3-5 「あんたはどうするの?」
「……!つっ……!」
件の相手はすぐに目を逸らした。見られていたと思ったのさえ、思い違いであったのかと舞が疑わしく思うほどに素早く。
(司……!)
黒い前髪で素早くその宵闇の瞳を覆ってしまった少年は、道路の向かい側に立っていた。その隣に歩いている女性は間違いなく、その母親である。美人だけど、どこか心配そうな表情が拭いきれない、気の弱い優しい女性だ。同じ日に子供を生むという経験をして以来、舞の母のよき友達であり、舞にとっては第二の母親のような存在だった。少し病弱で、肺が弱かった。それでも自分のことなどお構いなしに、いつも夫や子供のことを案じていた。舞のことも、まるで本当の娘のように愛してくれていたのだ。くれていた?ああ、やっぱり……司の母親が舞に気付いたように、過ぎていく車と車の間を透かしてなんとかこちらを見ようと目を細めている。舞にとってショックだったのは、舞があれほど愛し(そしていつかはその娘になりたいとさえ望んだ)女性が、舞を見ても懐かしさや親しみの情を少しもあらわさなかったことばかりではなく、舞の記憶よりその容貌が明らかにやつれていることであった。息子に継がれた黒い髪はあまり梳かれていないのかまとまりきらないまま、左肩の上で結ばれている。その髪には艶がなく、白いものが目立っている。元々痩せ形の人ではあったが、白いカーディガンで覆った肩はずっとか細く頼りなげに見える。そして、舞を見ようとしている表情の、どことなく虚ろな感じ――舞は思わず顔を背けた。その刹那、息子が母親の袖をぐいと引っ張って、母親の注意を逸らした。
その時、舞はまざまざと思い知らされた。世界は変わってしまったのだ。司ばかりではなかった。司の母親もまた……あんなに身近に、肌を寄せ合うようにして生きていた人たちの人生に、舞の与り知らぬ空白が生じている。そして、その空白は、決して彼らを幸せにはしなかったのだ。舞が再び道路の向こう側に目を投げかけたとき、結城親子の姿はもうどこにも見当たらなかった。
「ごっめん、お待たせ!」
やっと美佳が出てきた。舞はびっくりした。美佳は三つ編みをほどいてしまって、代わりにポニーテールにし、さきほど買ったばかりのシュシュで飾りたてているではないか。編んでいた髪をといたから、ポニーテールにはウェーブがかかってとても華やかに見える。舞が見つめていると、美佳は眼鏡の奥で頬を赤らめた。
「な、なによっ。せっかく買ったからつけてみようと思って……」
「わあ!すっごくかわいいよ、美佳!」
「か、かわいいって……!」
惜しむらくはその衣装である。舞が無理やり引っ張ってきてしまったから、美佳は部屋着のTシャツにショートパンツという姿で出てこざるを得なかったのだ。でも、それだってとても似合っている。舞はにっこりした。でも、どうしたんだろ、急にこんな風にお洒落をしたりして。以前の美佳ならどんなに所謂「女子らしい」ことに焦がれているように見えたって、口ではそんなものたちをけちょんけちょんに貶していたというのに。
「ふふ、お腹空いてきちゃった!はやくケーキ屋さんに行こっ!」
「あ、あんた、あたしに金借りるってこと忘れないでよね」
「もっちろん!大丈夫よ、すぐ返すから!」
美佳が言っていたケーキ屋は、町にわたされた十字路に面した店のことであった。舞はそれまでその前を通ったことはあるが、入ったことはない。プロムナードという店で、小さいがこの町にしては洒落ていて、繁盛している店だった。舞たちは十五分ほど並んでから中に入れた。フランスから輸入したというアンティークの家具や雑貨で統一した品のいい店内に、ラミネート加工されたポップ体の文字のメニューがセロハンテープでべたべた貼られているのは、さすがの舞もなんとなく鄙びた感じを受けなくもなかったけれど、注文をとっているおばさんもにこやかだし、全体的には落ち着いていていい雰囲気だ。向かい側に座っている美佳はすっかりどぎまぎしてしまっている。前々から行きたかったケーキ屋に入れて喜んでいるのか、なにかもっと他に理由があるのか、舞はちょっと気になった。
「なににする?ねぇ、舞?」
「うーん……私、苺のがいいなあ」
美佳が散々迷っている間、ショートケーキに決めてしまった舞はゆっくりと自分一人の考えに浸ることができた。ケーキの甘い香りを前にしても、舞の心に不意に投げかけられた砂を払い落すことはできなかった。そうだ、砂……あの結城親子のざらついた印象はまさしく砂だと舞は思った。心の底に沈んでいく砂。心を揺らすと、沈んでいたその砂が浮かび上がって胸の内側をざらざらと擦る。溜まった砂を指先でなぞってみる心地は、途方もなく虚しい。
(どうしてあんなことに……)
これも漆のせいだというのだろうか。舞は急に家に帰りたくなっている自分に気付いた。今すぐ帰って、やっぱり左大臣に詳しく話を聞いてみることにしようかな……
「舞!舞ったら!」
「へっ?」
美佳の声で舞は我に返る。舞と美佳の丸テーブルの横には、あのひとなつっこそうなおばさんがやってきていて、伝票を持って待ち構えている。それでもきょとんとしている舞に、美佳が小声で「注文、注文!」とささやいた。
「えっ……あっ、あの、ショートケーキで!」
「はい、ショートケーキね。お飲み物は?」
「あっ、あの、ホットのミルクティーで……」
「はいはいミルクティーね。どうもありがとう」
おばさんが行ってしまうと、なぜだか緊張していた様子の美佳は突然怖い顔をして、舞を睨みつけた。
「み、美佳……?」
「舞、あんたやっぱり最近、変!」
「えっ?」
美佳はグラスに注がれた水を一気に飲み干して、かなり大きめの音をたてなが
らテーブルの上に置いた。
「あの日からよ!転校生が来た日から!」
「あっ……結城君……」
「その結城ってやつよ!あんた、知り合いなの?」
舞は迷った――本当のことを言ったって信じてもらえるはずはない。でも、今日は美佳に嘘をもうひとつ吐いている。だから、せめて嘘だけは言わないように……舞は小さくこくんと頷いてそれから補足した。
「でもね、あっちはきっと覚えていないと思うの……結城君の方は。それがつらくて」
「いつ会ったの?」
舞は黙り込んだ。それは遠い昔のことかもしれないし、ほんの一週間前のことかもしれない。とにかく舞には判断がつかないのだ。
「……それで、結城に再会してびっくりしたからあんたはここ一週間ずーっとぼんやりしてる訳?」
舞がとうとう口を開かないので、美佳は別方向から切り込むことにしたらしい。
「ううん……違うの。あまりにも前と性格が違うから、それがショックだったの。前はもっと、っていうか、全然今と違って優しくて、明るくて、いつも笑ってた。それなのに……」
「いけすかない奴に成り下がっちゃった、って訳ね?」
「べ、別にそこまでは言わないけど……」
「……悪いけどね、舞、クラスのみんなあいつのこといけすかないと思ってるわよ。あいつ、だって明らかにあたしたちのことバカにしてるもん。ろくに口もきかないし。挨拶したって返しやしないじゃない。それになんていうか、こう、隙がない感じでしょ?みんな結城のこと怖がってるんだよ。あいつが転校してきたせいで、みんな不安になってる」
「やめてよ……!だって、司は本当はそんなんじゃ……」
ケーキと飲み物が運ばれてきたので、二人は会話をやめた。舞はもすっかり食欲をなくしていた。結城司の陰口を聞く日がくるなんて思わなかった。それがどれだけ辛いことなのか、知る日がくるなんて思わなかった。司はいつもいつまでも誰にも好かれる優しい少年だったはずなのに。
フォークに手をかけようともしない舞の様子を見て、美佳は小さく「舞?」と呼びかける。返事はない。美佳はため息をつくと、ミルフィーユに突きさしていたフォークを置いて、舞の頭の上に手を置いた。と、テーブルの上にぽたぽたと雫が落ちる。美佳は舞がこんな風に泣くのを久しぶりに見たような気がしていた。それとも、去年数学で3点という脅威の数字をとったとき、こんなんだったかしら。
「まーいちゃん」
「……ごめんね、美佳」
「謝んなくていいって。あたしこそ、ごめんったら。あんたにとって結城がそんな大事な人だなんて知らなかったから、ついさ」
「いいの……私も知らなかったから……こんなにも、司のことが大切だったなんて……っ!」
舞は隣の席の人達がおしゃべりに興じていられるようにすすり泣く声さえ押し殺した。美佳はその小鳥のような頭をぽんぽんと叩いてやる。
「でもさ、舞。変わっちゃったんだったらしょうがないじゃない。あんたにはどうすることもできないよ。それは結城の問題でしょ?辛いけど、受け入れるしかないんだよ。受け入れて、結城を見捨てるか、それでも好きでいるか選ばないと。あんたが他人のことをぐずぐず引き摺ってたって、誰も幸せになれないんだよ」
「それでも、もしも自分の手で変えられるとしたら……」
「そんなことはありえないよ」
「ううん。あるかもしれない……もしも、もしも、自分の手で、変わっちゃった好きな人のこと元に戻せるとしたら……万に一でもその可能性があったら……美佳はどうする?」
涙に濡れた瞳をもたげて問いかける舞。美佳はそんな舞の額の辺りに掌を置いたまま考え込んだ。もし、変わっちゃった好きな人のこと――美佳の頬に赤味が差す。
「美佳?」
「……そりゃ……そりゃ、試してみるわよ。元に戻せるかどうか。当たり前でしょっ。好きな人だけじゃなくて、友達とか、家族とかでも……」
「そっか……」
「あんたはどうするの?」
舞は唇を噛んで、ショートケーキの真っ白なふわふわの胴体に目を落とした。ここに埋もれてしまいたい。「いただきます」と小さく呟いて口にしたその味は、舞の涙を吸い取ってしまうほどの効果があった。舞はこんな美味しいケーキを今まで食べたことはないと思った。これから食べるどんなに高級なケーキだって、もうこの味に勝ることはないだろう。確信することは容易だった。
「……戦う」
呆れる美佳の前で、舞は猛烈な勢いでケーキをやっつけはじめた。
「やれやれ」
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