3-3 「わ、私、忙しいんだから……!」

 舞はテディベアの目を見た。ただの黒い釦の目。でも、そこになぜ感情が宿っているのだろう――なにかとても辛いことを忍ぶかのような。


「姫様、漆の奴が蘇ったのでございます。この御代に。まだその力は微弱なものですが、わたくしめは感じます、奴の邪悪な気配と悪意とを……奴は姫様に復讐なさるでしょう。先日、姫様にあのおぞましい怪物を差し向けたのは漆の手先かと思われます」


 舞の目にあらわれた動揺を左大臣は見逃さなかったと見えて素早く後を続ける。


「姫様!漆を倒さねばなりません!漆は姫様を殺し、そしてこの世を掌中におさめんとするでしょう。かつて京を滅ぼしたのように、この世界を滅ぼそうとするでしょう。ですから、姫様、どうぞご自分を、そしてこの世界を守るために戦うのです!わたくしは……」


 左大臣は声音を落とす。


「わたくしは先の戦いで命を落としました。姫様のように転生することもかないませんでしたが、姫様をお救いすべく、魂だけでこちらへ馳せ参じました。そして畏れ多くもこんなお姿を……姫様、お許しくださいませ。そして、この左大臣を肉体も持たない、惨めな、憐れな老いぼれだと情けをかけて、せめてわたくしの言葉を信じてくださいませ。そればかりが、この老いぼれの望みでございます」


 左大臣は跪いて深々と頭を避ける。額を地面に、否、ベッドのシーツに擦らんばかりにして。しかし、左大臣の嘆願の様子を舞は見つめていながらほとんど見ていなかった。舞は空白の過去を見据えようとしていたのだ。物心ついたころなどというものなどではない。生まれるよりずっと昔の、前世の記憶――舞は自分自身の手で確かめたかったのだ。信じようもない、けれども確かに信じなければならないような話を、自分の記憶でなればなんとか掴めるだろうと。舞は左大臣の話のなかに不確かなヴィジョンを得た気がしたのだ。だが、見つめれば見つめるほどそのヴィジョンは曖昧になってしまう。ある言葉を弄びすぎると、ふとその言葉と認識できなくなるあの瞬間のように、見つめ過ぎれば見えているものの本質がわからなくなってしまう。


(私は前世で京姫だった……京を守護していた。帝とご一緒に……私は、漆と戦って、死んだ。漆と戦って……)


「嘘……」


 唐突に飛び出た言葉に、左大臣も舞自身も驚いた。左大臣はその言葉の意味に。舞は自分の声のぞっとするほどの低さに。舞はこんなことを言うつもりではなかった。舞には確かめなければならないことがあったから。舞は司が一体どうしてあんなに豹変してしまったのか、それは今の話となにか関係があるのかということを聞きたかったのだ。それなのに、どうして冷たい言葉がまっさきに出てきてしまったのだろう。舞はその瞬間、得体の知れぬ恐怖に襲われた。なにか突き上げてくるものと、それを必死に抑えようとする衝動とに苛まれ、舞は咄嗟に立ち上がった。致し方なく舞は衝動のままに言葉を継いだ。それが本心とは例え異なっていたとしても、舞にはもはや自分の言葉の意味さえよく分かっていなかったのだ。


「う、嘘、嘘よ……!そんな話信じられる訳ないもん!そんな話が本当だとしても私じゃない。前世だなんて、京だなんて、私には関係ない!!……私は漆と戦って死んだわけじゃない!!」


 テディベアが呆気にとられて舞を見上げている。その光景を見ていると、不思議にも、舞はつい吹き出したくなってしまう。こんな真面目な話をしているというのに、司のことを考えているというのに、その話し相手がテディだなんて。表情を取り繕うとして、舞の微笑みは歪んだ。


「ごめんなさい……私、京姫なんじゃないんです」


 舞は咄嗟にかけてあったセーラー服を引っ掴むと、部屋を出て階段を駆け下りていった。唖然と開いたままの扉を眺め遣るしかないテディベアを、貴重な休日の安眠を妨害されたゆかりの怒声が戦慄させた。


「舞!!ふっざけんな!!!!」



(休日だっていうのに、制服なんか着てバカみたい……)


 友達との約束に遅れると言い訳をして家を出た舞は、溜息を吐いた。携帯電話も財布も置いてきてしまった。それに朝食をとっていないから胃がさびしくてすすり泣いているのが分かる。舞は気がまぎれないかと、ついお腹の辺りをさすってみる。


(でもしょうがないよな。テディから逃げなきゃいけなかったんだもん……でもどうしよ。帰ったらまだいるよね。テディを捨てる訳にはいかないし、それに……)


 それに、あの左大臣とやらは嘘をついている訳ではない。信じがたい話だけれど、あの話で大方説明がつくのだ。あの怪物のこと、京姫のこと、そしてただのぬいぐるみがしゃべりだしたことも上手く説明できている。ただ、結城司がまるきり別人になってしまったことは別であるけれど。


(でも、漆とかいう人と戦えって言われたって……)


 舞は立ち止まる。休日の町はいつもより目覚めるのが遅い。普段は誰もが慌てふためいているこの時間も今日はのどかで静かである。白と茶の野良猫がいかにも暢気そうに道路を横切っている。舞の右手にある民家の庭の灌木にはまるで雀の成る木のように、小鳥たちが集まって意味もなく騒がしい。その家の二階のベランダが開いて、なんだか機嫌のよさそうな中年の女性が、布団を干し始める。布団を叩く乾いた音が耳に心地よく響く。雀たちがまた騒ぐ。その頃には、猫は道路を渡り切っている。舞はそういうところに意識を巡らせながら、戦いという非日常の出来事を捉えなおそうとしていたのかもしれない。舞は考える。


(もし、司が変わってしまったのも、漆のせいだとしたら?その、漆とかいう人を倒して、司が戻ってくるとしたら……?)


 舞はごくりと唾をのみ込んだ。朝日が白く眼に滲んだ。


「いやはや。探しましたぞ、姫様……!」


 右斜め後ろ、頭の上あたりからだろうか。確かに声がした。舞は一瞬固まり、そして次の瞬間にすさまじく優雅な素早い動きで振り返った。あの機嫌のよさそうな女性の家(もしくは雀たちの家)を囲っている塀の上に、見慣れたぬいぐるみの姿が、見慣れぬ膝に手をついて息を荒げているという姿勢をとって立っていた。


「ま、また出たっ!!」

「出たとはなんですか、まるで物の怪のような言い方を……はあ、姫様、この体ですとこう少し姫様の後を追いかけるだけでも……」

「追いかけなくていいから!その恰好で見られたらまずいから、家にいて!というか、私のことは放っておいて!」


 ベランダの上から、女性が怪訝そうな顔でこちらを眺めだす。舞はテディの腕を引っ掴むと、塀の裏に身を屈め、テディベアを抱き上げて自分の顔の前に掲げるようにして、必死にささやく。


「言ったでしょ。私には関係ないんだってば!絶対人違いなんだから!」

「確かに姫様が信じられぬも無理ないこと。しかし、姫様は確かに京姫として覚醒され、怪物と戦われたではありませぬか。前世のことは次第に思い出されることでしょう。何の疑う余地があるのです?」

「い、いろいろあるの!ともかく!!も、もうどこかへ行ってよ!わ、私、忙しいんだから……!」


 舞はテディベアを地面にそっと降ろすと、ぱたぱたと駆けていってしまった。その後ろ姿を見送りながらぬいぐるみは渋い顔をして呟く――ぬいぐるみに許される範囲の渋い顔でという意味だが。


「まるでお変わりありませんなあ、姫様」


 左大臣の脳裏にも「わ、わたし、いそがしいんだから!」と叫び走り逃げていく小さな少女の姿がある。少女は桜色のあこめの裾を翻しながら、説教を垂れようとする老人の手をいとも容易くすり抜けていってしまったのだ。実質は帝以上の権力者――事実はそんなに単純なものではなかったが、ともかくもそういうものと評されていた左大臣に対して、忙しいという言葉を投げつけられるのは幼い京姫だけであった。


「しかし姫様……お変わりないからこそ、老いぼれは心配ですぞ」

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