4-5 「死に方はどちらになさいますの」




「じゃあ、ちょっといってくるねー!」


 午後七時半。翼は湯上りのさっぱりした体に水色のワンピースと白いカーディガンを引っかけた姿で、青木家の玄関先に立ち、家の中に向かって叫ぶ。翼の家は、大きくはないが純和風の立派な邸宅で、母屋と納屋、それから母屋の裏に聳える剣道場から成っており、家の周りにはぐるりと椿の垣根が巡らされている。


 この家は、桜花交番に勤務する翼の父親が賄ったものではなく、この土地に古くから――祖父曰く江戸時代から――暮らす、翼の母の家が受け継いできたものだった。翼の両親は警察学校で知り合い、結婚して翼の父が青木家へと婿入りした。青木家は代々警察官の家系で、翼の母は八年前に退職していたが、翼の一番上の姉であるそらは今年から紺の制服と帽子をまとって働いていたし、二番目の姉のひかるも現在警察官を目指して勉強中だった。翼もいつかは同じ道を辿るかもしれない。でもそれはもう少し未来の話だ。


 警察を引退してから剣道の道場を開いている祖父に今日もいつも通り朝夕二回の稽古をつけてもらった翼は、今日は夜勤の父親に夜食を届けに行くところであった。自転車の籠に祖母と母の手料理をふんだんに詰め込んだ重たいお重をのせてサドルに跨った翼の背中に、祖父の声が投げかけられる。


「翼、気を付けるんだぞ……なにかと物騒だからな、最近は」


 翼は振り返って、浴衣姿の祖父にピースサインを向けた。


「大丈夫っ!ありがとう、おじいちゃん!」


 先ほどまで敬語で向かい合っていた師弟も、今は祖父と孫娘である。翼はもう一度いってきますを言って自転車を漕ぎはじめた。と、しばらく公園沿いの道を漕ぎ進めたところで、見慣れた背中が前を歩いていることに気がついた。あれは……翼の胸がとくんと鳴る。もしかしなくても、多分……


「恭弥!」


 翼は恭弥の傍らで自転車を止める。恭弥は「おっ」と言って、目をぱちぱちさせながら、翼を見遣った。今日もサッカー部の練習だったのだろう。私服に着替えていても、なんだかその姿は薄汚れて見える。その右手にはケーキの箱が提げられていた。


「どこ行くの?」

「京野ん。今日ボールぶつけたこと母ちゃんにうっかり言っちまったら、すっげぇ怒られて。『女の子の顔にボールをぶつけるなんて!』なんて、もう、うるせぇのなんの」

「そりゃそうよ……」

「ったく、お前まで……でも、まあ、一応俺も悪いなとは思ってるし?母ちゃんの店のケーキ持たされたから、ちょっと謝りにいってこようかなって……」

「なるほどね……あれ?あんた、京野さんの家知ってるの?」

「母ちゃんが知ってたんだよ。前PTAの用事で行ったことがあるらしくて。あいつん家、桜花小の近くなんだって」

「へぇ、そうなんだ……」

「お前こそ、どこ行くんだよ?」


 暗闇のせいだろうか。歩きながらの会話がいつになく弾むのは。翼は嬉しくなる。母親に引っ叩かれたのか、恭弥の右頬がほのかに赤いのが、白い街灯に照らされた拍子に見える。そんなことすら、翼にはおかしくて、胸をくすぐられたように、笑いたくなってしまう。


「あたしは、ほら、お父さんに夜食を届けにいくとこっ!」

「あっ、今日夜勤なのな」


 こんな風に話が通じることも、翼には嬉しくて仕方ない。やっぱり二人の距離は離れてなどいなかったのかもしれない。翼が勝手にそう思い込んでいるだけで。学校という社会の中では、男子と女子はどうしたって離れて生活せざるを得ないのだ。でも、二人きりになればいつだって昔の関係に戻ることができる。今みたいな時間を毎日作ることができれば。恭弥は特に照れもせずに言った。


「じゃあ、交番まで送ってってやるよ。最近あぶねぇらしいぜ?どうせ十字路のとこまでは一緒だろ?」

「……!そ、そんな……っ!」


 顔を真っ赤にして俯いた翼は、本当はありがとうと言いたかったのだ。だが、近すぎる二人の仲がそうさせてくれない。親しき仲にも礼儀あり――翼はずっとそう教え込まれてきた。けじめはきちんとつけているつもりでいた。祖父が相手ならば、公私の切り替えはいとも簡単にできるのに。恭弥が相手だと躊躇ってしまう。なんだか気恥ずかしくて。すると、今度は近すぎる距離がもどかしくなってくる。


 二人はしばらく黙したまま歩いた。翼は自転車を押して目を伏しながら、恭弥は暢気そうに鼻歌を歌ったり黒い空に星が見当たらないか探したりしながら。


「ねぇ……」

「ん?」


 恭弥の返事は鼻歌に紛れていかにも能天気である。


「あ、あたしも、一緒に京野さんの家行こうかなっ」

「はあ?なんでお前が?」

「いいじゃないの!あたしだって、今日のことは一応悪いんだし……それに……」


 そしたら一緒に帰れるじゃない。どんな言葉でその意味を伝えようかと翼が逡巡していたとき、後ろから甲高い悲鳴が上がった。女性の声だ。翼と恭弥とはびっくりして振り返った。ひったくりかなんかだろうか。それとも単にふざけて騒いでいるだけか。しかし、二人が見たものは、二人の予想できるような代物ではなかった。


 それは、巨大な犬のようにも見えた。なにしろ数十メートル離れているので、地面に崩れ落ちてしまった女性の顔も、女性と向き合って、今にも襲い掛からんと身を屈めている獣の正体もはっきりとは見定められない。恭弥が助けに向かおうと走り出す音にはっと我に返った翼は、迷わず地面を蹴ってペダルを踏み込んだ。翼は恭弥をあっという間に追い抜いた。


「あっ、おい!バカッ!」

「バカとはなによ!」


 翼は言葉だけを背後に投げつけながら、ギアを最大に上げて、獣の方へと突撃していった。獣はあと二、三メートルというところになって翼に気がつき、ひらりと後方に飛びのいて翼を避けた。翼は咄嗟にブレーキを強く握って、人のいいおばあさんが一人で暮らしている家の石垣にぶつかるのを免れた。ブレーキの音が甲高く、静かな町に響いた。翼は急停止した反動であやうくサドルから投げ出されかねたが、なんとかハンドルにしがみついた。掌が摩擦で熱くなった。


「大丈夫ですかっ?!」


 翼は自転車に跨ったまま、女性に尋ねる。と、怯えて竦んでいるスーツ姿の髪の長いその女性が、他ならぬ自分の実の姉であることに、翼は気付く。


「光お姉ちゃん!」

「つ、翼……!な、なんなの、あいつ……っ!」


 翼の二番目の姉、光はぺたりと腰を地面につけて、涙ぐんだ目を大きく見開きながら、震える指でそれを指さした。翼も姉の指に視線をならって、愕然とする。こんな生き物を、翼は見たことがない。大きな犬のように見えたというのは間違ってはいなくて、確かにそれは犬にも似ていたが、尋常の犬とは異なっているのはその巨大さと、四つの脚が下半分からが鳥の足のようになっていること、凶悪な緋色の目を持つ耳のない二つの頭が生えていること、それから嘴を持ち、爬虫類のような長い尾を持っていることだ。翼は思わず「ひっ」と小さく声を漏らした。


「おい、大丈夫か?!」


 恭弥もまた駆けつけてきたようだ。駄目だ、危ない。それ以上近づいては……!それにどうやら姉も立ち上がれないままでいるようだ。


 翼は怪物の目を正面から睨みつけた。恐怖で両手は震えていたし、嫌な汗がせっかく洗った体を伝って汚していく。でも、今こそやらなければ。ずっと想像していたんだもの――いつかこうして恐ろしいものと向かい合わねばならぬ日が来ることを決意していた――翼が考えていた形とは、少し違ってはいたけれど。


(だって、あたしは警察官の家系に生まれた。あたしは警察になって、この町を守るんだもの。そう決めてたんだもの……あたし、もしかしたら、今、お姉ちゃんと恭弥を助けられるかもしれない)


 知らず知らずのうちに、翼の指は自転車のベルを鳴らしていた。その音が示す意味を、翼はまだ知らなかった。怪物がベルの音に身じろぎすると、翼は無理に笑顔を作った。


「おいで、化け物……あたしが相手よ」


 翼は再度自転車のベルを鳴らした。あきらかにその音は怪物を挑発したらしく、怪物の四つの目が神経質そうに翼の手元を見遣る。分厚い、黒い舌が垂れ下がっている二つの嘴から、地響きのようなうなり声が響いた。


「恭弥っ!お姉ちゃんを、よろしくっ!」

「おい、なにするつもりだ、バカ……!」


 翼は怪物に向かって自転車を漕ぎだした。爪先で迎え撃とうとする怪物の体を上手く迂回して、翼はベルの音をうるさいほどに鳴らしながら、振り返って怪物に怒鳴る。


「こっちよ!!来いっ!!!!」

「おい、翼!!」


 恭弥の叫ぶ声は、翼の耳には届かなかった。翼はただ、怪物が自分の後を追い始めてきたことを確認すると、安堵し半ば不安に思いつつ、全速力で自転車を走らせた。タイヤが道路に擦れて火花が散るように、翼には思えた。それも、あまりにも必死に足を動かすために見た幻覚かもしれなかった。風がこんなに音をたてるのを、翼は初めて聞いた。結んだ二つの髪の房が耳の後ろに勢いよく靡いている。景色はあっという間に過ぎ去っていく。もし急に人が飛び出てきたら、間違いなく轢き殺してしまうだろう。一度だけ背後にちらりと目を遣って、怪物がもう少しで追いつきそうだと判断した翼は、右手に続いている、桜花公園の林の中に突っ込んだ。


 闇の中、必死に乱立する木々を見定めて交わしながら、意識は絶えず背後に追ってくるものに注いでいる。翼はこんなにも木々の沈黙を不気味に思ったことはなかった。翼がこれほど必死になって、本当は恐ろしくて泣きだしたい想いをかかえて、それでも痛み始めてきた脚を酷使して走っているというのに、木々は同情をちらりとも示そうとしないのだ。夜の闇という笠を着せられて、木々はいずれもなに一つ声をたてなくてよいというその心やすさのなかに安住し、ただ目線を土の上に落とし続けるだけだ。昼間見上げる木々は、あんなにも優しく、明るく、翼に話しかけてくると言うのに。林を抜けた翼は、今は誰もいないだろうという判断を自分でも奇蹟的だと思うほどの早さで下し、遊具のたくさんあるこども広場の方へと行く先を決めた。そこにはたくさん遊具が……隠れ場所がある。そこで怪物を撒くこととしよう。 翼は誰もいないランニングコースを横切り、遠くに桜花図書館の明かりをのぞみながら、あそこに逃げ込めたらどんなにいいかと思った。しかし、それは怪物を撒いた後のことだ。誰かを巻き込む訳にはいかない。囮はあたし一人で十分なのだから。


 と、翼は目の前の道が途切れて、公園の中央にある噴水広場に向かう下り階段が代わりに連なっていることに気がついた。どうしよう。階段は自転車で滑り降りるには急すぎるし長すぎる。このスピードで駆け下りたら確実に転倒するだろう――翼は覚悟を決めた。


「はあああああぁぁぁぁっ!!!!」


 自転車が宙に舞い上がった。翼の視界が一時に開けた。これまでは、目の前の暗闇と風の流れしか見えていなかった。今は、塔の形をした噴水の装置から水が白く滾って流れ、砕けていく様子、泉の水面が月光にきらめいて銀色の波模様を揺らめかせている様子、噴水の周りに敷かれた石畳の清らかなまでの白さ、泉へと下っていく斜面に生えている芝のふさふさとしたその青さなどがはっきりと見える。いずれも、全て眼下に。


 その時、視界の中でなにか閃いたものがあって、翼ははっとする。しかし、それに対応する術も暇も翼にはなかった。翼と自転車は、なにか衝撃を受けて吹き飛ばされ、泉の中へと墜落した。夥しい飛沫があがった。翼は浅い泉の底にしたたか体を打ち付けた。一体なにが起きたというのだろう。水を吐き出し噎せこみながら、水の中で身を起こすと、水面より持ち上げた部分がひどく冷たく重く感じられた。自転車はどうしただろう。噴水が頭の上にはねかかって視界を邪魔する。とにかく、ここから出なければ。翼は悲鳴をあげる体を叱りつけて立ち上がろうとして、水の中から這い上がるその直前、女の哄笑を浴びた。


「今宵はよい月ですわ。そう思いませんこと?」


 翼ははっと周囲を見回した。今の声はどこから聞こえたのであろう。よからぬ者の声であることだけは、確かだが……翼が夜空を見上げたのと、女が腕を振り上げたのが同時だった。翼はその肩にまともに鞭を受けて、再び泉に倒れ込んだ。


「くっ……!!」


 翼は水の中から顔を引き上げた。ちょうど月を見つめるその視界に、宙に浮かび上がる女の姿が映り込んだ。女はごく淡い紫色の髪を、十二単を纏った体の線にその腰元まで添わせていた。顔は月に当てられていないにも関わらず青白く冴えわたり、剃ったものの代わりに額の中央に書かれた楕円型の眉や、光のない瞳、哄笑に歪んでいる玉虫色の口元がはっきりと確かめられる。月夜に浮かび上がるその姿は確かに美しかったが、それ故に一層凄烈でおぞましい。何より恐ろしいのは、十二単の袖から覗いている白い手から垂れ下がっている、鞭であろうか。幽霊のようにも見えるのに、なぜ幽霊が鞭などを。そして、なぜ幽霊が翼を攻撃してくる必要があるというのだ。


「あんた、なんなのっ……?!」

「あら、覚えていていただけませんでしたの。少し残念ですわ。まあ、改めて名乗ってさしあげます。わたくしは芙蓉。あちらはわたくしの忠実なしもべですわ」


 芙蓉が鞭の柄で示した先に、例の怪物の姿があった。怪物は鳥の足に生えた爪でいらいらと石畳を叩きながら、翼の一挙一動に四つの目を光らせている。翼は体を打ち付け、頬を殴られ、散々痛い目に遭わされたせいか、恐怖や混乱よりも怒りの方が先に立った。


「何を訳のわかんないこと言ってんのっ!あたし、あんたなんか知らない!……け、警察を呼ぶわよ!」

「ふふ、かわらいらしいこと。まだなにも思い出せないままでいますのね。いたしかたございませんわ。四神として覚醒した訳ではないのですもの……でも、それがこちらには好都合」


 怪物がうなり声を上げ始めた。芙蓉は口の端を吊り上げて微笑む。翼はぞっとした。濡れた体に風が吹き付けたばかりではない。首筋を滴る雫のせいでもない。なにか、絶対に理解できないものと対面してしまった恐怖と、微笑みが不意にあらわにした女の残忍な気質とが、翼を慄かせたのである。


「選ばせてさしあげますわ。わたくしの隷にはらわたを食いちぎられて死ぬか、わたくしの鞭で死ぬか。どちらも残念ながらとても痛いと思いますわ。わたくしにはわかりませんけれど。教えてくださらない?どれぐらい、それって痛いのか……」


 冗談じゃない……翼は怯えて一歩後ずさった。こんなことってあるんだろうか。人が浮いているのだ。怪物が存在しているのだ。そして、そいつらは自分を殺そうとしているのだ。悪い夢だと思いたい。けれど、きっと現実だ。背中にかかる霧のような噴水の感覚も、ぺたりと体に張り付いた服の感覚も、痛みも、恐怖も、なにもかも生々しすぎる。一体どんな因果でこんなことが起こり得るというの。ああ、せめて竹刀でもあれば、なんとか太刀打ちできるかもしれない。いや、無理だ。こんな化け物相手にして。翼はもう一歩さがって、何かを踏んで転びかけた。女や双頭の怪物から目を離したらすぐにでも襲い掛かってきそうな気がして震えながらも、翼は視線をそっと水の中に潜らせた。泉の底で、水面に揺れる月影に紛れて鈍く光を放っているのは、ハンドルから外れてしまったらしい、自転車のベルであった。翼はさらに後ずさってよろけたふりをしながら、咄嗟にそれを右手の中におさめた。せめてもの抵抗だ。これを投げつけてやろう。翼はそう思ったのだった。でもどちらに投げつければより効果的なのだろうか。女か?それとも怪物か?


「さあ、死に方はどちらになさいますの?選べないんでしたらわたくしが選んで差し上げてもよくってよ……」

「……っ!!!」


 こっちこそ、選んであげるんだから――翼は震えを抑えるようにベルをきつく握りしめた。

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