5-6 聖なる水と悪しき炎
固い蜘蛛の体は光を弾き返したけれども、その色は蜘蛛の目を眩ませたと見えて、蜘蛛はなにかキーキーと喚き声をあげながらもんどり打つ。吐き出された炎を京姫と青龍はそれぞれ左右に別れてかわし、京姫は子蜘蛛に更なる追撃を加えるべくその場に留まり、青龍は蜘蛛の体を大きく迂回して、暴れまわるその足に踏まれぬように気をつけながら、血の中の刀へと飛びついた。かくして、凍解は再び主人の手に戻った。
青龍は刀で風を切り、蜘蛛の左足を全て切り払った。その痛みに、蜘蛛は怒り狂って騒ぎ立てたが、京姫と青龍が動ずることはなかった。京姫は目を閉じて、仗に飾られた水晶玉に彼女の全神経を集中させる。静かな風がふわりと京姫の長い波打つ髪を舞い上げる。再び開かれた京姫の翡翠の瞳は、長い睫毛の下でかつてないほどきららかに輝いた。
『桜吹雪!!』
先ほどとは比べものにならぬほど強い光が放たれて、蜘蛛の体を包み込んだ。蜘蛛は口元からごぼごぼと黒い泡を吹き、その合間に呪いの言葉を投げつけたが、それは所詮断末魔でしかなかった。蜘蛛の体は、美しい桜の花弁となってひらひらと舞い降り、血に汚れた土を清めた。
「やったぁ!」
嬉しさに叫んだ青龍であったが、憎悪のこもった鋭い視線を感じて、さっと自身の左肩の先へと目を遣った。血の中から這い上がった螺鈿は、横たわっている蜘蛛の体の上空へと浮かび上がると、ますます高い声で鳴き立てている蜘蛛の上に右手を翳した。蜘蛛の体が燃え上がった。青龍ははっと息を呑む。螺鈿がにたりと口の端を吊り上げる。その絢爛な裾を染める蜘蛛の子の血をぼたぼたと滴らせながら。
「フン、ちっとばかり油断してたっつうわけかい。よーくわかったよ。褒めてやってもいいが、それは地獄の業火の中でだよ!地獄にゃあ時間だけはたっぷりとあるからねェ……!」
螺鈿の炎から逃れるべく、青龍は駆けだした。炎は京姫と青龍と、二人の上に降りかかり、二人を慌てふためかせた。逃げ惑う二人を嘲笑い、螺鈿は宙を自在に巡りながら、二人の行く先々に火柱を立たせる。ふと気がつくと、京姫と青龍とは互いに背中合わせになり、周囲を炎の分厚い壁に囲まれていた。その熱気に、二人は怯み、咳き込みながら、ぴたりと身を寄せ合う。「姫様!青龍殿!」ようよう蜘蛛から逃れて駆けつけて来た左大臣の足をも、火柱が留める。炎は少しずつ二人を囲む円を狭めていく。
「おやおや、こいつぁおもしれぇ」
螺鈿は手を叩いて笑い、自身は火柱の火の届かぬ所まで浮遊して、炎の筒の内をのぞきこみながら文字通り高みの見物と決め込むことしたらしい。京姫と青龍とはもうこれ以上はお互い行き着きようもないというぐらいにくっつきあっていたが、そうして寄せ合っている背中の温度にも炎の熱が既に忍び込んでいるように思えた。睫毛の先から燃え出しそうな中で、目も乾いて開かない。息を吸うと肺が焼け付きそうだ。それに酸素が失われていくせいか、頭がくらくらしてきて回らない。立っているのもとても辛い。でも、座り込んでしまえば横倒しになった膝から炎に触れてしまいそうで。京姫は貴重な唾液を乾かさぬように咳き込むことも懸命に堪え、喉元を抑えながら、浮かんではたちまち蒸発していく己の涙でさえせめて呑みこむことができればと思った。とにかく水が欲しい……水が……
背中に重たく圧し掛かるものがあって、京姫ははっと首だけで小さく振り返った。青龍は立つ力をもう奪われているらしい。「青龍!」と胸の内だけで叫びながら、京姫はできるだけ小さな動きで身を翻して、青龍の体の腕を回した。青龍は黒目の滲んだ細めた目で京姫を見上げ、意識を失いかけながらも「姫……」と口だけの形だけでつぶやいて首を振りかけた。二人の衣装を濡らしていた血が臭気をたてながら熱気のために乾いて、衣装をかさかさに干からびさせていく。京姫はそうした衣装の感触を避けて、必死に青龍の素肌を探った。そうする間にも、青龍は目を閉ざす。
「青龍!ダメッ!!」
荒げたはずの言葉はかすれていた。京姫は必死に瞬きをして、青龍の顔をそれと見定めようとしながら、青龍の体を揺すぶった。だが、青龍は何の反応も返さない。火はいよいよ二人を包み込まんとしている。京姫は歯を食いしばって青龍の体を抱きしめた。青龍の力の抜けて投げ出された足先が、炎に触れぬよう、必死に。私たちはこんなところで死ぬというのだろうか。ああ、水が欲しい。水……
「青木殿は四神のうちでも、京の東を守護し、京に春をもたらす青龍でございます。そして、また、青龍は水の力をも自在に操る力を持っておいでです」
(そっか……!)
「青龍!青龍!……翼ちゃん!」
京姫は青龍を必死に揺さぶった。それでも目が覚めないと見ると、京姫は最後の手段とて、その頬を二度ほど叩いた――自分の怪力は知っているので、できるだけ力を入れないようにして。青龍の目が薄らと開いた。京姫は、青龍の肋骨の辺りを支えている左腕に右腕を添え、ずり落ちかかっている青龍の体を抱きなおしてその耳に唇を添えて語りかける。もう湧きもせぬ唾を呑みこみ、ほとんど気力で補った最後の一滴で喉を潤して。
「ひ、め……?」
「青龍!水の力!水の力を使うの!思い出して!左大臣が!青龍は、水の力を、使えるって、言ってたでしょ……!」
「水……?」
呟きながらも、青龍の目がまた閉ざされていこうとする。京姫は再び青龍の頬を叩いた。
「お願い!青龍!最後の……頼みだから……っ!」
「しぶといやつらだねェ。焼け死ぬ方が苦しいっていうのにねェ」
螺鈿の声が振ってくる。だが、京姫と青龍の焼け付く鼓膜には、燃え盛る炎の轟音と、それに比べればあまりにも微かな二人の声ばかりしか届かない。
「お願い、青龍……ッ!」
青龍の手が京姫の腕に触れた。青龍はそこに懸命に力を入れて、自らの力で立ち上がらんとする。京姫は腕を強く握りしめられる痛みには耐えた。今、京姫の望みはこの痛みにのみあるのだから。
立ち上がった青龍の、結った藍色の髪が、京姫の頬をくすぐる。その涼しげな色を見るだけで、京姫はもう安堵できるような気がした。京姫は青龍の胴に巡らせていた腕を、今度は青龍の脇の下に通して、その肩を支えた。
青龍が凍解を構える。その刃が火に触れたとき、炎は一瞬、確かに切り開かれたように見えた。
「青龍……っ!」
『…………
青龍が叫びながら凍解を振るった時、京姫は霧のようなものが青龍の体を中心として清らかに放たれるのを感じた。と、青龍が刀で薙いだところから荒ぶる炎が割れ、その切れ目から湧き出づる清らかな水が火炎の柱を伝って包み込み、掻き消した。その水滴が恵みのように京姫と青龍の頬に降り注ぐ。二人の、蜘蛛の血で汚れた衣装は洗い清められ、その瞳と喉がやわらかく潤される。水は螺鈿の打掛の裾にまで触れて、それを重たく湿らせたようであった。
青龍の水に凛々しくもよみがえった京姫は、青龍の肩を支えながらも、仗を螺鈿へと向けた。左大臣もたちまち馳せ参じて刀を向ける。
「螺鈿とかいったか。覚悟召されよ!」
左大臣が声を張り上げると、螺鈿は小さく舌打ちした。
「まったく、どぶねずみみてぇなやつらだ」
呟いて、螺鈿はふと東の空を見遣る。天頂にはまだ夜が色濃く坐していたけれども、未だ遠いはずの太陽は既に東の空を群青色に透かしつつある。月は次第に形を失って、骸のように西の地平線に凭れ掛かっている。そして間もなく、あの忌まわしい鶏が……
螺鈿は消えゆく夜の魂を追うように西の空に高く身を捧げて、地上の京姫たちに冷笑を振りまいた。
「生憎と、ちぃっと
「待ちなさい!」
京姫の声は虚しく響いた。夜は螺鈿の味方であった。その派手やかな着物の色ですらいとも容易く呑みこんでしまったから。京姫と左大臣とは、しばし片付かない気持ちのまま、螺鈿の消えた空を眺めやっていたが、青龍がくらりと崩れ落ちたので、ようやく我に返った。京姫が青龍の身を抱きとめると、その変身が解けて、元のジャージ姿の少女の姿が現れる。夢を途切れさせられて、疲れ果てた、少女の姿が。それはまさしく舞自身の姿でもあった。
「翼ちゃん……!」
「ごめん、なんか……なんか、すっごく疲れちゃって……」
「無理もありませぬな。立派でしたぞ、翼殿。姫様をお守りなさったのですから。いやはや、まさに四神のほまれですな」
左大臣はそう言って、京姫の腕から翼を譲り受けて、眠り込んでしまった翼を背負った。京姫も強烈な眠気を覚えた。変身を解いてしまいたいけれど、左大臣が翼を背負ってくれている限りはそうすることもできない。あともうちょっと、頑張らなければ。
丘を降りた京姫と左大臣は何も言わぬまま、とぼとぼと元来た道を引き返した。翼を青木家まで送り届けなければならないけれど、まずは翼が無断で借りてきたと思しき自転車を月宗寺まで取りに戻らねばならない。
京姫は空を仰ぐ。夜は清らかな水を注がれたかのように次第に青く青く澄んでいく。そうしていつか、見慣れた朝の空が顔を見せるのだろう。だが、京姫にはそれがいつのことかと訝しく思われた。永遠に夜が明けぬ気がする。烏が遠くで鳴きはじめている。小学校で飼われているものだろうか。鶏の声がどこからともなく聞こえてくる。
うすぼんやりと輪郭を見せ始めた町の、それでも変わらず俯いている横顔にたまらなくさびしいものを、京姫は見出した。街灯に群れている蛾もどこか倦んだように。耳をすませば何本か先の道路を走る車の音も聞こえるけれど、声を出すのはつい憚られた。
ああ、とても眠い。歩いたまま眠ってしまいそうになる。頭がずしりと重い。京姫はあくびを堪えかねて、小さな手の中に隠した。
「お疲れですな、姫様」
京姫は労りの言葉の意味自体よりも、こうした早朝の静寂をも打ち破らぬいかめしくも優しい左大臣の声の調子に感銘を覚えた。あくびのせいで涙ぐんだ顔で、京姫は微笑む。
「寝てるところ、邪魔されたからね」
「……姫様が火柱に包まれた時、わたくしはどうなることか思いました。しかし、ご無事でなによりでした。もちろん、翼殿も」
「私もどうなるかと思った。でも、青龍が助けてくれたの。とっても感謝してる。明日また学校で会ったら、百回ぐらいありがとうって言わなくっちゃ」
京姫は翼の手をそっと握りしめる。そうよ、命の恩人のために、大切な友達のために頑張らなきゃ。たとえ、霊力を使うせいでひどく疲弊したとしても。
「……姫様はお優しい方ですな」
左大臣の言葉がどことなくざらついて聞こえるのを、京姫は不思議に思った。
「どういうこと?」
「いいえ、言葉通りの意味でございます。姫様はお優しい。まるで前世からお変わりありませぬ。しかし、姫様、どうかそのお優しさでご自分を滅ぼされませぬように」
京姫は首をかしげる。優しさで自分を滅ぼすということの意味を理解できずに。
同じ頃、一人の少年が眠りから覚めた目を、果てない夜明けの空に投げかけている。時折彼を訪う、漠然とした、けれど確かに痛みを伴っている、不安に苛まれながら。
「僕は…………誰?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます