2-6 「結城君は私が守る」
四月十二日――その日は悲劇の日なのであろうか。この悲劇からは、何度繰り返しても逃れられないのだろうか。舞は永久に終わらぬ悪夢を見続けるのか……角と爪と牙とを持った、狼に似たあの怪物が、民家の屋根の上から赤い目で舞をじっと睨みつけていた。剥き出しになった牙に唾液が伝って屋根瓦を鈍く光らせる。舞と目が合うと、怪物は低く唸り声をあげた。
「あっ……」
司もあの時こんな光景を見たのだろうか。このおぞましい姿を咄嗟に舞に見せまいとして、手を引いてくれたのだ。舞が怖がって動けなくなることを恐れて――しかし、手を引く人もない今、舞はすっかりすくみあがってしまっていた。舞は廃神社で思いがけず出くわすことになった死の恐怖を思い出した。死にたくないと思うほど、死を手繰り寄せているような焦燥感と、もうどうしようもないのだという絶望感を。せめて声をあげられたらいいのに。そしたら誰かが気付いてくれる――でも気づいたところでどうしろというの?こんな怪物、武器でも持っていなければ倒せそうもない。でも司は、あの朽ちかけた柄杓で、あんな貧相な武器でこの怪物に立ち向かったのだ。傷ついた体で、我が身を犠牲に舞を守ろうとして……思考だけが忙しなく頭を過ぎるけれども、足はまだ動きそうにない。逃げなければ。でも、逃げて、どこへ行くと言うの……
舞の腕をぐいと引く人があった。その人が走り出したので、舞もつられて走り出した。鞄を置き去りにしたまま。その瞬間、怪物が先ほど舞がいたところに飛び降りて、その角で鞄を突き上げた。鞄がその角に刺し貫かれ、ずたずたに引き裂かれている光景を舞は小道に入り込む寸前に見た。それから、舞はようやく前を歩く人の顔を見た。正確には、顔というより後ろ姿であったが――舞は目を疑った。それは、司であった。
「つ、司……!」
「君に呼び捨てで呼ばれるほど仲良くなったつもりはない」
「ど、どうして……」
結城司は答えなかった。舞はこの見知らぬはずの司が通る道が、以前導かれて通った道と全く変わりないことに気がついて、漠然とした不安を覚えた――同じ運命をたどっているという不安――しかし、舞は走っている人を止めて別の道に導くほどの余裕は到底なかった。舞は怪物が恐ろしかったし、ずたずたに引き裂かれた鞄を見た今では猶更であった。怪物は追ってきているのだろうか。振り返ろうとした舞の気配を察知したのか、結城少年は鋭く叫んだ。
「振り向くな!」
舞はその横顔のうちに、司と同じ表情を見た。
二人は以前にもやってきたあのカーブに突き当たって、しばらく呼吸を整えた。舞は両手を膝の上に突き、荒く息をしながらも注意深く周囲を見回してどうするべきかをうかがっている司の顔を見上げ、冷酷なまでに聡明なよそよそしい瞳が、今ひと時だけは却って頼もしく感じられるのに、果たしてどうやって折り合いをつけようかと迷っていた。しかし、今はそんなことよりも……
「あれはなんだ?」
司が指さしたものは、
「神社……で、でも、今はもう使われてないし……」
「廃神社か。なら、人はいないんだな?」
「そ、そうだけど……」
「だったら、そこに向かおう」
「そんな!駄目……!」
打ち捨てられた神社のもの悲しい風情、それを取り巻く椨たぶの鬱蒼とした森。しかし、それらを舞台に起こった出来事の方がその舞台の雰囲気よりもどれほど陰惨であっただろう。舞たちとともにそこに迷い込んでしまった怪物は、その廃れた社務所や手水舎の屋根を蝕むものたちよりどれほど邪悪であっただろう。舞はタブのつややかな硬い葉が、今この瞬間でさえ司の血を滴らせているように思われる。舞は身を震わせた。あの神社には二度と行きたくない――
「あの神社は駄目。他のところに逃げよう」
「とにかく人気がなくて、隠れられるところを探してるんだ」
「どうして?それより助けを呼ぼうよ。町の真ん中に戻ろう!そうだ、商店街に……!」
「駄目だ」
司はすばやく首を振った。
「どうしてよ?」
「あんなのが繁華街に現れたら大混乱になる。被害だって拡大する。とにかくあいつから隠れられるところを見つけて、その隙に警察と保健所に連絡するんだ。それしかない」
「でも、怪物だなんて信じてくれるかなぁ」
「土佐犬とでも言っておけばいいだろう。大差ない」
「どうやって電話すれば……?」
「馬鹿か。携帯があるだろう」
舞は一瞬きょとんとした。
「け、携帯?ゆ、結城君、携帯電話、学校に持ってきてるの……?!」
「こういう非常事態があるからだ。別にいいだろう。授業中使ってる訳でもないし……とにかく、もう行くぞ。君が行かないっていうならぼく一人で逃げるからな」
「あっ、ちょっと、待って……!」
司が道路を横切ったのに、舞はくっついていった。あの優等生の司が学校に携帯電話を持ってきているなんて。舞はこの非常時にそんなことに傷ついてその一方で感心してもいたが、苧環神社へと続く白い階段が照葉樹の木陰に続いているのを見ると、途端に些末なことは吹き飛んでしまった。ためらわず突き進んでいこうとする司の手を、舞は無意識のうちに取って止めた。司は舞を拒絶したときを思わす恐ろしい形相で振り返った。
「一体この神社がなんだっていうんだ。そんなに問題があるなら早く言え」
「ちが……結城君……でも、やっぱり、駄目……!」
「ああ、そうか。なら君は助けを呼びにいけ。僕は他人を巻き込むのは御免なんだ……そもそもあの怪物は君を襲ってきたんだ。いいさ、別行動にしよう。君が囮になっている間に僕が連絡をつけるよ。さあ、行けよ!」
人に行けと言っておきながら、動きはじめたのは司の方であった。舞はどうすべきかと躊躇った。焦りと迷いのために汗ばみ、恐怖のために喉と唇が渇いてくる。司を引き留めることはできなさそうだ。どうする?司を追うか、それとも彼の勧告通りに繁華街の方へと向かうか。確かに司の言う通りだ。あんな怪物が町中に現れたらみんな混乱する。怪物が誰を押そうとも限らない。もしかしたら、買い物をしている舞の母親や下校途中の友人たちまで……司と舞との間で終わらせられたはずの惨劇を、自分はこの町全体にまで拡大しようというのか。
あの怪物が本当に司の言う通り、舞を狙ってきたものだとしたら……司を追うことはできない。舞はやはり囮にならなければ。一人にならなければ。それは恐ろしい考えではあったけれども、再び司の死を見るよりははるかにましなのだから。
(逃げよう……とにかく限界まで走るの。結城君が通報してくれるまで、できるだけ怪物を町から遠くに惹きつけて……)
舞は鈴を取り出した。一度は聞えなくなっていた鈴の音が再び大きくなってきた気がする。怪物が近づいてきていることを示しているのかもしれない。舞は急カーブの斜面の下から隣町にむかってひろがっていく、畑と、河と、架橋との白けた景色を打ち眺めた。自分はあちらへ逃げよう。
震えながら、怯えながら、それでも地に伏した司の姿を振り払うため進み始めた舞はあやうく悲鳴をあげそうになった。舞の体は朽ちかけた階段を二メートル近く滑っていった。突然引っ張られたせいで。
「ぼやっとしてるな。死にたいのか!」
「ゆ、結城君……」
(駄目なのに。絶対に駄目なのに……)
階段を駆け下りる苦しさにも、足の痛みにも負けず、椨の森の不気味さにもあるいは死の恐怖にも紛れず、舞が司に手を引かれながら胸に抱きしめていたのは深い悲しみであった。舞は明らかに司の手を振り切っていかなければならなかったはずだ。でも、それができない。司は一人で逃げられたはずなのに、それをしない。舞を見捨てる機会があったにも関わらず、もう二度も舞の手を引いてくれたのだ――舞も司もなにか抗いようのないものに支配されているような気がして、それに従うばかりの自分たちが舞は悲しかった。舞たちはもしかして、こうして何度も悲劇に突き進んできたのだろうか。何度も転生と夢とを繰り返しながら……黒い鳥居が見え始めてくると、舞はある決心をした。
階段を降り切ると、今度は舞が司を社務所の方へと引っ張った。閉じられた扉は舞の力でいともたやすく開けることができた。舞は司を座らせ、自分はかつて司がそうしたように中腰になって、ちらりと格子窓から様子を窺ってまた身を屈めた怪物の姿はなかったが、鈴の音は先ほどよりやはり大きくなってきてはいた。
「怪物は?」
「来てない。大丈夫」
司の目が、不審そうに舞を見上げている。
「君は……」
「結城君、今のうちに通報しちゃって。でもそれが終わったら絶対に声を出さないで。目をつぶって、耳を塞いでて」
「なに言って……」
舞は笑顔で相手の言葉を封じられることを学んだ。
「大丈夫だから。ちょっと様子を見てくるだけ。すぐに帰ってくる」
「ちょっと……おい!」
舞は司に引き留められぬうちにと急いで社務所を出た。それ以上そこにいたくなかったせいもある。そこにいると、思い出しそうで。格子窓に見えることを恐れたのは、怪物の姿ではなくて、椨の木にまで鮮やかな紅の花を咲かせていた、司の――
舞は社務所の扉に依りかかり、胸の上に小さな手をあてて深呼吸を一つした。それから、社務所の表側へと回り込んで、ついに手水舎に向き直った。風に崩れ去ってしまった骨組みだけの屋根の下、水盆は光の届かぬ底の色と、水面に映り込む照葉樹の色を織り交ぜて沈鬱な暗緑色を湛えている。椿の木はその隣で静かに佇んでいる。ただ足元のみに花を降り積もらせて、水面を乱すこともなく。その光景が舞にまた勇気を与えてくれた。
舞は参道を横切って、地面に転がり落ちている朽ちた柄杓を拾い上げた。手にしてみれば、ますます貧相な武器であった。こんなものに頼って司は戦っていたのか。舞は破れた柄杓の底に堪えた涙を溜めた。その脆そうな柄を握り締めた。司の手の温もりの痕跡をそこに認めようとして……舞は目を閉ざす。風が木々の葉をざわめかせている。聞こえるのはただそれだけだ。耳を塞ぎたくなるほどの沈黙のなかで、ポケットの中の桜の鈴が舞を勇気づけるように震えている。舞は片手に柄杓を、片手に鈴を抱えて、鳥居の方へと歩みだした。
舞は己自身に誓ったのだ――もう結城司の死は目撃しないと。たとえ彼が舞の深く愛した司ではなくとも。司に手を引かれて石段を降りる途中、抗いきれぬ運命への悲しみのなかで、かつての司が舞を守ろうとして起こした行動の意味を、その筋書きを見出したのであった。司は舞から怪物を遠ざけようとしたのだ。自ら囮になることで……携帯電話なんて学校に持っていけなかったあの司は誰にも助けを呼べなかった。だから、一人で戦おうとしたのだ。
「幸せに、なって」――夢の中で聞いた言葉は、二重の覚醒を経ることで遠ざかってしまった。でも舞は不幸になろうとしているのではなかった。死のうとしているのでもなかった。司に殉ずることも、押し付けられた不幸に自ら向かっていくことも、結城司の命を守るというひとつの目的を達成できさえすれば唾棄してもよいような些少な問題であった。舞はただ、結城司を守るために命を惜しまないというだけなのだ。舞はただ、結城司を守らねば、自分の幸せなど永遠に来ないことを知っていただけなのだ。
(結城君は私が守る……司、お願い、力を貸して……!)
ゆるやかなしっとりとした足取りで鳥居を潜り抜けた舞は、ふと立ち止まり、そして鳥居の上を振り仰いだ。怪物がうなりはじめた。
鈴の音が一度大きくしゃんと鳴り響いた。鈴の中の小さな桜の花弁が突如として音色とともに風にのって溢れ出し、桜嵐が吹き荒れると、舞の体は夥しいその桜の花弁の中に包まれた。
「
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