2-7 京姫、覚醒

 桜の花びらは舞の腕に、胸に、背に、腰に、足に、そして髪に纏わりついたかと思うと眩い輝きを放ってきらびやかな麗しい衣装へと変わっていった。腕には桜の色をそのままに透かした袖が、胸元には桜の花弁をそのままに襟元に散らした背子が現れた。背中から一度体を取り巻いた桜は一筋の川を作って領巾となり、舞の腰元に巻かれて大きなリボンを作った。太腿を取り巻いていた桜はレースの裾のついたピンク色のミニスカートに。脚にはニーハイソックスが履かされた。足元には桜の花弁の柄がついたピンクゴールドの靴。髪は伸びてふわりと腰元まで波打ち、宝石を散らした、両端に桜の花びらが二枚ずつハート型を描くように飾られたピンクゴールドのティアラがその頂きを飾る。舞は驚いて自らの衣装を見下ろした。一体なにが起こったというのだろう。


 それから、舞は持っていたあの貧相な柄杓もまた姿を変えていることに気がついた。柄杓は、先端に水晶の球体のついたロッドへと変わっていた。そのきらめく水晶の中には、桜の花びらを模したピンクの宝石が輝いている。舞はすかさずそれを怪物の方へと向けた。怪物は舞の変身に怯みながらも、獣の本能と、その生命を突き動かしている悪意とによって、猛然と舞に襲い掛かってきた。舞――否、京姫と呼ばれたその少女は杖を振りかざして、獣の角を跳ねのけた。怪物は大きく後ろに飛んで椨の幹にぶつかり、椿の木にぶつかってその花を夥しく散らしながら、手水舎の屋根の骨組みに引っかかった。泡を吹いた怪物はもがいてその下に落下し、水盆の水を散らした。水はその体に触れたそばからどす黒く澱んでいった。


「う、うそ……!」


 目の前の現象になにより驚いているのは自分自身であると、京姫は思い込んでいたがそれは違った。がたん、という大きな音がしたかと思うと、結城司が社務所から飛び出してきて、水盆の上であがいている怪物を信じがたいという面持ちで見つめた。それから、ふと京姫と司の目が行き合った。京姫ははっとした。


「君は……」

「結城君、逃げて!」


 怪物が再び立ち上がり、土の上に飛び降りた。片方の角は先ほど木にぶつかった衝撃で折れてしまったようだ。しかし、怪物の脅威は少しも損なわれていない。それどころか、怒りと痛みのためにその獰猛さは一層煽り立てられたようにも見える。怪物は損なわれていない爪で土を何度か神経質に引っ掻くと、おぞましい彷徨をあげた。その声に、京姫も司も凍りついた。烏の群れが悲鳴をあげながらこの椨の森より一斉に飛び立ったせいで、薄曇りの空が一時的に暗くなるほどだった。重なる羽音がやかましかった。


 京姫と司の戦慄を見越して、怪物は飛び上がり、間近にいる司に向けて躍りかかる。咄嗟に気付いた京姫が駆け出して、司の体を押しのけた。怪物の爪を仗で交わし、次いで角の攻撃をもひらりと避けて、仗の先端による一撃で健全だった方のそれを打ち砕く。くるりと仗を返し、その頂上に飾られた宝石を向けると、怪物はその光を恐れて後ずさった。京姫は為すべきことを知った。


桜吹雪さくらふぶきッ!!』


 京姫が両手で仗を高く掲げて叫ぶと、水晶のうちに桜色の光が満ちた。京姫がそれを怪物に向けて突き出した途端、光は怪物に向かって放たれてその硬い被毛を包む。おぞましい断末魔を掻き消して、光はおどろおどろしい醜悪な怪物の姿を美しい桜吹雪へと変えてしまった。花びらは、舞の頬まで漂ってきた。


 ふっと膝を落としたとき、舞は元の姿に戻っていて、手にはあの桜の鈴だけが握られていた。舞は空いた方の手で自分の顔に触れてみた。手が震えている。そういえば、膝も、喉も、全身も……本当にこれは夢でないのだろうか。こんなにもありえないようなことが。舞は美しい姫君に変身して、しかも怪物を倒したのだ。


「嘘、じゃないの……?」


 舞はそっと呟いた。答えはない。疲労しきった体だけが真実だ。


「あっ……結城君……!」


 思い出した瞬間に、舞の披露は吹き飛んだ。立ち上がった舞は、地面に倒れている司を見つけると、蒼白になって駆けよっていった。舞の脳裏に、息絶えた司の姿が閃いたのだ。


(まさか……!)

「司!!」


 舞は司の傍らに膝をつくなり、その体をゆすぶった。司の眉がうるさそうにひそめられ、小さく呻く声がその口から洩れた。でも、怪我はない。生きている。司は無事だったんだ……!単に気を失っているだけで。それから舞は、なんで司が気を失ったのかと不思議に思い始めた。怪物のことがよっぽどショックだったんだろうか。でも、舞をここまで引っ張って逃げてきてくれたほどの司だというのに?もしかして……と舞は思い当たった。もしかして、私が突き飛ばした衝撃で……?


「ゆ、結城君!お、起きて!!」


 結城少年は無理矢理たたき起こされた、といった風情で目を開けた。すぐに頭を押さえたところをみると、どうやら頭を強く打ったらしかった。舞はますます慌てた。


「ゆ、結城君、大丈夫……?」

「頭が……」

「痛い?ご、ごめんね……!本当にごめん!」

「なんで君が謝るんだよ……」

「えっ、だって……」


 舞ははっと口を噤んだ。司はどうやら刹那だけ見かけた少女のことを、舞だと分かっていないらしいのだ。ならば、触れない方がいい。舞が怪物を倒したなどと、知られない方がいい。司に限らず、他の誰にも……


「怪物は?」

「逃げちゃった……多分、おまわりさんが来たからだと思う」


 ちょうどその時パトカーの音が聞えてきたので、舞は言い訳にちょうどいいと一言付け足した。司は舞に介抱されつつも起き上がると、周囲を見回し、それからこんな場所に二人でいること自体への不審を一所に集めたというような目線で、舞を射た。しかし、舞はそんな目に動じなかった。もっと大切な感動が、その胸の内に泉のように湧き上がっていたから。


「……なんだよ」

「結城君……無事でよかった。ほ、ほんとに……!」

「……はっ?」

「司……!」


 舞は結城少年の肩に顔を埋めると、すすり泣きはじめた。結城司は明らかに狼狽し、困惑し、迷惑そうな口ぶりで舞に「おい」と数度呼びかけながら舞を突き放そうとしたが、舞は滅多なことでは離れなかった。警察がやってきたときも、二人はまだそのままの姿勢であった。すなわち、舞は司に抱き付いて泣き、司は離したいような離したくないような素振りで少女の肩に手を置きながら……


 結城司の命が助かった――舞はその喜びを忘れることはないだろう。たとえ、これより先の人生に悲しみが雪のように降り積もって、その姿を掻き消してしまっても。雪解けの折には、きっと舞がその喜びを見出すときが必ずやってくる。しかし、舞の前途はまだまだ多難であった。なぜなら、舞の京姫としての戦いは今始まったばかりであったから。



 翌朝、登校してきた舞は、クラスメイトでごった返す教室のなか、一人平和と静謐に包まれて洋書を読む結城司の姿を見つけた。やはり司の姿は戻ってこない。怪物をこの手で倒した後でさえもなんの褒美も降ってこないなんて。舞はひそかに、怪物さえ打倒せば司が戻ってきてくれるような気がしていたのに――舞はまだ、結城司という幼馴染を失ったことを、新たな結城司との邂逅で埋めることができないままでいた。それでも、舞は司の席に駆け寄っていった。女友達たちにむけて作った、明るく優しい微笑を崩さまいと努力しながら。


「おはよう、結城君!」


 結城少年はちらりと洋書の頁から舞の方へ薄紫の瞳を映した。それが彼なりのごく親切な挨拶だったのかもしれない。だとしたら、それ以上を望むのは無粋といったところだろう。


 舞は小さく笑った。その華奢な肩にかけられた真新しい鞄の中で、桜色の鈴が音もなく揺れる。それはまるで、持ち主のさびしさに打ち震えたとでもいうように……

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