3-7 そして少女は歩み出す
しかし、仗の先から発せられた光は怪物を逸れて、凶悪な角が京姫の目の前に突き出される。京姫は仗でそれを食い止めた。と、怪物がすばやく鼻先をもたげて仗を吹き飛ばす。
「ああっ!!」
唾液で濡れたおぞましい牙が迫り来るのを、京姫は首をすくめて怪物の喉元へ鋭い頭突きを食らわすことで防いだ。京姫は今度こそ地面の上に倒れ込み、怪物もまた川面をざわめかせた。京姫がぐらぐらする頭でなんとか起き上がってみると、二匹の怪物は川の中に脚を浸し、じっとこちらを睨みつけていた。仗はどこだろう……京姫は瞳だけを動かして周囲の草むらを見回した。あった!ここから十メートルほど離れたところ、草の面が白く反射しているところに水晶の輝きを紛れさせて転がっている。怪物が私に追いつくのと、仗を手に入れるの、どっちが早いだろう。いや、もうともかくやるしかない……!
京姫が覚悟を決めた瞬間、川面から銀の輝きが一筋上がった。その輝きは怪物の喉を刺し貫き、怪物の体を持ち上げた。長く硬そうな被毛から血と水の雫とがぽたぽたと雨のように零れる。その巨大な体の影に覆われて、一人の老人が立っていた。
老人は静かに突き上げた右腕を降ろした。血と水の飛沫を浴びながら、立烏帽子と狩衣を身に着けた老人は白い眉をぴくりとも動かさずに怪物の体から刀を抜き取った。それから老人は、その厳しそうな四角い顔を、京姫へと向けた。大きな目、険しい獅子鼻、横に広がった唇とそれを囲む整えられた白い髭――鬼のように怖い顔をしているけれど、京姫はその人が豪快に笑うことを、それを聞くと下々の者までつい口元が緩んでしまいそうになってしまうことを、誰もに深く慕われていたことを、そして誰よりも自分のことを案じ、愛してくれたことを知っていた。京姫は切ない気持ちをそのままに叫んだ。
「左大臣!!」
「姫様、お仗を!」
左大臣に促され、京姫は頷いて仗の元へと駆け寄っていく。そうはさせぬと京姫の方へ向かおうとする怪物を、左大臣が素早く切り込んで阻んだ。その隙に、京姫は膝や腕から草を振り落しながら、なんとか仗の元へたどり着くことが出来た。
京姫が川の方へと身を翻した時、攻防を繰り広げる左大臣の後ろで、喉を貫かれたはずの怪物が川底からよたよたと起き上がるところであった。京姫は今度こそと、狙いを定める。
『桜吹雪!!!!』
光は川ごと桜色に包んで、怪物たちの体をせりあがり、包み始める。怪物たちが断末魔の声をあげるなか、光はそれをも覆い隠して、美しい桜の花びらへと変えた。戦いは終わった。
「姫様!」
左大臣が濡れた衣服の重さもどこ吹く風で、京姫の元へ駆け寄ってくる。その姿を見ていると、なんだか気が抜けて、怪我した左腕が疼きはじめるのを感じた。その場に座り込むと、左大臣が「失礼」と言いながら、その腕をそっと持ち上げた。
「ああ、姫様!なんということ!」
「大丈夫……大丈夫だから……」
「いえ、大丈夫ではございません。今、手当てを」
と言った途端に、京姫の変身が解けて、左大臣の姿もただの濡れそぼった薄汚いテディベアに変わってしまう。舞と左大臣は互いにびっくりして見つめ合った。舞は思わず笑いだす。
「ひ、姫様!お気は確かですか!?」
「ふふ、あははははは……っ、大丈夫、大丈夫だってば……!ふふっ……だって、おかしくてっ……!急に、急にテディに戻っちゃったから……あはははははっ!!」
「笑っている場合ではありませぬ!お手当を!」
舞はまだ笑いながらポケットからピンク色のハンカチを取り出すと、自分の手で不器用そうに腕にそれを巻き付けた。深い傷ではなさそうだ。制服は汚れてしまったけれど。母親には怒られることだろう。まあ、これも命あってのことだし……舞はテディベアを見遣って、笑うのをやめると、真顔に戻って尋ねた。
「どうして、元の姿に戻れたの、左大臣?」
「いやはや。わたくしも存じ上げませぬが……恐らく姫様の霊力のおかげで一時的に過去の肉体を取り戻せたものかと。しかし、どうやら姫様が京姫として覚醒しているときだけのものでありますようで……」
「そうなの……」
舞はそれからしばし黙した。また音が世界に戻ってくる。虫たちは飛び交い、鳥が鳴き交わし、遠くに子供たちの明るい声も聞こえてくる。自転車に乗った高校生のカップルが、舞には気づかずに橋の上を通り過ぎていく。
「姫様、しかし、よくご決心をなされましたな」
「……あのね、私、左大臣の姿を見たとき、思い出したの。ああ、昔この人に会ったことあるって。とっても懐かしい感じがしたの。ああ、あれは左大臣だってすぐにわかった。だから、私……まだ完全に信じた訳じゃあないけど……でも、あなたのいうことを信じてみようかなって」
「おお、姫様!」
テディベアは短い両腕に大きすぎる頭を埋めて泣き出しそうに思えたが、舞は静かな声で切り出すことでそれを止めた。本題はここからだ。
「ねぇ、左大臣。どうしても知りたいことがあるの……教えて」
「えぇ、わたくしに答えられることでしたら、なんなりと」
舞はいつになく光のない、なんとなく感情を突き放したような、冷やかにさえ見える瞳でテディベアの顔面を見た。舞はなぜかそのぬいぐるみの無邪気な顔面に、一種の緊張感のようなものが漂っている気がした。口調はなんだかおどけて聞こえるのに。そういう時の舞からはあの近寄りがたいほどの気品が漂いだしていた。
「大切な人がいたの。幼馴染だった。小さい頃からいつも一緒にいたの……でも、その人は私を怪物から庇って、死んじゃった」
「死んだ?死んだとおっしゃいましたか、姫様?しかし……!」
驚く左大臣の顔に舞は短い頷きを返す。
「そうよ、死んじゃったの。私の目の前で怪物に殺されたの。それは悪い夢だったのかもしれない。だって……目が覚めたら司は生きてた。生きていて、転校生として私の前に現れた。名前も顔も全く一緒。なのに性格だけは全然違う、赤の他人として…………ねぇ、左大臣。教えて。一体何があったの?これも、漆の仕業なの?」
左大臣は唖然と口を開けていたが、答えを聞こうとした舞が身を屈めて顔を近づけると、急に口を閉ざし、考え込みはじめた。舞はすぐに答えが聞けるものとは思っていなかったので、急かしはしなかった。でも、そうやって黙って待っているうちに、段々と心臓が動いてきて、舞は、震えだしている自分自身を認めた。肌寒くなってきたせいではない。怪我したところだけが火照っていて、他のところはまるで冷たくなってきてしまった。それはなぜだろう――漆の悪意を知っているからか。その見たこともない相手が、舞の手から司を奪いかねぬほどの悪意を湛えていることを、なぜだか知って……
「……わかりませぬ」
それが左大臣の返答であった。
「しかし、漆の仕業ということは十分に考えられます。姫様、確認させてくだされ。姫様は二度も怪物に襲われたと仰るのですか?一度ではなく、その司という方と共々」
「そう、二回。どっちも同じ四月十二日……一回目は夢かもしれないの。だって、私、怪物に襲われた途端に、あのきれいな桜色の光に包まれて、それで気づいたらベッドの上にいたんだもん。ああ、そうだ。私、あの桜色の光の中で、知らない女の人に会ったの。その人も私のこと『京姫』って呼んでた。きれいな人で、なんだか懐かしくて……藤の花の飾りを頭に……」
「先代の京姫様……!」
左大臣はかすれた声でその名を呼んで、ふらついた。舞はすかさず両手でぬいぐるみの腕を抑える。
「先代の……?」
「えぇ、姫様。そのお方は恐らく姫様のお……いえ、姫様が京姫になられる前の、すなわち先代の京姫様でございます。先代の姫様は
「しかし?」
左大臣は舞に礼を言って、もう一人で立てることを示したが、舞は手を離さずに、抱き上げて自分の顔の前に持っていった。なんだか左大臣は目を逸らしたそうに見えた。そうされると、舞はますますじっと凝視してしまう。左大臣は口の中でなにやらもごもご言った後で、ようやく言葉らしいものを吐き出した。
「いえ、これはわたくしの推測に過ぎませぬが……恐らく先代の京姫様が、姫様を漆の手から救われたのです。先代の姫様は、時間を撒き戻すことによって姫様をお守りしたのでしょう。そしてもう一度姫様が怪物と戦って勝てるようにされたのです。しかし、漆が……きっとなんらかの悪しき術を使って……その司殿を変えてしまった。わたくしには、それ以外になにも思い浮かびませぬ」
嘘……は言ってない。なにかちょっと隠してるような気がするけど。舞は左大臣を見据えてひっそりと胸の中でつぶやいた。それから、自分はなにを言ってるのだろうかと内省して、嫌な心地になった。なぜこうも人(ぬいぐるみだが)を疑っているのだろう、私は。変わってしまったのは司や美佳だけではなかったのか。私まで、疑い深く変わってしまったんだろうか。大体私に嘘を見抜く能力なんてある訳ないのに。いつもみんなに騙されて、からかわれていたのだから……私、変わったとしたら、とても嫌な方向に変わってる。
自省の気持ちに駆られて、舞は左大臣に向かって微笑んだ。そして、「ありがとう」を言って左大臣を地面に降ろした。その微笑みがいかにも悲しげに見えることも知らないで。そうだ、全部漆のせいなんだ。ならば、私はやっぱり、その漆をやっつけなきゃいけない。舞は空を仰いだ。太陽が薄雲に隠れて、白く光っている。それさえも眩しくて、舞は目を細めた。
「左大臣……私、漆を倒す。司を取り戻すために」
「姫様……わたくしめも姫様にお仕えいたしますぞ。この命に代えても、姫様をお守りいたします。といっても、既に命なき身ではございますが」
舞はくすくすと笑った。
「テディの体、大事に扱ってあげてね。私の宝物だったんだから」
「いやはや、それは畏れ多い……!とんでもないことを致しましたなあ」
「いいよ。しばらく貸してあげる。それで左大臣、私はどうすればいいの?敵が襲ってくるのをひたすら待つ、っていう訳にはいかないでしょ?」
「無論。さて、姫様まずは……」
「舞!!」
舞は振り向いた。美佳が自転車に跨って、息を切らしている。舞は嬉しさで立ち上がる。
「美佳!!」
「舞!あんた、大丈夫……?」
「うん、全然平気だよ!」
美佳は自転車を止めもせずにその場に横倒しにすると、駆けてきた舞ときつく抱き合った。
「あの怪物は?」
「すぐどっか行っちゃった。だから、全然平気!」
「でも、血が出てるじゃない!」
「ああ……これはね、さっき転んだ時の怪我。ガラスの破片が落ちててね、それで切っちゃった」
「バカ!なにが『切っちゃった』よ!とにかく家に来て!そんなん巻いてたって消毒しなくちゃ駄目なんだから!」
「あっ、でも二人乗りって禁止じゃ……」
「だから、あんたは走るの!」
「ちょ、ちょっと、怪我人に!ひどい……!」
「あっ、姫様……!」
親友に引っ立てられていく舞の姿を、とてとてと小さな濡れた足で追いかけながら、左大臣は溜息を吐く。
「いやはや、どうなることやら……」
川辺の景色はまるで平和そのものである。蝶が遊び、蜂が鼻歌を歌いながら飛び、草たちは風が吹く度に身をこすりあわせて楽しげなささやきを交わしている。ただ、誰かは気づくかもしれない。きらめく川面を流れていく夥しい桜の花びらの群れに。桜のない川を渡っていく麗しいその奇跡に。きっと、その人は気付いたとしても、それを血の流れたあとの奇跡とはみなさないだろう。ある可憐な少女が苛酷な運命を歩むことを決意した、その奇跡の証とは。または、この町をいずれ訪れる恐ろしい
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