第三話 さだめと決意
3-1 左大臣参上―前世の因縁
欠けはじめた月が雲の切れ間から白い骸のような顔をのぞかせて、卵色の障子をほの明るく透かして見せると、彼女の影が本殿の内部の薄暗さにも紛れずにそのひとの纏っている黒い直衣の裾にだけ、しっとりと細やかに溶け込むのが見える。彼女はそれを恍惚として眺め遣る。こんな奇跡がまた起こり得たのだと。そして、こんな奇跡以上のこともまた、起こり得るのだと……
「どうした、
その人はそっと問いかける。少し掠れた、けれど男のものにしては幾分高くてしとやかな声を聞くと、芙蓉はまるで甘い蜜を吸わせた綿を含まされたように嬉しくなる。その蜜の甘さを声音に滴らせながらも、微笑みを袖に忍ばせて芙蓉は答える。
「いいえ……」
「お前の考えていることは手にとるようにわかるよ、芙蓉。あんなに睦び合った私たちだもの。でも、お前は嘲笑っているのだろうね。今の私は昔のように美しくはない……」
「お戯れを」
芙蓉は膝をその人の方ににじりよせて呟く。
「あなたは変わらず美しいままですわ。たとえ、不完全であったとしても……」
「不完全か。確かに。そう言うべきだったのだね、不完全と。今のお前の言葉に、お前の心が私から離れていってしまったことがよく表れていたよ……ああ、私は誰を恨めばいいのだろうね。こうしてお前の愛を失ってしまった悲しみは、どうやったら報われるのだろう。京姫を殺してやることか。それとも…………」
芙蓉は差し延べられた白い腕を、月明かりと見紛えた。その掌が彼女の頬にそこに湛えられた深い影を押し付けるまで。芙蓉は目を閉じてほうっと息をつく。甘やかな吐息が口元の紅を湿らせるか湿らせぬかのうちに、冷たい唇がその音色を引き受ける。芙蓉の体は闇の中に崩れ込んだ。
「
月はただ、芙蓉の十二単の裾だけを儚く照らすばかりである。その部屋の奥に満ち満ちている悲しみと称されたおぞましいまでの憎悪と、そしてそれを束の間慰めるために繰り広げられている饗宴とを、照らし出せぬまま……そしてまた、薄雲が月の面を覆い始める。闇が辺りに立ち込めていく。
「司!司!!」
それは、舞が五歳の時の出来事を再生しただけの夢だった。幼い舞は母親にしっかりと肩を抱きしめられながら、救急車に運ばれていく傷ついた司に取りすがらんとして、泣き叫び、もがいていた。夕暮れの街の空は青くなずみ、佇む家々の屋根に成り変わられた地平線のあたりには一筋の緋色の帯が消え残って燃えていた。その燻る煙のように、西の空に湛えられた雲は黒い。舞は全ての終末を見切ってしまったような気がした。幼い心ながらに。汗と涙で頬が熱く、喉は乾いて焼け付くように痛かった。それでも、恐ろしい予感を振り払わんとして、閉ざされた救急車の扉に向かって舞は叫ぶ。
「司!!!!」
はっと舞は目を覚ました。携帯電話の画面を見る――7時50分。最悪だ、寝坊した!と青ざめたところで、日付の横に刻まれた括弧書きの曜日に目が移る。現代のあらゆる問題の原因であると度々糾弾されているこの文明の利器は、このように人を焦らせもさせ、安堵させもする。要は翻弄しているのだが、舞はひとまず心の均衡を手に入れた。ただし、それは、極度の興奮から憂鬱な内省へと落ちゆく通過点に過ぎなかった。
(なんであんな昔の夢を見たんだろ……)
舞はパジャマの膝を片方だけ抱きかかえて呟く。隣の部屋からは姉の鼾が壁を通り越して聞こえてくる。ああ、お姉ちゃん、今日は部活ないんだ。こんな平和な土曜日なのに……
(司……)
舞は膝の上に肘をついて、その指で髪を耳にかけた。結城司が転校生として現れたあの日から、早くも五日が過ぎようとしている。この一週間、舞は結局結城司とほとんど会話を交わすことができなかった。司は他の人を避けるのと同様に舞を避け、他の人を軽蔑するのと同様に舞を軽蔑し、他の人との会話に意義を見出せないように舞との会話にもなにひとつ見出せないようであった。あの恐ろしい出来事をどう口にしていいのか、舞には分からなかった。二人のたった一つの共通の思い出があの苧環神社での出来事であるにも関わらず、それを口にするのは憚られた。司が明らかにその話題があるから舞を避けている素振りを見せてくれていたならともかく、そもそも何事もなかったかのように振る舞われてみると、却って舞は勇気が挫けるのであった。それに、舞がその過去に踏み込んだ時の司の傷ついた憤怒の表情は、怪物の醜悪な姿にも薄れずに舞の瞼の裏に焼き付いている。舞がただひとつ、逡巡しつつも安心して投げかけられる言葉は「おはよう」だけであった。
四月十二日――あの日になにが起きたのか。舞には二重の記憶がある。一つの記憶では司が死に、もう一つの記憶で生き延びた。一つの記憶では司は舞の大好きな幼馴染であり、もう一つの記憶では冷酷な転校生であった。そして一つの記憶では舞はなす術なく怪物に降伏し、もう一つの記憶では怪物に立ち向かった――あの不思議な力はなんだったんだろう。舞は枕元に置いていた桜の鈴をそっと持ち上げて掲げてみる。しかし、何度問いかけても鈴は答えを出してはくれない。振っても音さえ転がせない、その鈴は……
「よく考えたら私、なんでよく分からないもん持ち歩いてるんだろ……」
舞は口に出して呟くと、溜息をついて鈴を枕元に置いた。もういいや。悩んでも仕方ない。ここ一週間そうだったのだから、今になって答えが出るはずがない。朝ごはんを食べにいこう。
「司……どこ行っちゃったの」
それでも想いはつい零れ出て。
立ち上がった舞の背後で、なにか物音がした。舞は思わず立ち止まる。その音がなんだか人の咳のようなものに聞えたので。
「姫様、こちらは常にお持ちにならなければなりませんぞ。命の次に大切なものなのですからな」
今度は確実に聞き間違いではない。老人の声だ……
舞は臨戦態勢をとってさっと振り返った――誰もいない。いつもと変わらない舞の部屋だ。東向きの窓からは明るい陽射しが差し込み、カーテンの色を透かしながらフローリングの上に波模様を作って遊んでいる。ベッドはきちんと整えてあるし、テディベア、サボテン、写真立て、なにもかも変わらぬ場所に置いてある……あれ、テディ?
「いやはや、御挨拶もせずに再会早々から説教など。これだから老人にはなりたくないものですな」
テディと名づけて舞が小さい頃から大切にしているテディベア――古くなってますますやわらかくなったふかふかの体と円らな黒い目の大好きなぬいぐるみ。ただ、それはその愛らしい容貌を持っているというそれだけで、舞の抱擁やキスを一身に受ける幸運を手にしており、格別喋ったりましてや動いたりする必要はなかったのである。それが今、喋りながら、二本足で立ちあがり、舞を見つめているではないか。
「姫様、お久しゅうございます。わたくしは……」
「いやあああああああああああああ!!!!」
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