4-2 「こっちに飛んできてる……?」
全速力で階段を駆け下り、体育着をひっつかんで更衣室へと向かった舞は、幸いクラスメイトたちに遅れることなく着替えをすますことができた。昇降口へと降り立った舞は、そこでぱたぱたと手で扇いで汗をかいた顔に風を送りながら、ふてくされている美佳に出くわした。美佳は昼間の練習があったので、舞と左大臣が騒ぎ合っている間、校庭で駆け回っていたという訳だ。
「美佳、昼練どうだったの?」
「べっつに。それよりなんなのよ……」
「どうかしたの?」
「この間の雨で男子のサッカーの授業が中止になったでしょ?だから、今日もやるんだって」
「えっ、じゃあ、女子は?」
「女子もサッカーだけど」
「ならいいじゃん」
「よくない!」
美佳はいきりたって言う。
「いい?!フィールドが半分ずつしか使えないのよ?!こんなことってある?!もう、いっそ男子も女子も一緒にやればいいじゃない!!
「や、やだよ!そんなんいいの美佳だけだよ!」
「もーう!サッカー!!!」
美佳は駄々をこねながら、下駄箱の、生徒が靴を脱ぐために少し段差になったスペースをごろごろと転がりまわった。さすが女子サッカー部のエースということはある。まさにサッカー狂の鑑だ。大体昼休みだって散々練習して疲れているはずなのに。舞は親友のそんな様子に呆れながらも、美佳を上手くよけて校庭で使う用の運動靴に履き替えた。五月を間近にしている空はすがすがしいほどに明るく、校庭の乾いた砂を白く眩いばかりに光らせている。舞は校庭が反射している日差しに少し目を細めて、その上を走り回りたいような、ここに立ってずっとそれを見つめていたいような、相反した衝動に駆られる自分を感じ始めた。
「おい、佐久間、踏むぞ!」
「男子のバカー!!」
振り返った舞は、まだふてくされている美佳のために靴が履き替えられずに難渋している男子たちの姿を見出して、少し笑った。と、美佳の周りに群れている男子たちのその奥から、困惑にも親しみにも和らげられていない冷やかな視線を投げかけている人物に気付いてはっとした。結城司――司の名を持った、司とは全く別の存在――舞は軽蔑といらつきを露骨にあらわしているその薄紫色の瞳に、騒がしく、あるいは楽しいかもしれない日々の片隅に影を投げかけていたものの正体を見出した気がした。
美佳と共に歩いていて、怪物に襲われたあの日――舞は忙しさのせいですっかり忘れていたけれど、否、忘れていたつもりであったけれども、あの日、偶然見かけてしまった光景はガラス板の上のひっかき傷のように、もうなにがそれを残したかもわからぬままに胸の中に残っていたのだ。弱り切ったような司の母親と、その隣に立ってそれを労りながらその母親よりも傷ついた心のうちを知らず知らずのうちに晒してしまっていた司と。あの光景は、舞がややもすると浸りたがっている幻想を打ち砕いてしまった――司はいない。転校生として舞の前にあらわれた結城司は、舞の知っている司とは全く別の存在なのだ。
(やめて、司……そんな顔をしないで……)
舞は再びそれを思い知らされた。あの大好きだった瞳に見覚えのあるものを何一つ認められなかったために。耐え難くて、舞は美佳を止めようとした。だが、美佳はおのずから一人の男子の足元まで到達してそこで停止した。
「なーにやってるんだよ」
栗色の髪、子供の純粋さをそのままに映している少し釣り目の黄色い瞳、日焼けした顔に常に湛えているどことなく女好きのする、愛嬌のある悪戯っぽい笑顔。
「あんたたちがサッカーのフィールド半分とっちゃったからよ!」
「悪かったな。俺たちにだって教育を受ける権利はあるんだぜ」
そんな風に、権利だとか少し賢そうに聞こえる言葉をいう時、恭弥の顔は得意に輝く。それがまた可愛らしく見える。
「いいでしょ!もう五回もサッカーしてんじゃない!」
「あー、うるさい、どけどけ。お前をサッカーボールにするぞ」
「男子なんかみんな遅刻しちゃえばいいんだー!」
「お前だって道連れになるだろうが」
と、面倒くさそうに言いながら、恭弥は美佳の襟を引っ掴んで坐らせた。美佳はまた怒ってなにか言おうとしたが、恭弥は美佳の頭に、恐らくはなんの気なく、ぽんと手を置いた。以来、美佳は静かになったので、男子たちはようやく靴を履きかえることができた。
舞の横を司が通り過ぎようというとき、恭弥が司の肩に後ろから飛びついて、明らかに迷惑だという顔をしている司に屈託のない笑顔を向けるのが見えた。
「なあなあ、結城、今日俺がハットトリック決めたらサッカー部入れよ、なっ?」
「言っただろ、僕はそんな暇ないって……」
そういえば、以前の司は恭弥と大親友だった。それが今はあんなにすげない対応を……舞は切なくなった。舞以外にも司を失った人はたくさんいるのだ。司と共に歩いていたあの司の母親もまたそうだ。そのなかで、舞だけが以前の司を知っている。司がいなくなってしまったことを知っている。それを思うと、なんだか恐ろしい気がする……
舞はもう一度白い校庭に目を転じた。恐怖の行き着かなさは、白い校庭のどこにも視線を寄りつけるところがないという、目の前の現実の空漠によく似ていた。砂はきらめいているけれども。日差しは豊かにあまねくその地表を照らし出し、温めてはいるけれども。そうだ、それは空白なんだ、空漠なんだ――司がこの世界にいないことは……そこで、チャイムが鳴った。
桜花中学校の校庭はひろいので、男女が同時にサッカーの試合をしようとも特に支障はないように思われる。もちろん、試合と同じフィールドで試合をしようとすれば、話は別だけれども。美佳はあんなに拗ねていたのもどこへやら、いざゲームが始まると大活躍を見せて、他の女子たちに悲鳴をあげさせた。黄色いものやら、単に恐怖からくるものやら、いろいろな種類のものを。舞は動いてはいたけれど、なんとなく心がボールを追っていかない。男子の方で笛が鳴っている。ああ、どうも、東野君が二点目を決めたみたい……
こちらでもちょうど美佳が点数を入れたところだった。舞は美佳と同じチームだから、三対一でリードはしている。ただ、舞はなにひとつ貢献できてはいなかったが。
相手チームのキックオフで試合が再開され、ぼんやりするばかりの舞にも、やっと活躍の場ができてほんの足先だけボールに触れたが、たちまち相手チームに奪われてしまった。それを美佳が取り返そうとして攻防戦が繰り広げられる。と、相手チームの女子――
「舞!取ってこい!」
試合中は人が変わったようになっている美佳が、荒々しく叫ぶ。舞は走ってボールを追いながら、目はつい男子の試合を追ってしまう。正確には、結城司の姿を。司が懸命に駆け回っている姿を見ると、舞はなぜだか安堵できるような気がした。なにもかもに冷め切っている訳じゃないのだ。一生懸命になれることが、まだ司には残っている。走っているときの司は、前の司とまるで一緒に見える……
(あっ、司がまた一人でゴールに向かってる。東野君が止めようとしてる。さすがに二人とも上手い。頑張れ、司……!あぁ、また私、司のこと応援しようとして。司は司じゃないのに。あっ、でもやっぱり東野君の方が上手いのは当たり前だよね。司のボールをカットして、そのボールが……こっちに飛んできてる……?)
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