3-6 「鈴を……」

 楽しかったお茶の後、舞と美佳は舞の家に向かってゆっくりと歩き出しながら、わざわざ遠回りをして、町の南西を流れている篠川しのがわの川辺を散歩していった。篠川自体はさほど大きくはない川であるが、やがてずっと南の方で町の東を流れている(舞が苧環神社に向かう途中、畑の向こうに見た)一級河川・東雲川しののめがわとぶつかっていくと、小学校の時地理で習った。その時、舞は「だから『しの』川なんですか?」と質問をして教師を困惑させた思い出がある。その小学校は、この川の上流にあって、そこまで至る途中に舞の家、美佳の家のある通りがあるので、二人はのんびり川をのぼっていけばいいという訳だった。


 篠川は静かなよい川だが、なんといっても桜に乏しいので休日の今日でさえさほど人がいなかった。泳ぎはできないけれど、散歩するのには絶好の場所なのだが。時折手すりの上に腰をおろして、川面の水鳥なんかを眺めて目を遊ばせながら、なんとなく明るい、でも落ち着かぬ心持の舞と、シュシュをはずしてしまった美佳とは気の向くままに歩き続けた。午後の光はうららかにイルカの皮膚のような滑らかな水面を輝かせ、川辺に生えている草々の緑を白く光らせた。その間に紛れて慎ましく咲いている白や黄色の花たちを、同じような色をした小さな蝶たちが恵みをもたらすべく訪っていた。躑躅の花が大好きなマルハナバチたちは、舞たちが安心して見ていられるほとんど唯一の蜂の仲間であったが、彼らもまた蝶たちに紛れてのんきな羽音を響かせながら飛んでいた。舞はそんな光景全てに等しく注ぎ込む春の日差しが、見つめていくことで心に溜まっていくような気がした。


「ケーキ、美味しかったね」

「でしょ!ずっと行きたかったの!この間、雑誌にも載っててね、それで気になってて!」

「そうなんだ。また今度行こうね」

「いいわよ。でも、あんた、今度はご馳走しなさい。今日はあたしの奢りってことにしてあげるから」

「そ、そんな、悪いよ……」

「いいじゃない。あっ、あたし次はチョコケーキ食べたいなあ」


(ほんと、どうしちゃったんだろ、美佳ったら)


 舞は呟く。


(なんか私が知ってる美佳より女の子らしい感じになっちゃって。いや、元々女の子らしいとこあったんだけど、一生懸命隠してるみたいなとこあったからなあ……美佳は変わってないように見えたんだけどな。でも、別に、美佳が変わっちゃったのは全然かまわないんだけどね。っていうか、ちょっとかわいいな)


 と、急に美佳がぴたりと何も言わなくなったので、舞は美佳の顔を見遣る。眼鏡が反射しているせいでその顔は見えない。顔中が色あせて見えるのは、光の加減だろうか。その時、突如世界中のあらゆる音楽のボリュームを落としてしまったかのような、重々しい、白々しい沈黙が辺り一帯を支配していることに舞は気付いた。マルハナバチたちの羽音も、風が枝を渡る音もない。蝶たちはどうしてしまったのだろう。鴨たちの耳障りな鳴き声は?


 舞は背筋がぞっとする感覚を覚えた。ああ、この感覚は……!これまでももう二度も感じたことがある。舞は立ち上がる。美佳が震える手でそれを指さすのにならうまでもなく、舞はその時、すでに怪物の姿を視認していた。


 猛々しい角と、狼のような俊敏そうな体、そして悪意と憎悪のこもった真っ赤な目を持ったあの怪物――二度と見るまいと思っていたのに。否、舞は知っていたはずだ。いつかもう一度出会うことになると。今朝左大臣と出会ったときから、以前、この怪物と戦ったときから、いいえ、私は……私は知っていた。生まれる前から。逃げられはしないのだ。あの男の、うるしの悪意から。自分自身の運命から。


「あっ……あれ……」

「美佳、逃げるよ!」


 舞は美佳の腕を掴んで走り出そうとしたが、美佳は動かない。怯えてしまって足が動かないばかりが、舞が美佳の腕を引っ張っていることにも気づかない様子だ。美佳の大きく見開いた目は、怪物に釘付けになっている。対岸の柳の木の下に佇んでいる怪物の爪と牙とに。


「美佳っ!!」


 舞が叫んで強く手を引いたので、美佳はようやく我に返ったらしい。それでも茫然とした様子の美佳を、舞は懸命に導いて走った。どうしよう。どこに逃げよう?一緒に逃げたときの、結城少年の言葉を思い出す――あんなのが繁華街に現れたら大混乱になる。被害だって拡大する。とにかくあいつから隠れられるところを見つけて、その隙に警察と保健所に連絡するんだ。それしかない――


(人のいる方向は駄目。今向かっている方はどう考えても住宅街の方角だもの。他の場所――でも反対側に行ったら駅の方になっちゃう。そっちの方が人はいるに決まってるし。でも、このまま川を上っていったら小学校の方に……それに大通りまで突き当っちゃう)


 舞は立ち止まった。美佳は吸い寄せられたように後ろを見ながらふらふらと舞に引かれるがまま走っていたが、舞が急に止まったので舞の後頭部に思い切り頭をぶつけた様子だった。「いたっ」という声が美佳から漏れる。舞は自分自身も痛みを堪えながら、でも美佳が怪物から気を逸らした今の一瞬を逃さずに、美佳の両肩にしっかりと手をかけた。


「美佳!」

「ま、舞……あれ……」

「美佳!いい?しっかり聞いて!逃げるの!とにかく全速力で走って、おうちまで帰って!」

「でも、あんた……」

「私は大丈夫!……私はあいつの手懐け方を知ってるの。でも美佳にはちょっと危ないから。だから走って逃げて!いい?」


 舞のすさまじい剣幕に圧されて、美佳はややぼんやりとしながらもこくんと頷いた。「さあ、行って!」舞が肩を押すと、美佳は命じられた通りに走り出す。美佳の姿が大分小さくなったのを見守ってから、舞は自分の向かうべき方向へと身を翻した。今日は武器もない。あの鈴も……でも、ここで食い止めるしかない。足が震えてくる。心臓がうるさいほどに脈打ちはじめる。さあ、来い、怪物。さあ、行け、舞。


「……いないっ?!」


 舞の背後から悲鳴が聞こえた。ああ、しまった!振り返った舞の目に、川を飛び越えて美佳に飛びかかる怪物と、地面に膝を崩して頭を抱えている美佳とが映り込んだ。怪物は美佳の方を追ったのだ。美佳の方を最初に始末するべく。


「美佳!!!!」


 と、突然何か丸いものが飛び出してきて、怪物の頭に直撃した。怪物は吹っ飛ばされて川に墜落していった。舞はそれをボールかなにかだと思った。なんにせよ、今はとにかく美佳だ。舞が駆け寄るより早く、美佳は地面に倒れ込んでしまっていたが、抱き起してみても外傷は見当たらない。どうやらあまりの恐怖に気を失ってしまっただけのようだ。


「美佳……」

「姫様!ご無事でいらっしゃいますか?」


 その声で、舞は怪物に突撃していったものが、一体なんだったのかようやく理解した。川に架けられた橋の欄干に立って、川に堕ちた怪物を見下ろす薄汚れたくまのぬいぐるみ。


「て、テディ!」

「て、テディ?!」


 テディベアは憤慨したように身悶えたが、起き上がった怪物が身を震わせて川の水を振り飛ばすのを見ると、すぐに厳しい面持 (ぬいぐるみなりに)に戻って言った。


「姫様、変身なさるのです!あやつめと戦う方法はそれしかありますまい!!この老いぼれの言葉を聞いてくだされい!どうぞ……!なにとぞ……!!」


 舞は美佳の体をそっと寝かせて立ち上がる。死んでいた風が蘇って、舞の頬にかかった髪を揺らす。一度呟いた言葉を撤回する訳にはいかない。「戦う……」舞はショートケーキのスポンジとともにその言葉を飲み込んだのだ。甘いクリームのやわらかい感触、甘酸っぱい苺の味、それはあまりにも戦いとは程遠い。だから、舞は涙の味をそこに加えたのだ。俯いて流す涙ではなく、今まさに舞がしているように、日の光に瞳をかざして流すような涙の味を。


「鈴を……」


 テディベアが鈴を投げて寄越すと、怪物はそれを目がけて飛び上がったが、テディベアの蹴りがその注意を逸らした。舞は川面に落ちかけたそれを、川面へ続く斜面を滑り落ちるようにして受け取った。鈴の音が鳴り響き、桜の花びらが夥しく溢れだして、舞を包む。


 舞の纏った桜の花弁が京姫の衣装へと変わっていく。透き通った桜色の袖、背子、領巾のリボン、ミニスカートにニーハイソックス、そして靴。舞の髪はさらさらと伸びてゆるやかに波打ち、その頂きにティアラが課せられる。すっと両腕を伸ばすと、朽ちかけた柄杓がその上に載せられて舞の手に触れたと同時に、中に桜の宝石が閉じ込められた水晶の飾りのあるロッドへと変わっていく。舞は京姫へと変身した。


「おお、姫様!!」


 左大臣が怪物の鼻先に弁慶の刀の上に飛び乗る義経のごとく立って歓声をあげた。と、怪物は頭を大きく振ってテディベアを水の中に吹っ飛ばした。


「テディ!」


 叫んだその時、京姫は何物かの気配を感じて素早く身を屈めた。それで正解だった。なにせ二匹目の怪物が京姫に向かって飛びかかってきており、鉤爪で宙を掻ききったところであったから。


「二匹目……ッ!」


 京姫は仗を突き上げて怪物の喉元を狙ったが、怪物はすばやく身を交わして橋の欄干へと着地した。なるほど、美佳が最初に見つけた怪物と、美佳に襲い掛かってきた怪物は別の個体だったのだ。京姫はすっかり騙されたという訳だ。二匹の醜悪な獣は、京姫に向かって歯を剥き出して低く唸る。片膝を突き、仗の先を二匹の怪物に向けて、京姫もまた彼らを威嚇した。


「来いっ!!」


 京姫の挑発の意味を悟ったように、怪物たちは同時に襲い掛かってきた。京姫はすばやく立ち上がると、仗を大きく振って最初に飛びかかってきた方の怪物の横面を張飛ばし、もう一匹目の頭に一撃を食らわせた。しかし、怪物もただでは転ばなかった。二匹目の方は、頭を撃たれた直後、素早く前脚を伸ばして京姫の肩を切り裂いた。京姫は後ろに倒れ込んで、慌てて仗を地面の上に突くことで転倒を免れた。左の袖が破けて重たく濡れ始めているのが分かる。ちらりと目だけで傷口を見た。血が出ているけれど、今はじんじん痺れるばかりでそんなに痛みもない。


 横面を張られた方は、自分も借りを返さねばすまないと言わんばかりに再び襲い掛かってきた。京姫は叫ぶ。


『桜吹雪ッ!』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る