第四話 四人の守護神

4-1 前世の仲間―四神

 舞は青ざめていた――たった今、英語の小テストの結果が返されたばかりだ。窓の外はうららかな春の朝で、早くも日差しが眩しくなってきている。桜の季節は終わり、散り積もった桜の花弁は人々の目を楽しませ観光客を集めるという役目を終えて、桜花市の住民たちが忙しなく動かす箒の先に追いやられても文句ひとつなく、自然の摂理に身を任せている。悪戯なのは風たちで、せっかくかき集めた桜の花弁を舞い上げては、善良な主婦たちに悲鳴をあげさせていた。赤茶色の桜の萼は、散歩する犬の毛にひっつくので、毎年愛犬家たちの悩みの種だった。


 だが、それでも人々は桜を愛したし、早くも来年の桜の季節がくることを待ち望んでさえいたのである。舞もその一人だった。確実にその一人のはずだったのだが――今は到底桜どころの気分ではない。


「ひ、ひどい……」

「確かに」


 舞の解答用紙をのぞきこんで、美佳が頷く。


「引っかけ問題出すなんて……」

「そっちか。点数の話かと思った」

「点数はどうでもいいでしょ!」

「京野、静かにしなさい!佐久間は席に戻る!はい、今回二十点以下だった人は水曜日の放課後に再テストね」

「えぇっ?!」


 点数は決してどうでもよくなかったのである。他の数名の生徒たちと共に絶望の声をあげた舞は、また鳥居先生に叱られた。舞はがっくりと肩を落とし、落ち込んだ勢いでそのまま机の上に突っ伏した。


「そ、そんなぁ……」



「それどころじゃないのに……」


 昼休み、舞は屋上へ続く階段の踊り場に座り込み、しくしくと涙しながら英語の教科書を開いていた。教科書にはたくさんの書き込みがあった。アンダーラインの類が三割、よく読めない文字で書かれた授業に関するメモ書きが三割、授業に関わらないメモ書きが二割、落書きが二割―――それを予備のためにそこに積んである机の上から眺めやって、呆れた顔をしているのはテディベアの姿だった。そう、テディベアが呆れた顔をしているのである。そして、あろうことか、そのテディベアはその愛くるしい姿に似つかわしからぬ老人の声でしゃべりだしたではないか。


「全く、姫様は相変わらず勉強が苦手でいらっしゃるようで……」

「あ、相変わらずってどういうこと?!」


 舞がわざわざ教室を離れ、固く鍵をかけてある屋上の扉の前に陣取っているのは、このテディベアとの会話を見られまいとするためであった。このテディベアの正体である左大臣の魂が舞の元へやってきて、早くも一週間が経っている。その前の一週間で二度も中学生たちが「土佐犬」に遭遇したと訴えていたのだが(美佳の場合は舞が黙っておこうといったのに、母親が心配して通報したのだ)警察は虚言か妄想だとみなしてろくろく相手にしていなかった。この土地には幸いにも土佐犬を飼っているものはいなかったせいなのだが、おかげで罪のない犬が濡れ衣を着せられずに済んだのである。舞はそんなこととはつゆ知らず、この二週間の平和な日々を謳歌していた。もう全て終わったような気にさえなることがあった。なぜなら、現実にあの二度にわたる戦いの痕跡をとどめるのは、テディベアがしゃべっていること、などというメルヘンな現象だけだったから。


 しかし、桜花市ではここ最近不思議なことが続いていた――ある者は、ボランティアで町のはずれにある廃神社に赴いたところ、誰もいないはずの本殿のなかから不気味なささやき声がしたと言った。ある者は、北山と呼ばれる名の通り町の北部にそびえる山のなかで、見慣れぬ獣を目撃したと言った。この二週間で、二人の若い女性が行方不明になっていた。だが、まだそれらの事件が不安の霧となって町を覆うのはまだ早かった。桜花市の日々は、いまだほとんどの市民にとって穏やかで退屈なものであった。


「いえ、姫様は前世でもしょっちゅう勉強の時間に逃げ出していらっしゃいましたからなぁ……」

「だ、だって、私、頭悪いんだもん!お姉ちゃんがお母さんとお父さんの頭脳をぜーんぶ持ってっちゃったんだから!」

「しかし、前世では……」

「ぜ、前世のことは関係ないの!」

「関係ないですと!」


 と、左大臣がいきり立ち、ひらりと飛び降りて舞の教科書の上に着地した。


「ちょっと、左大臣!見えない!」

「いいですか、姫様!前世のことはことごとく現世にも関係しているのですぞ!」

「そういう意味で言ったんじゃない!言ったんじゃないから、どいてよ!勉強できないでしょっ!」

「ああ、全く。姫様にはもう少ししっかりして、京姫としての自覚を持っていただかなければ……姫様、余計な時間を使っている暇はないのですぞ!この時間とて惜しいほどでございますのに……!姫様、わたくしが言ったことをよもやお忘れではありませんな?」


 舞は口を尖らせながらも頷く。


「……それならよろしゅうございます」


 左大臣はそう言って教科書の上から退散し、心から忠誠を誓うその姫君が落ち着いて勉強できるように取り計らった。忠実な僕しもべとしての良心で以って。


 「わたくしが言ったこと」――それは、怪物に最後に襲われた日の夜、左大臣が語ったことを指していた。左大臣曰く「いいですかな、姫様?よくお聞きくだされ。姫様はこれから四神しじんを探していただきますぞ。四神というのは他でもない、あの『暁星記ぎょうせいき』に出てくる悪しき神々のことですが、畏れ多くも初代白菊帝しらぎくていが成敗なされ、以来京姫とともに京を守護することとなった神々でございます。四神は京姫に従い、町の東西南北を、そして四つの季節を、それぞれに守っておりました。東の青龍、西の白虎、南の朱雀、そして北の玄武でございます。姫様が転生なされ、うるしが目覚めている以上、彼らもまた現世に転生しているに違いありませぬ。彼らをさがさねばなりませぬ!漆よりも先に!彼らの力なくして漆を倒すことはできませぬぞ、姫様……」

「……ねぇ、左大臣」

「なんでございますかな、姫様」


 舞はsurpriseのつづりを指で床にくり返しながら、教科書からは目を離さないまま口を開く。surprise――スープライス。スープライスにびっくり。うん、これで覚えよう。


「四神ってさ、本当に会えばわかるの?」

「わかりますとも!姫様の霊力を以ってすれば、きっと出会った瞬間にああかつての仲間だとおわかりになるはずでございます!」

「私のれいりょくー?」


 舞は胡散臭そうに首を振った。


「そんなもんあるのかな……」


 左大臣が反論しようと身構えたとき、舞が突然叫んで立ち上がったので、左大臣は丸いくまの耳を塞いだ。五時間目は体育ではないか!慌てて時計を見る。予鈴が鳴るまであと五分ある。急いで着替えなければ!

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