2-5 「変なやつだな」


 結城司が転校生として現れたことと、結城司の性格が豹変してしまったこと、一体どちらの方が自分にとってより衝撃的であったのか、舞には判然としなかった。湯を素手でかきまぜているとその温度がわからなくなるように、舞はこの温度に手を浸しすぎたのである。舞は唇を噛み、用務員室に向かって歩きはじめた。


(一体なにが起こったというの……?)


「……今日のあんた、変よ」

「うん……」


 昼休み、廊下に並んで校庭でサッカーに興じる男子たちを見下ろしながら、二人は呟くような会話をした。美佳は開け放った窓の桟に重ねた両腕を敷いてそこに顎を置き、活発な男子たちの動きを眼鏡に映している。舞はもはや窓の外の光景に興味もわかないので、その隣にいながらも窓には背を向けている。小さな手を、腰の後ろで組みながら。


「どうしちゃったの、ほんと。転校生の名前は当てるし、いきなり倒れるし、バレーボールは吹っ飛ばすし」

「わかんない……」

「あんた、あの転校生と知り合いなの?」

「わかんない……」

「わかんないってことはないでしょーよ」

「わかんない……」

「こらっ」


 美佳に小突かれた舞は、自分は支離滅裂な返答をしていたことにようやく気がついた。舞は伏せた目を悟られぬようにそっと持ち上げて、教室の入り口から見える結城少年の姿を眺めていたのである。結城司は、同じ名前だった人がかつて――それが本当に「かつて」と呼んでよい時系列にあったのか、舞にはわからなかったが――そうしていたようにサッカーの群れにはまざらない。彼は難しそうな、古い本を開いて、静かにその世界に没頭している。そしてクラスで誰かがけたたましい笑い声をたてたりすると、時々眉をひそめてそちらを睨みつけている。教室の中の女子の会話がつい途切れがちになるのは、あるいは彼のせいかもしれなかった。


 もし、結城少年が午前の間にその卓越した頭脳と身体能力を見せつけていなければ、彼の睥睨も底抜けに明るい女子たちの嘲りに跳ね除けられたかもしれなかった。彼の沈黙は愚鈍の証とされ、彼の孤独は異端の表明と見なされただろう。そうであったら、クラスの生徒のみならず舞でさえもどれだけ気が楽だったことか。彼に投げかけられる軽蔑にも、軽蔑で返せばよいだけのことであったから。だが、彼の鋭敏さや聡明さは、見ている者に恐れを抱かせずにはいられないようなものであった。舞も含めた多くの中学生たちにとって、その知の総量がその人格さえも重厚なものに仕立て上げてしまうという例を目撃するのは、初めての経験であった。彼らは結城司に敬服せざるを得なかった。


 それになによりその美貌――舞は眩暈を覚えるほどに懐かしく愛おしいその横顔を眺めながら、その顔がその上に塗られるにはあまりにもふさわしくない冷酷さによって一層美しさを際立たせることを知って、腹立たしささえ感じていた。もし結城少年がかくも美しくなければ、先に述べたような知の総量でさえ滑稽さのうちに自ずから崩れかねなかったというのに。言ってしまえば、結城司はあまりにも完璧すぎた。人間らしからぬほどに。


(司じゃない……司じゃない……)


 舞は何度も胸のうちに繰り返した。


(頭がいいのも、運動神経がいいのも司と一緒だけど、でもやっぱり司じゃない。司はあんな、ロボットみたいな冷たい人じゃなかった……)


「それで、あんた、ほんとにどうしちゃったのよ」

「わかんない……でも、なんか悪い夢を見てるみたいな気分なの。現実みたいな気がしないの。なんか……そうだ、違う世界に来ちゃったみたいな……」



 美佳との会話を思い出しながら、舞は自宅への道を歩みだす。美佳は相変わらず舞を心配しながらも、それでも部活は休めないので舞に「気をつけなさいよ」と一言伝えて、校庭へと走り去った。舞はそんな友の背中をぽつんとさびしげに見送って、昇降口を出たのだ。舞には親友にさえも理解されていないという悲しみがあった。だからといって、こんな話をしたところで美佳が信じてくれるはずもない。


(あれが現実のことだとして……)


 舞は辛くおぞましい記憶をおそるおそる心の底から持ち上げてみる。整理することが必要だった。


(時間が巻戻ったっていうの?夢で見たのは今日のことだったもの。少なくとも日付は一緒。四月十二日――でも単に時間が巻戻っただけっていうなら、司のことはどうなるの?なんで司が転校生としてやってきて、それに別人みたいにならなきゃいけないの?)

(やっぱり私、ほんとに別の世界に来ちゃったのかな?この世界は前の世界とはちょっと違うパラレルワールドだったりして。こんなのバカげてるってわかってるんだけど……それとも、私、死んだの?)


 舞は立ち止まる。襲い掛かってくる怪物の姿が目に浮かぶ――恐ろしい瞬間であった。怪物に飛びかかられていたその時よりも、自分が死んだのかと疑いはじめたこの時がなによりも。


(ここは死後の世界なの?私、もしかして地獄にいるのかもしれない……そうかも。だって、司がいない世界は私にとって地獄だもの……)


 舞はその途端に世界が崩れて、たちまち暗闇と灼熱の炎に鎖された世界が表出するかもと一瞬身構えた。だが、街並みは変わらない。花曇りの空は、舞の陰鬱な心に寄り添ってくれるかのような、あるいはますます孤独を深めようとするかのようで。薄い雲を透かして降り注ぐ日の光で、桜花市の街並みは埃を被ったかのように白くぼんやりと光っている。その端々に花の彩がある。だが、それさえも舞を喜ばせはしないのであった。


 舞は再び歩きはじめた。混乱して、疲弊しきっていた。こんな虚脱感に襲われるのは、明るく陽気なこの少女にとってこれが初めての経験だった。どんな可能性に思いをはせても、なにひとつ答えを返してくれるものはないのだ。そうして妄想のように次々とあらゆる可能性を考え付いたところで、所詮徒労でしかない。舞は明日のことを思う。明後日のことを思う。一年後、三年後、十年後を思う。舞の未来は司が別人のように変わってしまったこの世界の延長線上にしかないのだろうか。今まで、舞は未来を果てしなく遠いところに伸びていくものだと思っていた。だが、今の舞には、未来というものが箱庭の中に収められてしまったもののように感じられる。


(あれが現実のことだして……)


 舞は再び最初の仮定に立ち返った。


(もしかしたら私の願いを神様が聞いてくれたのかもしれない……死んでしまった司ともう一回やりなおせるように。何もかも元通りにはいかなかっただけで……)


 風にさらわれてやってきた一枚の桜の花弁が舞の頬に触れる。その柔らかな、湿ったような感触と、零れ落ちた塩辛い雫の感触を舞は混同した。息がつまった。


(だとしても、ちっとも嬉しくない……!)


 司に会いたかった。声を聞きたい、顔を見たい、手を握ってほしい。駄目だ、司はあの司でなければ駄目なのだ。同じ名前で同じ顔の人間が代われるような人間ではない。たとえ、新しく出会った結城司の性格が元の司のように優しく勇敢であったとしても――でもやっぱり違うんだ。舞は今ここでなら、一度は自分に投げかけた問いの答えが出せる気がした。すなわち、司の性格が変わったことと司が転校生として現れたことのどちらが自分にとってショックなのかと。もちろん両方に決まっている。決まっているには決まっているのだが、でも舞にはやはり、同じ時間を過ごしてきた幼馴染としての、初めての、そしてたった一つの恋の相手としての司の喪失がなによりこたえた。小さな舞の手を引いて家まで導いてくれたあの司の喪失が、あの時からこの掌に残っていた温もりの喪失がなにより……


(司、どこにいるの?)


 お願い、ここに来て、すぐに。あなたは絶対現実に存在したのだから。そして今も、存在しているに違いないのだから。


(司、お願いよ、会いたいの……!結ばれなくてもいい。私のこと、振ってくれたっていいから、今すぐここにきて……!)


 舞はふと、こんなことを前にも思ったような気がした。でも、舞の思いがここまで哀切なものになったのは、悪夢に立ち向かわされている今ならではであってのはずだった…………


 曲がり角を曲がって、見慣れた後ろ姿を見つけたとき、舞は思わず自分の願いがかなったのかと思って狂喜しそうになった。だが、それは舞の見知らぬ方の結城司の姿であった。あの、なんとなく人を寄せ付けないような物腰でわかる。元の司よりずっと優美なくせに、どことなく粗雑な印象を与える歩き方でも。まるで人に追いつかれることを嫌がっているようではないか。あの足の進め方の速さときたら――舞はそれを見ているうちに、なぜだか無性に苛立ってきた。喧嘩を売られているような気がしたのだ。司の姿で好き勝手しないでよ――舞の気持ちを代弁すれば、おおよそこのようなものになっただろう。急に闘志が湧いてきた。今ならば、結城少年の軽蔑の眼差しとも戦える気がした。


 舞はおもむろに駆け出して、少年の肩を叩いた――以前そうしていたように。結城司は驚いたように足を止め、舞を見ると、たちまち顔面を冷たい憎悪のこもったものに凝らせた。司の顔がそんな風に蹂躙されていることに、舞は一瞬耐えられないような思いがしたが、舞は自らを奮い立たせ、明るい声調で言った。


「ゆ、結城君!今、帰り?」

「……見ればわかるだろ」


 結城少年は返事をするかどうかさえ迷ったようであったが、結局低い声で吐き棄てるように言った。それから、舞の大好きだった薄紫の瞳を冷やかな流し目で濁しながら「なにか用?」 と尋ねた。


「ううん!でもせっかくだから、途中まで一緒に帰ろうと思って!」

「僕は一人で帰りたいんだ」


 僕、だなんて。一人称まで変わっている。


「い、いいじゃない!わ、私、結城君と仲良くなりたいなー、なんて……ほ、ほら、どうせ家の方向も一緒だし!!」

「なんで僕の家の方向がわかる?」

(あっ、しまった……)


 舞は密かに汗をかいた。以前、司は舞の家から南側に二本ばかり道を隔てたところに住んでいたので、うっかりこの司の家もそうだと思い込んでいたのだ。でも、そうであるはずがない。だって、この人は別人なんだもの……


「あっ、えっと、いや、なんとなくそんな気がしただけ……お、おうち、どこ?」

「教える義理はない」


 結城司は不審の色もますます顕かに言い放った。


「もういいか?家が一緒だとしても君とは帰りたくないんだ」

「そ、そんなこと言わないで……せっかく同じクラスなのに!」

「だからなんだって言うんだよ?」

「だって、友達になりたいじゃない……」

「ぼくは友達なんていらない。みんな馬鹿ばかりだから。君も含めてね」

「ば、バカっていったほうが、バカなのよ!!」


 むきになる舞は、すっかり以前の司との口喧嘩のペースで言った。そのせいで、今現実に向かい合っている結城少年はあまりにも子供っぽい言い草に初めて軽蔑と憎悪以外の感情を表した。彼は露骨に呆れていた。


「なんだ、それ……」

「む、昔からそう言うじゃない!だから、私のことバカっていう結城君だってバ、バカなんだから……」

(何言ってるの、私……)


 舞はますます泥沼にはまっていく自分に気付いて必死にあがきながら、自分の子供っぽさに悄然とした。その時だけ舞は司への不快感を忘れ去っていたのだが、舞自身はそのことを自覚していなかった。今ひと時だけ、以前の司とのやり取りの骨格だけは少なくとも蘇ったのだが。


(これじゃあ、ほんとにバカにしか見えない……)

「変なやつだな」


 結城司は言外の意味はまったくないという口ぶりで投げ捨てた。そして、前より足を速めて、舞を振り切るように歩きはじめた。


「あっ、待ってよ!」


 舞も慌てて足を速める。


「ついてくるなよ」

「だって、まだ会話終わってないもんっ!」

「君と話すことはなにもない」

「あるよ!いろいろ!そうだ、京都にはいつからいたの?」

「教えたくない……!」

「前はこの町に住んでたんでしょ、なんで京都に……」


 結城少年が急に足を止めたので、舞はつんのめって危うく転びそうになった。それでも転校生はクラスメイトのために手を差し出しはしなかった。舞は自分を見つめている結城司の瞳が、今初めて感情らしい感情を映しだしていること気がついた。軽蔑、憎悪、呆れ――それは彼にとって習慣にすぎないのだろう。それを表すということは。しかし、今、彼はようやく能動的な己の心の働きによって感情を描出しだしている。舞に対する怒りと嫌悪感とを――


「いい加減にしてくれ!ぼくに付きまとうのはやめろ。目障りだ。ぼくが以前何をしてどこに暮らしていようが、君には関係ないじゃないか……!」


 結城司の言葉は氷柱のように舞の胸に傷を残す。舞は走るようにして去ってゆく彼の後ろ姿をもはや追いかけることができなかった。舞は鞄を地面に落として、空になった拳を震わせる。やっぱり司ではないのだ。舞はついその面影を探し出そうとしていたのだけれど。結城司の心に土足で踏み込んで、素手で過去を漁った。その結果、彼を怒らせてしまった。ああ、祖母がいたらどんなに舞を叱っただろう。舞の行為はおおよそ礼儀を外れていた。舞は己を恥じた。


「ごめんなさい……」


 聞こえない事を知りながらも、舞はそう言わずにはいられなかった。舞は彼を怒らせたばかりではない。彼を傷つけたのである。舞は思いがけず彼の表情のなかに、彼が必死に隠そうとしているものさえ見出したのだ。彼は明らかになにものかを恐れ、そのなにものかが残した傷痕に触れられそうになって怯えていた。よく馴染んだ顔であったから、読み取るのは簡単であった……


(もうやめよう、あの人に関わっちゃだめだ……)


 不思議と舞は自然に諦めがついた。そして、なにより吹っ切れたような思いがした。多分、単に胸の神経が麻痺しているだけで、家に帰ったらまた悩みだすかもしれないけれど。


 鞄を拾い上げようと身を屈めたとき、制服のポケットのなかで小さく鈴の音がした。舞は動きを止めた。桜の鈴の存在をすっかり忘れていた。でも、確かあの鈴は鳴らなかったはずではないか。今になって、なんで……?鈴がまだ震えている。持ち主である舞がぴたりと制止しているにも関わらず、その音は次第に大きくなっていく。舞は鈴を取り出してみた。すると、驚いたことに、鈴は玲瓏な音色とともに桜色の光を発しているではないか。


「どうして……?」


 背中がぞくっとした。舞ははっと振り返った。

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