3-2 「や、やっぱり喋ってる……!」
舞の悲鳴は家中に響き渡り、階下でパンケーキをひっくり返していた母親を驚かせた。しかし、フライパンを離れる訳にはいかない。
「あなた、舞になにかあったみたいですけど」
「悪い夢でもみたんじゃないか。それかゴキブリでも出たか」
「まあ、食事中にやめて頂戴な」
両親がこんな調子であるから、舞が最初に家族から得られた反応は、姉が壁を蹴り飛ばす音と「うるさい!!」という姉の怒鳴り声であった。舞はぬいぐるみが喋ったことよりこちらの方が恐ろしくて震え上がる。
「朝っぱら騒ぐんじゃあないわよ!!!!」
「ご、ごめんなさいいいい……!!」
舞は隣の部屋の壁に向かって頭を下げると、恐る恐る再びぬいぐるみの方に目をやった。見間違いではない。ぬいぐるみは舞の叫び声に辟易したように両手で丸い耳を塞いでいる。ぬいぐるみは再び言った。
「いやはや……すさまじいお声ですな、姫様。相変わらず元気がよろしいことでなによりでございますが、しかしそれでは……」
「や、やっぱり喋ってる……!」
舞はじわじわと後ずさった。これは幻覚だろうか。あまりにもおかしなことが起こったから、ついに気が狂ったのだろうか。とにかく、助けを呼びにいかなければ。
「ああ、姫様、お待ちくだされい!」
舞が扉に手をかけようとすると、テディベアはぴょんと軽やかにベッドを飛び下りて、舞のパジャマの裾に手をかけた。もう片方の、丸い小さな手で桜の鈴を舞に差し出して。
「わたくしです!
「やっぱり夢じゃない……」
舞は頬をつねって半泣きになっている。
「姫様、どうしてもお話ししなければならぬことがございます。なぜ、貴女が
京姫――その名で舞を呼んだ人がいたはずだ。夢の中で見知らぬ美しい女性が舞をそう呼んだ。それから鈴の力で変身をしたときにも、そう呼ばれた。どうしてこの人(テディ?)がこの名前を知っているのだろうか。それに、九条門松……なんだか懐かしい響きのような気がする。
「左大臣……?」
舞は慌てて口を噤もうとしたが、言葉はすでに零れ落ちていた。テディベアは感激したように見えた。
「おお、覚えておいででしたか!この左大臣、これ以上嬉しいことはありませぬぞ……!」
(違う……覚えてたんじゃない。嘘、どうして……)
舞は改めてテディを見下ろした。こんなに可愛らしい見た目をしている。ずっとこの見た目にふさわしい可憐な声を描いてきたのに、まさか老人の声でこのテディに話しかけられるなんて。見慣れた顔なのに見知らぬものたち。司も、このテディベアも、そして自分自身でさえも。舞がテディの脇の下に手を入れて抱き上げると、テディベアは「ひ、姫様!」と叫びながら手足をばたつかせたが、舞は構わずにぬいぐるみをベッドの上に座らせると、舞自身は床に座り込んで視線をあわせる。その翡翠色の瞳が切なげに揺れるのを目撃して、テディベアはにわかに黙り込んだ。舞は静かに切り出す。
「……あなたは、誰?」
「ああ、やはり覚えていらっしゃらない。無理もございませんな。あまりにも長い時間が経ちすぎましたからな。えー、改めまして姫様、わたくしめはかつて姫様にお仕えしておりました左大臣、九条門松でございます。畏れ多くも姫様の後見役を務めておりました」
「……どうして、私を姫様って呼ぶの?」
「もちろん、貴女はなにを隠そう、京姫でございますから。姫様は忘れていらっしゃるかもしれませぬが、貴女は前世で帝とともに京を守護する巫女であったのでございます。もちろん、はるか遠い時代、神の代が終わって間もなくという今の時代からは気が遠くなるほど古い時代のことでございますが」
舞はテディの言葉が頭に入りきらずに頭の周りを旋回しているのを感じながら、頑張って咀嚼を試みていた。前世?帝?京?平安時代の話かしら。でも、それが私になんの関係があるっていうの。それに、京姫だなんて聞いたこともない。そもそもぬいぐるみと話している私の現状は一体なんなのだろう。舞はやや躊躇いつつも、正座した膝の上に手を重ねた。舞のなかには訳がわからないという困惑を一筋貫く、全てを知りたいという気持ちがあった。たとえそれが信じられないことであったとしても。もしかしたら、司に起こったことに関係するかもしれないもの。
「左大臣……さん?」
「いえ、わたくしのことはもう呼びつけにしてくださって……」
「最初から話してくださいませんか?その……前世のこととか、京姫のこととか。それに、その鈴のことも」
舞は小さな手に握られた鈴を指さして言う。左大臣はしばらく黙したのち、「かしこまりました」と言って居住まいを正した。その威厳ある振る舞いは熊のぬいぐるみがとるとかなり滑稽ではあったが、しかし、今の舞には笑うほどの余裕はない。左大臣はこほんと咳をひとつして、重々しく口を開いた。
「はるか昔のことでございます。多くの神々はその御代の終わりを悟られましてこの世界を去り、暁に消え残る遠い星々になられました。すなわち、『
左大臣は一度ここで言葉を切った。舞は何も言わずにいることで先を促した。舞はその時、テディベアの首元にかけられた赤いリボンをただ見つめていた。
「しかし、姫様の御世に思わぬ悲劇が起こりました。京を滅ぼそうと企む
左大臣は悲しげな深い溜息をついた。その指し示すところは舞にも分かった。今の話は決して虚偽ではないと訴えているのだ。到底信じられない話だ。あまりにも壮大すぎる。それに、私が京姫だなんて、世界が一度滅びてまた生まれただなんて、そんなことが……と、テディベアの手が桜の鈴をつと舞の方へと突き出した。
「これからは、現在の話をいたしますぞ」
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