3-4 「これじゃあ、家出少女だよ……」




「お腹空いた……」


 ついに空腹にも限界がきた。歩き回っていることもできないで、舞は市庁舎の西にある公園のベンチに座り込む。時刻は午前九時少し前。


 庭先に干されていた靴下は慌てて引っ掴んできた。舞はローファーを脱いで、まだ湿っているその爪先を乾かそうと試みた。その足元を鳩たちが厚かましくもくるくるとなにごとか呟きながら、赤い硬そうな小さな足で通り過ぎていく。朝の休日の公園は、ジャージを着た老人が仲良く並んでウォーキングに勤しんだり、主婦らしき女性が柴犬を散歩させていたり、大学生風の若者がトレーニングをしていたりして案外賑やかだ。舞が座っているベンチは、公園の周囲をぐるりとめぐらされた一周一キロのランニングコースに面していたので、鳩以外にも観察するものには困らなかった。ただ、舞がどの人を見ても思うのは、今この公園でこんなに腹をすかせ、途方もない気持ちでいるのは自分だけだということだ。


「これじゃあ、家出少女だよ……」


 またもや、左大臣のところから逃げ出してしまった。多分それは、左大臣の登場が舞の人生を徹底的に変えようとしているものであったから――司の豹変も怪物の襲来もその前兆でしかなかったのだ。舞は平穏な日常にひびの入っているのを知っていた。そこに一撃がくわえられようとしているのを見て、慌てて逃げてきた。頭の上で振りかざされた腕を見れば、誰もが反射的に身を屈めるように。しかし、守るべき日常なんて本当に今の舞にはあるのだろうか。司を失ってしまった今も……?


「あっれー、舞?」


 親しい声に舞は靴下の爪先に落としていた視線を上げる。鳩たちはもう人類たるものが自分たちを襲うばかりか、むしろ食べ物を分け与えてくれる親しい友であることを知っているので、その爪先を突きそうになるぐらい傍を通り過ぎることもあった。黒いジャージ姿の美佳は、その鳩の小さな群れを出エジプト記のモーセのごとく割って、ジョギングに励む足をその場で動かし続けながら、きょとんと舞を見つめていた。眼鏡をかけていないから、声を聞かなければ舞もすぐには美佳とわからなかっただろう。ただ、いつものお下げ髪は一緒であった。


「あんた、こんなところでなにしてんのよ?」



 舞は両親と喧嘩して家出したのだと説明した。先ほどの「家出少女」という独り言からぱっと思いついた説明だったが、友人の憐れみと呆れを買うのには十分で、美佳はわざわざ家に招いて遅い朝ごはんのご相伴をさせてくれた。


「本当にありがとうございます……!」


 美佳がシャワーを浴びている間、舞はフライパンに向かっている美佳の母親に向かってぺこぺこと頭を下げた。美佳を老けさせて太らせたような、眼鏡も娘とそっくりな美佳の母親は、菜箸を忙しなく動かしながら高らかに笑った。


「あらあらいいのよー!今日はお兄ちゃんたちがみんな朝からいないから暇だしね。しっかし、舞ちゃんが喧嘩だなんてめずらしいわね。お父さんともお母さんとも仲いいのに」

「あ、あはは……」


 舞はそれ以上嘘をつかないために、乾いた笑いでごまかした。


 男兄弟三人と女一人の佐久間家では、女ばかりの京野家で暮らしている舞には尋常と思えないほどの量の食事が出たが、空腹のせいか大好きな白米が今日は格別おいしくて、全て平らげてしまった。運動後の美佳はもちろんぺろりと完食した。


「そういえば、あんた、なんで制服なんか着てるわけ?」

「勢いで出て来たんだもん。服選んでる余裕なんてなかったし……」


 こればかりは嘘ではなかった。美佳はふーんと言って、いつも通りに三つ編みにした頭の後ろで腕を組みながら、ソファの背もたれにもたれかかる。食事が終わり、美佳の母親が勧めてくるみかんを丁重に断った後で、舞たちはリビングのソファの上に仲良く並んで、あてもなくテレビのリモコンをいじってみたりした。しかし、二人ともどの番組にも特別興味は抱いていなかった。美佳の母親がそれにしてと言ったので、舞の知らない若い男性タレントが遊園地のリポートをしている番組にチャンネルを固定して、舞たちはソファの後ろ側、食卓の方から聞こえてくる美佳の母親の笑い声を聞き流していた。


「それであんた、今日はこれからどうすんの?」

「えっ?あっ!大丈夫だよ!ちゃんと帰るから!心配しないで……!」

「別にうちはいいんだけどさ。あたしも今日部活ないし」


 と、美佳は冷たい鼻づらをショートパンツから突き出た脚に押し付けてきた雑種犬の耳元を掻いてやったあとで、


「……せっかくだから、どっか行かない?あたし、行ってみたいケーキ屋さんがあるんだけど」

「いいよ!……あっ、でもそうだ、お財布……」

「貸してあげるったら。あんたなら絶対返してくれるでしょ」

「で、でも……」


 と、そのとき、舞は確かに見た。テレビの後ろ、庭に出るガラス戸にかけられたレースのカーテン越しに、見慣れた、しかしこの場にはいてはならないはずのものを。舞は見間違えかと思ってよく目を凝らしてみる。やっぱりそうだ。周囲をきょろきょろと見回しながら、佐久間家のブロック塀の上をとてとてと歩いている。あれは間違いなく……間違いなくテディだ。途端に、舞は弾かれたように立ち上がった。


「ど、どうしたのよ、急に……」

「舞ちゃん、ごめんねー、ヒロ君が見えないんだわ」


 舞はぜんまい仕掛けの人形のような窮屈な動きで美佳の方に向き直り、強張った笑みで美佳を見下ろすと、その腕をとって立ち上がらせた。


「ちょ、ちょっと……」

「美佳、行こう、早く」

「行こうって、今ご飯食べたばっかじゃ……」

「とにかく外に出よう!ねっ?食べ過ぎちゃったから、お散歩!さっ、行こ!行こ!」

「ちょっと、なんなのよ、もう……!」


 訝しがる美佳を懸命に急かして準備させ、舞は無事テディベアの釦の目に気付かれることなく佐久間家を出ることに成功した。舞が家を出る時、テディベアは二軒先の家の窓を塀の上から懸命に覗き込もうとしているところであった。もしあんなところを誰かに見られたらどうするのだろうと、舞ははらはらした。動いているぬいぐるみ――きっと大騒動になる。でも、舞の知ったことではない。


 舞はとにかく反対方向へと美佳を引っ張っていった。今の舞にはとにかく一メートルでも左大臣から遠ざかることが先決であった。しかし、あのテディベアの体でよくもあんなにはやく移動できるものだ。舞はなんだかあのテディまでもが悪の手先のように思えてきた。あんなことを言って、舞を罠にかけようというのではないか。どこまでも追いかけてくるテディベアだなんて、まるでホラー映画にでもなりそうだ。


 舞は美佳を繁華街に引きずり込むことで、なんだか親友の様子が変だと怪訝な顔をしている美佳の疑念を雑貨屋や洋服屋のショーウィンドーの方に逸らし、そして自分自身も人混みのなかに紛れた。といっても、舞が人混みだと思っているものは都心に生きる人々にしてみれば一笑にふしてしまうような代物であったが。だが、ここには他のところよりまだ人がいるし、いざとなったら店の奥に姿を隠せばいい。左大臣だって、まさかあの姿で人混みの中をうろつきはしないだろう……先ほど窓をのぞきこんでいたぬいぐるみを思い出すと、舞はちょっと不安になってきたが、それぐらいの才覚はあるはずだと左大臣を信じた。なんていったって、左大臣だもの。


「あっ、これかわいい!」


 舞が落ち着かずにきょろきょろと辺りを見回している傍で、美佳ははやくも雑貨屋の窓辺に飾られていたアクセサリーに目を輝かせ始めた。美佳が強がってもなんだかんだで乙女らしい一面を持っていることを、舞はなんとなくではあるが知っていたのだ。ようよう危険がないことを確認して美佳が見ているものに目を移すと、それは、ピンク色の大きなリボンが付いたバレッタであった。


「あっ、かわいい!美佳もたまにはこういうのつけてみたら?」


 何の気なしに言った言葉は、美佳の横顔をほんのりと桃色に染めた。


「い、いや、別にあたしが付けるとかじゃなくて……!」

「えー、なんで。別にいいじゃん」

「だって、似合わないもん……あんたは似合うんじゃないの、舞?」

「私あまり髪まとめないからなあ……短いし」


 そういえば、京姫に変身したときはとても綺麗に髪がのびていたっけ。あの時ならこんな飾りを付けていても似合うかもしれない。いや、何を考えているんだろう。もう二度と、変身なんてしない。あんなことは忘れよう……


「あっちなら、まだなんとかつけられるかなあ」


 美佳はバレッタのやや奥に置かれていた、白地に紺の水玉模様のシュシュを指さして言う。


「うん、あっちも似合いそう!」


 店に入った後も、美佳はしばらくあちこち目移りしながら迷っていたが、結局最初に見つけたうちの、自分では無難だと思っている方を選んだ。


 二人は続いて洋服やら靴やらを売っているこまごまとした店を冷やかした。舞はどちらにせよ財布がなかったし、それに後を付けてくる不穏な影が気になっていたから、あまり自分の買い物には集中できなかった。少女たちにとってはいまだに不思議なことではあったのだが、買い物をしていると時間というものはあっという間に過ぎてしまう。授業の時間はあんなにものろのろと進むのに。やっと小腹が空いてきたころになると、今度は美佳が舞を話題のケーキ屋に引っ張っていく番であった。と、美佳はコンビニエンスストアの前で突然立ち止まった。


「どうしたの、美佳?」

「……舞ちゃん、ちょっと待ってて。」

「へっ?」

「あっ、あの、トイレ……」

「あぁ、うん……」


 美佳が出てくるまでにずいぶんと時間がかかった。具合が悪いのかな、ケーキ屋なんて行けるのかな、単にお手洗いが混んでるだけかしら。やきもきしながら待っていた舞は、ふと誰かの視線を感じて顔を上げた。舞は息が止まりそうになった。

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