5-5 「螺鈿よ、蘇りなさい」

 変身してから、京姫はふと違和感に気付いた。確かに先ほどまで鈴の音は高く鳴り響いていた。だが、変身して、研ぎ澄まされたはずの霊力で以って敵の気配を探ってみると、どうも間近に敵の姿を感じないのである。少なくとも、以前芙蓉が現れたときに感じた気配はない。精々芙蓉のしもべの怪物たちといったところだろうか。しかし、今日の美佳との会話で、京姫が知らぬうちに怪物のこの町に跋扈していることはわかったから、鈴が反応できる範囲もある程度限られていることはわかっている。月宗寺に現れた怪物に京野家にあった鈴が反応できるとは思えない。とすると、鈴が反応し得たのはなぜだろうか。戦いを前に気の昂っている京姫は、論理の筋道を辿って、というのではなくほとんど感覚的にその結論に行き着いた。では、この夜、悪さをしようとしている者の正体はなにか?


「姫様、どうされましたか?」


 狩衣姿の左大臣が、立ち止まったまま考え込んでしまっている京姫に尋ねる。京姫は答える代わりに仗を両手で掲げた。目を閉じて意識を集中する。藤娘を小さく口ずさみながら。そうして、仗が指し示したのは、月宗寺より南の方向であった。


「えっ、どういうこと?」


 当惑して青龍が訊く。その声と共に京姫の脳裏に一つのイメージが流れ込んでくる。パスポートの申請のために住民票を取りにいく母に付いていった時。市役所の裏の空っぽなスペース。日の光が差し込んでいるにも関わらず、なぜか陰鬱な空気に包まれていた場所。遠目に見た茶色っぽいもの……揺れている黒い水面……そこにぽつりと赤いものが落ちる……


「……花魁井戸!」


 京姫は叫ぶなり、駆けだした。しばし呆気にとられていた青龍と左大臣も、我に返るなり慌てて後を追う。そうだ、勝手に月宗寺だと思い込んでしまったけど、鈴が指していたのも花魁井戸であったのだ。京野家からみれば同じ方角にあったから、気付かなかったけれど。


 月宗寺からまっすぐ南へ続く道を駆ける三人に、星のない夜の闇に毛皮を紛らわせて、怪物たちが襲い掛かってきた。すかさず左大臣が刀を抜いて一匹目の首を撥ね飛ばし、二匹目の腹を蹴り上げ、背後からやってきた三匹目の攻撃を屈んで交わすと、その腹に刀を突きさして怪物の下半身を縦に二つに切り裂いた。足を止めて振り返る京姫と青龍に左大臣が叫んだ。


「姫様、青龍殿!わたくしめが相手をします故、お急ぎくだされ!」


 そう言いながら、左大臣はもがいている怪物の背に足をかけて、心臓のある辺りを貫いた。京姫と青龍は顔を見合わせて頷いた。左大臣なら恐らく問題はないはずだ。たとえ、まだ無傷の五匹の怪物が屋根の上から赤い目を滾らせていたとしても。「任せたよ!」京姫と青龍は再び走り出す。賢くもその後を追ってきた一匹を、青龍が愛刀・凍解いてどけで迎え撃ちにした。



 桜花市役所は、桜並木のある十字路に面して建っている。数年前に改築したばかりの立派な真新しい建物で、とかく町が古臭い割に随分と近代的なのであるが、花魁井戸はその影に隠れて、時代にも世間にも忘れ去られたようにぽつんと佇んでいる。桜花市は悲しい伝説のある井戸を一応は史跡として大切に保存しているつもりらしいのだが、昼間でもどことなくひんやりとした、古びた井戸の周りに人はおろか鳥たちでさえも寄り付かなかった。東側だけが道に面していて、残る三方を市庁舎と古い民家とに囲まれた小さな丘になった場所で、周囲に木々は一本もない。花魁井戸は方形の木製の井筒を持ち、以前はあったといわれる屋根と釣瓶はとうに失われていた。土埃で汚れた井桁には、誰がそうしたのか分厚い石の蓋がはめ込まれており、不運な子供が誤って転落することを防いでいる。井戸の傍らには、螺鈿の墓の例にもれず看板が掲げられ、花魁井戸の由来を丁寧にも記している。


 今、井戸は変わらず不気味な沈黙を保ちつつあった。その上空にふわりと浮遊して、井戸を見下ろしている女の影が、石に注ぐ月を遮っても、井戸は変わらず黙したままである。


 十二単の裾を夜風に靡かせて、芙蓉は井桁の上に降り立つと、鋭い鞭の一撃をくれて井戸を覆っている蓋を叩き割った。蓋はたちまち崩壊して井戸底を立ち騒がせた。微かな水の音で以って。


「わたくしの声が聞こえて、螺鈿?」


 芙蓉の声が井戸の内に低くしめやかに響く。井戸底の水面が蓋の欠片を受けてさざめいているのが、月光の波の揺らめきでわかる。黒く淀んだ水面は、久しぶりに見た月の光に感銘を受けるのか、または呼びかける人の声に喜んでか、殊更にどよめいた。


「ふふ、暗く冷たい水の中で、さぞかしつまらなかったことでしょうね。いいこと?わたくしがお前をここから出してやりますわ。お前はわたくしの僕、すなわち漆様の僕。漆様に全てを捧げつくすのですよ。それがわかるなら、これを……」


 芙蓉は袖口より取り出した、小さな香炉ほどの古びた壺を取り出して水面にその影が映り込むようにかかげてみせた。


「お前の体を返してやりますわ」


 芙蓉は確かにそれを乞う者があるのを知って、壺を井戸の中にそっと落とした。井戸の底に狂喜の凱歌が鳴る。芙蓉はようよう口元を緩ませた。


「芙蓉!」


 ああ、来たか。と芙蓉は大儀そうに顔をもたげた。この世でもっとも憎たらしい、汚らわしい少女たち――京姫と青龍とが、それぞれ仗と刀を閃かせて、丘の麓から芙蓉を睨みつけていた。芙蓉は緩ませた口元をそのままに、ただ細めた瞳の内に軽蔑ばかりを込めた。


「あら、来ましたの」

「そこで何をしてるの?今すぐその井戸から離れて!」

「嫌だと言ったら?」

「……あんたでしょっ、螺鈿の墓を壊したのは!」


 怒りを漲らせている青龍の言葉に、芙蓉は肩をわずかばかりすくめてみせた。


「かしましいこと。漆様のご命令ですもの。そうするのが当たり前ではありませんの?」

「芙蓉……これ以上、あなたにこの町を冒涜させはしない!」


 向かってこようとする二人を、芙蓉は優雅だが素早い鞭の一振りで遠のけた。芙蓉は井桁を離れて夜空にするりとのぼり、小賢しい小娘たちに冷酷な微笑みをやる。物事を成し遂げるにはここでも十分なのだ。どうせ、今日はこの娘たちと戦うつもりはない。芙蓉が青白い手を月明かりの元に差し伸べると、その指先につままれて紅のものが艶めいた。京姫と青龍はその様子の尋常でないのを感じて立ち止まる。二人は先ほどから、井戸の底から漂う邪気を感じ取っていた。


「芙蓉、一体なにを……?」

「邪魔が入ったせいで待たせましたわね。でも、これもお前はきっと欲しいでしょう?さあ、受け取りなさい。そして、螺鈿よ、蘇りなさい」


 螺鈿――その名を聞いて、京姫と青龍はほぼ同時に、芙蓉の成し遂げようとしていることを悟った。芙蓉の手を、ひとひらの紅葉にも見える艶めいたものが離れていく。京姫は駆け出し、咄嗟にそれを受け止めようとしながらも、その正体を見極めた。それは、真っ赤な櫛であった。


 京姫が井戸の淵に飛び上がった時、櫛は井戸の中の闇に紛れようとしていた。京姫の指先が辛うじて櫛の歯を支える。と、京姫の膝が井桁を滑り落ちて、危うく姫は櫛ごと水の中に転落しそうになった。悲鳴をあげる京姫。その足首を、青龍が慌てて引っ掴む。


「ちょっと!何考えてんの、あんた!」

「あ、ありがと、青龍……!お、お願いだから、絶対、離さないで……!」

「む、無理……かも……」

「ちょっ……う、嘘でしょ……!」


 と、京姫は櫛を指先で挟んでいる方の手首が、何者かの冷たい手によってきつく握りしめられるのを感じた。青龍の方から、はっとして井戸底を見下ろした京姫は、眼前に、女の顔を見た――顔の右半分の皮膚が焼けただれた、破れた唇の内側から煤けた歯を剥いて笑う、女の凶悪な顔を。


 驚き慄いた京姫は、悲鳴を上げて女の手を振り払い、風にさらわれて櫛を取り落とした。櫛は井戸底に、澱と泥に塗れた裸身の腰を浸して待ち焦がれる女の手に渡った。女が狂喜狂乱の体でそれをちぢれた髪へと挿したのと、青龍が後からようやく追いついてきた左大臣の助けを借りて京姫を引き上げたのが同時だった。あと一瞬遅ければ、京姫は井戸底より立ち上った火炎の柱に呑まれて焼け死んでいたに違いなかった。京姫は地面に座り込み、青龍に肩を抱きかかえられながら、唖然として火柱を見上げていた。京姫ばかりではない。青龍も左大臣も、なにも言葉を発せぬまま、事の成り行きを見守る他なかった。


 悪しき炎は井戸底の水を枯らし、井筒を焼き尽くした後で、一人の女の姿を模った。やがて炎が消えると、そこには絢爛豪華なともけばけばしいとも言える、鮮やかな緋色の地の打掛に、金色の前帯を結んだ遊女・螺鈿らでんが現れる。白い化粧で塗り立てた小さな顔には、真っ赤に彩った目の縁と唇が目立ち、豊かな黒髪に挿された夥しい鼈甲や銀の簪がさびしげな細面の周囲を飾りたてている。その群れつどう中心に、あの小さな貧相な櫛がぽつりと立っている。美しい華やかな容貌ではあるが、その表情は、先ほど井戸底から京姫に向けた笑いをそのままにした、凶悪なものであり、京姫たちを見下ろす目には嗜虐的な輝きさえ見られた。螺鈿の打掛には巨大な女郎蜘蛛の姿が、不気味なぬらぬらした輝きを放ちつつ刺繍されていた。螺鈿はまずその美しい衣装と張り切った己の皮膚を確かめてほくそ笑んだ。


「アレ、嬉しいねェ。ようやく元の美しい姿に戻れたみてェだ」


 と、螺鈿は京姫たちに再び目を落とす。


「おめえたちかい、京姫だとかなんだとか云うのはサ」

「螺鈿……」


 京姫の言葉は敵意ばかりを含めずに、夜風に途切れてしまう。螺鈿は今まで、この町に伝わる悲劇のヒロインに過ぎなかった。それが、今日の昼間になって、墓を荒らされたということでようよう一人の生きた人間として憐れむべき対象となり、そして今は戦うべき敵として実際に向かい合っているのである。螺鈿と京姫とは、今世においてすら、なんの因縁もないにも関わらず。


「姫様、用心なされ!」


 あからさまな京姫の当惑を見て取って、左大臣が忠告した。螺鈿はそんな言葉にけらけらと笑い声をたてた。


「用心!こいつぁいいねェ。確かに世の中用心が肝心さ……どっちみちお前たちには苦しんで死んでもらうけどね。フン、お前たちには恨みはねぇが、ようやくこの美しい姿で蘇らせてもらえたんだ。その恩は返さねぇとこの螺鈿の名が廃るってもんサ」


 螺鈿が銀の簪の一つを抜いて京姫の足元へと投げつける。京姫は飛びのいて交わしたが、簪は投げつけられるうちからその白銀の輝きを伸ばして、一筋の糸を引いてみせる。そうして、簪が突き刺さったところから、土が盛り上がっていき、焔とともに一匹の、牡馬ほどもある蜘蛛の姿が現れた。京姫と青龍は思わず後ずさった。


 螺鈿は矢継ぎ早に続く二本の簪を投げつけた。そのいずれもが蜘蛛の形をとり、口元にある小さな鋏をがしゃがしゃとやかましく鳴らしながら、最初のうちはまるで生まれたことを喜びでもするかのようにそれぞれに這い回っていたのが、ふと京姫たちに気付くと、一斉に向き直り、あるものは鋏で以ってますます騒ぎ立てあるものは前後八本の脚を器用に交互に使って、上半身と下半身とを交互に上げ下げしてみせた。あるものは口元から小さな炎を吐いた。京姫と青龍は思わず抱き合って震え上がった。そんな二人を、左大臣が叱咤する。


「姫様、青龍殿!なにをされているのです!戦われるのです!」

「さあ、あちきの可愛い子蜘蛛たち、やっちまいな!」


 母なる螺鈿の命令で、子蜘蛛たちは八本の足を忙しなく使って京姫たちに向かってきた。つい気を失いそうになりながらも、意識を留めた京姫と青龍は仗と刀とを構えた。一匹の蜘蛛が突如ぴょんと跳ねて飛びかかってきたのを、まずは左大臣が受けるべく、刃を構えてその黒い腹を切り払おうとした。が、蜘蛛の分厚い皮膚は左大臣の刀を容易に弾き、左大臣は蜘蛛の八本の足の付け根の下敷きにされた。蜘蛛は嬉しそうに、腰を上げ下げした。


「左大臣!」


 助けに向かおうとした京姫と青龍にも、他の子蜘蛛たちが襲い掛かってきたところであった。京姫は仗の先で子蜘蛛の牙を跳ね返し、青龍は蜘蛛の前脚二本を切り薙いだ。京姫が跳ね返した子蜘蛛は柔らかなボールか何かのように地面を跳ねて着地した後、一体なにが起こったのだかという不思議そうな素振りで周囲を見回し、京姫の姿を再び認めると笑い声でもあげるかのように甲高い声を放って飛び回った。青龍に前脚を奪われた蜘蛛は、悲鳴のようなものをあげたが、すぐに残る六本の足を使って青龍に突進してきた。青龍は刀で受け止めきることはできないで、急いで避けた。


「青龍!後ろ!」


 京姫が叫んだので、青龍は間一髪、螺鈿が振りかざした簪の鋭い切っ先を交わすことができた。青龍が素早く後方へと下がって姿勢をたてなおし凍解を構えると、螺鈿はひらりと宙へ浮かび上がり、けたたましく笑声を立てる。彼女の声と蜘蛛たちのたてる音の調べはどこか似通っていた。


「螺鈿……あんたとは戦いたくない」

「それじゃあ、死ぬかい?」


 六本足の蜘蛛が闇雲にこちらに突き進んでくるのを、青龍は華麗に跳躍して交わした。そして、蜘蛛の後方へと廻りこむと、今度は後ろ足四本を瞬時に切り落とす。蜘蛛はついに動けなくなって地面の上に倒れ伏す。切られた足からは禍々しい臙脂色の血が流れ出ていた。そんな子蜘蛛の苦悶の姿を見下ろして、螺鈿は眉をひそめる。


「アレ、随分ひどいことをするじゃアねぇか」

「じゃあ、今すぐこの蜘蛛たちを引っ込めてよ。あたし、あんたと戦う義理はない!あんたは寧ろ被害者だもの。墓を荒らされて、永い眠りから無理に呼び覚まされて……!全部漆のせいじゃない!あたしたちの敵はあいつだけっ……!」


 京姫の悲鳴が背後から聞こえる。蜘蛛に炎を噴出されて苦戦しているようだ。左大臣のこともはやく助けなければいけない。そのために螺鈿をさっさと説得するのだ。青龍の額に汗が流れる。と、青龍が蜘蛛の血が間もなく足元まで浸そうとしているのに気づいて目を落とした刹那、一瞬敵から目を離した隙に、動けなくなった蜘蛛の口からしゅるしゅると糸が吐き出されて、凍解に絡みついた。はっとした青龍が両手で必死にしがみつこうとするにもすでに遅く、刀は奪われて螺鈿の手に渡った。青龍はこの攻防の際にバランスを崩して、蜘蛛の血だまりの中に倒れ込み、膝をついた。蜘蛛の血液は生温く、固い土をぬかるませて、青龍の袴にずっしりと染みわたった。


「なにを……!」


 螺鈿を見上げた青龍は、その目の先に氷のように鈍く光る凍解の切っ先を突き付けられた。螺鈿の打掛の裾が青龍の頬を撫ぜる。と、螺鈿の素足が青龍の顎を蹴り上げて、青龍は血だまりの中にまともに倒れ込んだ。溝のような臭気を発している血が口の中を侵す。咄嗟に体を起こした青龍は、蹴り上げられた痛みよりもまず嫌悪感と生理的な吐き気とに屈みこみ、噎せこんだが、たちまち螺鈿の足がその後頭部を踏んで、青龍の顔を再び血の中に押し付けた。青龍は土に手を付いて身を起こそうとしたが、血だまりの底の泥は青龍の指先を呑みこむばかりであった。螺鈿の嘲笑、鼓膜に集う水音に紛れて、遠く聞こえた。


「苦しかろうねェ。でもあちきはもっと苦しかった……何百年も、星の一かけらさえ拝めずに、泥水に浸かっていたんだ。冷たくて暗いなかで、たった一人ぼっちサ。あちきがどんなに助けを求めても、誰一人、あの忌々しい蓋を取り払ってくれやしなかった。芙蓉様を除いてはね……」


 螺鈿は優雅に足を組んで腰かけるような姿勢をとって、もう片方の足の重みを、青龍の清らかな髪の上に載せた。青龍の顔は泥の中にめりこんだ。呼吸のできぬ苦しさと、血の臭気、固く閉じた口の中に残っているおぞましい味と、服を重たくし体の温度を奪っていく血の冷たさとに、青龍はほとんど冷静な判断力を失いかけていた。恐怖が理性を駆逐していく。鼻から吐き出した息があぶくを立てて騒がしい。青龍は泥の中に手を突っ込んで、却って深く沈み込む。


「そういう訳だ。悪いけど、お前さんにはやっぱり死んでもらうよ。だが、あちきほど苦しみたかねぇっていうなら仕方ねぇ……」


 螺鈿は凍解を振りかざした。その刃が狙うのは、螺鈿の足元に仄暗く陰らされても尚白く光る主人の項であった。螺鈿の口元の紅が残虐に歪む。この時、螺鈿の見開かれた緋色の眼は、嗜虐の快楽に打ち震えてすらいた。


「やめなさい!!」


 螺鈿は月影を遮る影に、はっと顔を上げた。仗を高く掲げた京姫がその袖を麗しくきらめかせながら夜空を駆け上がって、螺鈿の額めがけて一撃を食らわせようとしているところであった。螺鈿は後ろへ退いた拍子に胸に鋭い仗の一突きを食らって均衡を失い、可愛い瀕死の子蜘蛛の体の上に倒れた。蜘蛛はシューシューと音をたてて泡を吹きながら、衝撃に驚いて残った二本の足で立ち上がろうとし、螺鈿をその黒い醜い体の上から血だまりの内へと滑り落としてしまった。その飛沫が、子蜘蛛を昂奮させて、猿のような悲鳴をあげさせる。


「青龍!大丈夫?!」


 京姫は自身も血に汚れるのも構わずに膝を突いて、青龍を抱き起した。青龍は血を吐きだし、嘔吐しまいと口元を抑えて噎せた。京姫は汚れていない自分の袖で、青龍の顔を拭ってやった。


「姫……!」

「怪我はない、青龍?」

「な、なんとか……」


 京姫に手を引かれて立ち上がった青龍は、螺鈿の手を離れた刀が、赤い水面に浮かんでいるのを見た。駆け寄ろうとした青龍の前に、一匹の蜘蛛が立ちふさがる。京姫が先ほど相手をしていた蜘蛛で、京姫はなんとかこの怪物を振り払って青龍を助けに向かったのだ。蜘蛛は八つの目を陰険な黄色に光らせて二人を威嚇し、牙のある口から炎を吐いて見せた。炎は、血だまりを一瞬で干からびさせた。その熱気に、呪文を唱えんとしていた京姫の舌も乾ききってしまう。二人は子蜘蛛の猛攻に後退するほかなかった。


「青龍、私がおとりになる……!」


 京姫が小さく青龍に囁いた。


「私があいつの気を引きつける。その隙に凍解を取り返して!」

「でも……!」

「いいから、早く!左大臣を助けなきゃいけないの!」


 青龍はちらりと、子蜘蛛が押しつぶそうとするのを、地面を転がりまわって交わしながら反撃の機会をうかがっている左大臣の姿を認めた。確かにあまり猶予はなさそうだ。仕方なく、青龍はこくんと頷いた。こういう役回りは、できれば自分が担いたいのだけれど。京姫はにこりと笑った。


「じゃあ、いくよ……!」


 京姫が仗を掲げて叫ぶ。


『桜吹雪!』

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