踊り、歌った。舞が回ると、今日のために着せられた桜色の衣装がひらひらと靡いた。どんなに飛び跳ね、転んでも、舞の笑いがついに消えることはなかった。午後の光が舞の長い髪を絹のようにきらめかせている。柔らかな草の上を踏む素足は、時折裳の裾よりのぞいて、新緑の上に白く閃いた。


 舞はついに倒れたついでに草の上に仰向けになって、果てしなく湧き起る笑いを高らかに響かせた。小鳥たちが枝に集って、舞の様子を物珍しそうに眺めている。涙が流れてくる。嬉しくて、嬉しくて。あまりにも幸せで。


 いつまでもこうしていたいと舞は願った。ずっとここにいたい。この光と、桜の花と、鳥の歌声とを浴び続けていたい。夜になり、日の光が月の光へと変わって、花の色合いが闇に沈み込み、鳥たちが押し黙っても平気。私は桜に代って舞おう。月の光の手を取って。鳥たちに代って歌おう。そして春が来て、桜の花がすっかり散ってしまったら?そうしたら、舞は夏の緑を称えよう。夕立で体を洗い、ずっしりと濡れた白い衣を暑熱に掲げよう。夏の緑の色が色づきはじめたら、紅葉を縫って誰もが羨む贅沢な衣装を纏う。そして、紅葉も冷たく黒ずんで、虫も鳥も花も誰もが眠りに落ちてしまったら、舞はただ一人純白の地に寝転んで、ただ一人、雪と語り続けよう。眠れる草花のために子守唄を歌い続けよう。すると、もう、歌声は唇より零れ出づる。


水底みなそこの国、玉藻の国は、永久とこしへにあれど。あまつ乙女の涙なければ、嘆きなければ。神々は何処いずこにしや。天つ乙女……」


 草を伝う蹄の音とその振動とに、京姫はまだ気がつかない。

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