4-4 「必ずや復讐は果たしますわ」

 その日、帰宅してから、舞は鞄から出られて喜んでいる左大臣に、体育のときの出来事を話した。舞の顔面にサッカーボールが当たったと聞いて、左大臣は危うく気絶しかけたが、舞は冷凍庫から取り出してき保冷剤で倒れた左大臣を蘇生させた(保冷剤は魚を包むのに使っていたせいか、なんとなく生臭かった)。それから、ふっと、舞は思い出して言った。


「そういえばね、今日ちょっと変なことがあったの……ボールにぶつかったせいかもしれないけどね、さっき話した青木さんって子がね、別の人みたいに見えたの。ほんの一瞬だけど。それも全く別の人じゃなくて、もうちょっと大人っぽくなったってだけで……その子なんか言ってきたんだけど、それは覚えてないや。でも、姫様って私のこと呼んだ気がする。全部妄想かもしれないけど、私、その子を見たときに、なんだか、懐かしくて……」


 左大臣は「おお!」と叫んで膝を打った。


「姫様!ついにやりましたな!いや、これほど早く見つかれば上出来!さっそく四神の一人を見つけられたようですな!」

「でも、これまではなんともなかったんだよ、青木さんともお話ししたりしてたけど」

「いやいや、これまでは姫様の霊力が目覚めてなかったので、気づかれなかっただけです。その青木殿という方が、御記憶のなかで『姫様』と呼んだのであれば、きっと四神に違いありませぬ。姫様、もっとその青木殿と接触なさるのです!」

「せ、接触?!接触って言われたって……もっと仲良くすればいいってこと?」

「左様でございます!そのうちに、姫様の霊力で必ずや青木殿も四神として覚醒することでしょう……否、しかし……そう、我々には時間がない…………そうです、姫様!いっそのこと、青木殿に全てを打ち明けなさっては?」

「そ、そんな!無理だって!完全に私、変な子だと思われちゃう!それで嫌われちゃったら元も子もないじゃない!」

「しかしですな……」


 と、舞の部屋の扉をノックする音がした。舞と左大臣はびくっとしてフリーズした。扉が開いて、母親が顔を出した。掃除の途中だったらしく、はたきをその手に持っている。


「舞?あなたなに一人で喋ってるの?」

「えっ?あっ、お母さん……!えっと、これはその……演劇の練習!」

「演劇?あなた演劇部にでも入るの?」

「え、演劇部?あっ!そ、そう!う、うん、誘われてて……あっ、でも日本舞踊のお稽古もあるから、ちょっと難しいかな。あっ、あはは……!」

「変な子ねぇ。まあ、それはあなたの自由だけど。それより、舞、あなた勉強は大丈夫なの?心配だわ。あなたは塾も行かせてあげてないし。今度、お姉ちゃんの行ってるところ、見学にいく?」

「い、嫌!お姉ちゃんの行ってるところなんて無理!わ、私は自分のペースで、頑張る……!多分……」


 塾なんて行ったらそれこそ京姫の使命を果たす余裕なんてなくなってしまうではないか。それに、なにをしたところで、自分の成績が上がる見込みはない気がする。あっそういえば、英語の再テストがあるんだった……


「でもねぇ、舞、あなた、受験のこととか考えたら……」

「あっ、あーっ!わ、私、今日は友達と約束あるんだった!出かけてくるねー!」


 舞はポーチと左大臣を引っ掴むと、母親の横を通り抜けて階段を駆け下りていった。最後の二、三段は踏み外して滑りかけ、変な声が飛び出た。慌ただしい娘の後ろ姿を見送って、舞の母親は、頬にゴム手袋をした手をあてながら、呟く。

「なんでテディなんか持ってくのかしら。ほんと、変な子……誰に似たのかしら」



「しかし、姫様、どちらに行かれるのです?」


 ピンク色の、フリルのついたかわいらしいポーチから顔を出して、左大臣が尋ねる。舞は溜息をついて首を振った。舞の家のある通りは、ちょうど皆が学校やら会社やらに出かけている時間のせいか、あまり人通りがなかった。


「わかんない……でも、話の雲行きが怪しくなってきたから」

「姫様、申し上げておきますが、いくら京姫として戦わねばならぬとはいえ、勉強はなさらないとなりませんぞ。京姫として四神を統率するにあっては、なによりも知識と思考力、それらがなくてはなりませぬ」

「わかってるってば!もう、なんでみんな勉強、勉強っていうのよ……」


 その時、舞は思い出した。翼によく似たあの少女が言った言葉――「姫様!まーた勉強の時間に抜け出しましたね!」


 「だって、だって、つまんないんだもん!!!」確か、自分はそう返した気がする……舞ははっとした。これが前世の記憶なのだろうか。それとも、白昼夢だろうか。でも、やはりこの記憶には紛れもない真実の感触が、懐かしさがある。とても楽しかった、きらきらした日々。それなのに、思い出すことはなんだか辛い。自分はこんな楽しい時間の他に、もっと思い出さなきゃいけないことがある気がする……それは、前世での戦いの記憶なのだろうか。そうだ、思い出さなければならない。もっと辛いことを。もっと痛いことを。もっとさびしいことを――でも、まっさきに思い出したのは、明るい陽射しの中の記憶だった。きっと、舞はどんな凄惨な色に塗り替えられようとも、その元の色を鮮やかに思い出せるほどに、それらの記憶をとても大切に思っていたのだ。


   「姫様!まーた勉強の時間に抜け出しましたね!」


「……桜花図書館で、勉強しようかな」


 舞は小さく呟いた。どちらにせよ、再テストではもう失敗できないのだから。




 学級委員の仕事を終えた青木翼は、仕事をやり終えたという達成感を以って明るく元気に下校の路を辿っていた。彼女の家は、巨大な十字路に仕切られたうちの右上の区画にある。学校からは徒歩十五分の距離だ。この区画は、比較的文化の色が濃い地域で、私立水仙女学院、市立桜花中学校と、二つの学校がある他、広大な面積を持つ(面積を持つだけで何もないというのが桜花市住民の共通の見解であったが)桜花公園の中には桜花図書館もある。ここはあまり大した資料はなくて、水仙女学院の図書館の方がよほど色々と揃っているという始末であったけれど、その分利用者が少ないので、落ち着いて勉強できる場所ではあった。翼の家はその公園に面して建っていた。そして、その隣に恭弥の家がある。


 「うるせぇ!大体おめぇには関係ないだろうが!」――翼は京野幼馴染の言葉を思い出して、せっかくのご機嫌な気分を損ねたが、ささやかな怒りは次第に甘くほろ苦い感情の中に溶けていった。そういう感情を、人は切なさと呼ぶのだと、翼は知っている。


「なによ、関係ないってことないでしょ……」


 翼は思わず口に出して呟く。小さな手が、スカートの裾をくしゃっと掴む。今まで翼と恭弥、二人の日々のなかに互いに関係のないことなどなかった。どちらかに起こったどんな些細なことももう片方に作用した。たとえば、それは、翼がお気に入りの人形をなくしてしまったせいで恭弥が思わぬ迫害を受けて大泣きする羽目になったり、恭弥が大好きなお菓子をたくさんもらったので翼も少し分け前をもらったりする、そういう形であらわれた。


 今でこそ生意気な口を聞いているけれど、幼い頃の恭弥は弱気で泣き虫だった。いつも翼と一緒にいたのも、男相手ではみんなにからかわれていじめられることになったから、結局女の子である翼しか相手するものがいなかったという訳だ。翼は五歳の時から、もう一人前に恭弥を叱っていた。誰もが、翼は恭弥の実の姉みたいだと言った。


「こら、泣くんじゃないわよ!そんなことで!」

「やだ、やだ!つばさちゃんと一緒がいいの!!」


 いつからだろう。恭弥が泣かなくなったのは。男子の友達を対等に渡り合えるようになったのは。翼の傍を離れてしまったのは。いいえ、違う。離れてしまった訳ではない。相変わらずとても近くにいる。翼と恭弥は離れられるはずがない。離れてしまったと思うのは、それはきっと……翼の心がなにかを抱きはじめたから。恭弥の心にないものを。それを抱えている分だけ、その膨らみの分だけ、二人の心には隙間があいてしまった。そして、それが膨らんでいくほどに……


「バカッ」


 そういいながら、翼はその言葉を恭弥に向けるべきか、自分に向けるべきかわからないでいた。あんな言葉で傷ついている自分も嫌であったし、あんな言葉を吐かれて翼が傷つかないと思っている恭弥にも腹が立った。そして、そういうところに垣間見えている二人の齟齬にも。


「あんなやつ、なんてことないのに」


 そうだなんてことない。女子に囲まれてきゃあきゃあ騒がれているけれど、御立派にも喧嘩をして相手を殴り倒すことも辞さないけれど、サッカー部のキャプテンだけれども。あたしだけは泣き虫の恭弥を知っている。大したことはない。翼の手で頭を叩かれただけで一時間は泣き続ける、気弱で臆病な恭弥。動物園の象が怖くて動けなくなってしまった恭弥。でも、だからこそ、恭弥は優しかった。いつもその優しさを、翼に注ぎ続けてくれていたのだ。



 恋に、青春に、悩む翼は、その後ろを白い紙きれのようなものがひらひらと宙を泳ぎながら追ってきていることに気がつかなかった。たとえ振り返ったとしても、翼はただチラシかなにかが風にさらわれているだけだと見なしたに違いない。だが、それは風に翻弄されるような代物ではなかった。その紙片はおぞましい邪悪な意志に操られた人形ひとがたであった。人形は、翼が自宅に戻るまでを見届けると、突如くるりと身を翻し、町の東南のはずれの方へと、鷹のような速さで宙を切り、戻っていった。たぶの葉の間をすりぬけ、黒い鳥居をくぐって、人形がたどり着いたのは、苧環神社の本殿であった。


「まあ……」


 端近へと身を寄せて、締め切った扉のわずかな隙間を抜けてきた人形に人差し指を差し伸べて、芙蓉は声を漏らす。その微かな音色を、部屋の奥にいる人は聞き逃さない。


「どうした、芙蓉?」

「ふふ、褒めてくださいまし、漆様。さっそく四神の一人が見つかったようですわ。まだ覚醒はしておりません……どうでしょう、漆様。私自ら、そやつを始末しにいくというのは?」

「……悪くなさそうだ」


 漆は気だるげに言った。その口から煙が立ち上って、その香りが怪しいまでに芙蓉の心を惑わせる。障子を透かす陰鬱な日差しの中に佇む芙蓉には、暗闇の中にほのかに、煙管と、それを弄ぶ主人の白い手とが浮かび上がるのが見える。


「よろしゅうございますか」

「ああ、お前を信頼しているよ、芙蓉」

「……嬉しゅうございます」


 芙蓉は部屋の奥に向かって頭を下げる。すると、薄色うすいろの髪が衣擦れのような音をたてて十二単の上に流れ、前髪が小さな額の上にはらりと零れる。瞳を慎ましげに伏せる様子といい、重たい衣装に包まれた細い首や肩や手といい、この芙蓉という女は言葉を失うほどに美しい。しかし、見惚れてしまったが最後、人は皆その毒牙にかかって命を落とすことになる。彼女は蝶を装った蜘蛛、あるいは花を装った蟷螂であった。芙蓉の玉虫色の紅で彩られた唇は、主人への愛のほかには、悪意しか紡ぎだせない。


「必ずや復讐は果たしますわ……漆様」


 芙蓉の悪意の染められたように、翼を追っていた人形が湿っぽい床に落としていた小さな影は姿を変えた。それは、舞を二度も襲った怪物の輪郭をとりはじめて……低いうなり声がその影から絞り出されると、部屋の奥の人が、ふっと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る