2-4 「司はどこにいったの……?」

 うそ甘い色で病人を落ち着かせようとしている桃色のカーテンに囲まれて、舞はベッドの上に腰をおろし――寝るほどではないと舞は考えた――指先が思い出したように震えだしたり、あるいは乾ききってスカートの上に打ち伏したりする様をまるで他人事のように見つめながら、先ほどの転校生の様子を思い出すのであった。なぜ人は己の傷口に触れたくなるのだろう。そうでもしなければ痛みというものを覚えられないからか。それとも、そうすることで必死に麻痺しようとしているのかもしれない。いずれにしても、舞があの少年を、結城司と同姓同名の、顔かたちも瓜二つのあの少年を、元の結城司だと見なすことは難しかった。しかし、転校生である彼がいる以上、元の司の居場所をこの世の中に想定することは難しかった。彼らはあまりにも似すぎていた。


(違う……!あんなのは司じゃない!)


 舞が必死に否定してみたところで、理性と判断力は渋面を変えなかった。彼らは舞の愛が涙を流して必死に訴えれば訴えるほど、舞が変わらず透き通ったままだと信じ込んでいるその心の中に苦い液体を流し込み、澱を凝らせた。あの冷酷な司の瞳の色の液体を――舞は自らの両肩を抱いた。とても寒い。そうして打ち負かされてみると、恐ろしい問いが舞を訪うのである。


(司はどこにいったの……?)


 舞は天井を見上げた。カーテンに囲われているからここはほのかに暗いけれど、校庭向きに大窓のある保健室には日差しがよく入り込むから、桃色の仕切りの外では光が自在に影を描いて遊んでいる。古典的ながら、舞は頬をつねってみる。目は醒めない。これは醒めない悪夢なのだろうか。舞ひとりだけが、桃色のカーテンが正しく象徴しているかのように眠りの仕切りで囲われていて、現実の世界では本物の司と本物の舞が今日も楽しく日々を送っているのであろうか。そうした場合、舞にとってこの悪夢はなんであろう。覚醒というものが望めないのであれば、これはまさしく舞にとっては現実ではないか。


(悪夢のなかで、悪夢を重ねているのかな……)


 最初は司の死んだ悪夢を見て、そして次に司が消えてしまった夢を見て。その次にはどんな夢を……?なによりも大切なものを、それをそうだと見なしはじめた瞬間から失って、おぞましい考えの迷路のうちを彷徨する舞は、まるで皮膚の庇護もなく壁に手を突くような痛みに悶えていた。剥き出しになった神経が疼くにつれて、舞はそもそも司の存在すら怪しく思い始めている自分に気付いた。自分はただ、長い夢を見ていただけではないだろうか。すなわち、こちらが現実で……今朝の夢のうちに、舞は信じてしまったのだ。理想の幼馴染の存在を。


(私、どうしちゃったの……)


 舞はようよう矛先を自分に向けて、すすり泣きはじめた。自分の精神がどうにかしてしまったと認めることは、周囲がどうにかしてしまったと思い込むより一層難しく、耐え難いことであった。舞は――たとえそれが悪夢であったとしても――打ち砕けぬ現実の壁の頑強さを前に泣いていたのだ。



「何泣いてんだよ」


 舞は遠い日の、自分の嗚咽を聞いた気がした。


「だ、だって……おうち、わがんない……ひっ……」


 涙のせいで何もかもがぼやけて見える。怖いほど真っ赤な夕焼けも、しゃがみこんでしまった小さな自分の手の形も、泥まみれ汗まみれの顔で呆れている司の姿も。


「だーから言っただろ、こっちに来るのはよそうって」

「うっ……えっ……」

「お前が猫さん追いかけようっていうから、ついてきてやったんだぜ」

「も、もう……かえれな……おがあさんと、おどうさんに……あえな……いっ……ひっ……」

「……そんな訳ないだろうが」


 司はぐずぐず泣き続けている舞がそうでもすれば事がおさまるとでもいうように必死に目元に押し付けている小さな拳を解いた。舞は涙でにごった瞳で司を見上げ、幼馴染のひたむきな顔を間近に見て、初めてなにかに気がついた。それがなにかは幼い心にはよくわからない。舞は司の顔をいつまでも眺めていられるような気がしたのだ。それと同時に、なぜだか司にこんな風にじっと見つめられていることが急に恥ずかしくなって、舞はさっと顔を背けた。司は舞の顔が赤いのを、泣きこすったせいか夕日のせいだと思ったに違いない。


「ほら、帰るぞ」

「えっ、でも……」

「ばーか。家の方向ぐらい知ってるよ」


 司が舞の手を引いて歩き出す。半ズボンから突き出した日焼けした脚に、今日の大冒険の勲章がたくさん付いていた。二人は相当に無茶をした。垣根を抜けて、勝手に民家の庭を通けて、池に落ちそうになって……舞は水溜りの中に映った自分のワンピースの裾のレースがほとんど汚れていないのを見て、その時ようやく司の傷痕がなにを示すのかをおぼろげながらに掴んだ気がした。舞は司の手をぎゅっと握りしめて、その肩にまだ濡れている頬を預けた。舞は司ならばきっと自分を救ってくれると信じたのである……



「司……」


 舞はそっと呼びかけた。口に出してそんな風にささやいてみたとき、舞はたった三音の言葉が誰を示しているかをはっきりと悟った。


(司……司は絶対にいた。いいや、いるんだ!司の存在は、私一人の夢なんかじゃない……!)


 だって、あの思い出まで夢だとしたら、嘘だとしたら、この手が今も大事に抱えている温もりは一体なんだというのだろう――


「……京野さん」


 カーテンの向こうから声がした。舞は見られる前にと慌てて指で涙を払った。


「今、お母様に電話したんだけど、お母様いらっしゃらないみたい。もしもう無理そうなら携帯の方にも連絡して、お迎えに来ていただくけど、どうする?」

「あっ……わ、わたし、平気です……」


 養護教諭の里見先生がカーテンの隙間から顔を覗かせたとき、舞は顔を枕の方に向けてシーツの上に手を突き、たった今起き上がろうとしていたというようなふりをした。心配性なわりにどこかとぼけたところのある里見先生は、舞が上履きを履きっぱなしでいることに気づかなかった。


「あの、元気になりましたから……次の授業でます……!」

「えっ、でも次の授業、体育だけど……」

「だ、大丈夫です!」


 結局舞の説得は上手くいって、舞は次の授業からの復帰が決まった。それ以上保健室にこもっていたところで、あるいは家に帰ったところで、舞は悶々とするだけなのだ。あの一瞬の司の瞳の鋭さを思い出して、延々と反芻しつづけるだけなのだ。ならば、多少のかすり傷を負うことになっても、現実を正視していたい。舞は自分がこれ以上深く傷つくことはないと思っていた。



 更衣室に姿を現した舞を見て、友人たちは大いに驚いたが、舞は明るい笑顔でみんなを安心させ、それから体操着を教室に忘れたことに気づいて更衣室を飛び出し、みんなを笑わせた。体育の授業は、女子は体育館でバレーボール、男子は校庭でサッカーであった。美佳は男子だけがサッカーであることに文句を言っていたが、多くの女子は日に焼けるからという理由で校庭に出なくてすむことを喜んでいた。舞はどちらともつかずに微笑みながら、しかし意識は心の奥深く、日のあたらぬ水底を深海魚のようにさまよい続けていた。あの少年の姿が見えないことは、舞にとっては安堵の材料にもなったし、片や苦痛を長引かせるだけの不要な麻酔のようにも思われて、なんだかじれったくも感じられた。それでも体を動かしていれば、少しは気がまぎれるかと思ったのだ。


(大丈夫よ、司は絶対いたんだから……私の夢なんかじゃない……)


 準備体操、ウォーミングアップのミニゲームがあったあと、試合が始まるころになって、舞は自分の体が相変わらず冷え切ったままであることに気がついた。別に動いていなかった訳ではないのに、体が温まらない。汗が出てこないのだ。却って動こうとするほど指先が重くなっていくような気がする。他の者の目には舞の動きに変わったところがあるようには見えないらしいのだが。心の竃かまどがさめてしまった以上、いくら火を煽り立てようとしたところで、むなしい風が灰を散らすだけなのだろうか。舞は途端に、鉛の扉が心を押しつぶしながら愛と喜びにまつわるあらゆる感情を締め出してしまったのを感じた。それが喪失感であった。


「舞!舞!」


 美佳の声ではっと立ち返った舞は、ボールがこちらに向かって跳ね上げられたのを見た。どうにかしなければ――でもどうすれば?自分が今体育の授業中であることすら忘れかけていた舞は、咄嗟にボールを右掌で強く打った。それは舞が思っていた以上に鋭い攻撃になった――ボールにとって。ボールは激しく回転しながら、ものすごい速さと勢いでネットの上を、相手チームのコートを突き抜け、さらには体育館の窓ガラスまで突き破って飛んでいった。どこかで誰かの悲鳴のようなものが聞こえた気もした。


「ちょっ……舞……」


 しばしは誰もがぽかんと口を開けたまま無残に突き破られた窓ガラスを眺めていたが、やがてクラスメイトたちの視線が舞の方に集まり始めた。誰より目の前のことが信じられなかったのは舞自身であったにも関わらず。舞は膝の上に手をついたまま、口元を引き攣らせて、この世の終わりの目撃者にでも選ばれたかのような表情をしていた。


「き、きょうの!!」


 体育の長谷先生が職務中である手前、生徒たちより早く我を取り戻した。舞は長谷先生には叱られ、そして友人たちにはくすくすと笑われながら、とにかく窓ガラスが割れたことを知らせるために用務員を呼んできなさいと命じられ、体育館を出ていった。


「信じられない……」


 舞は半泣きになって思わず呟きながら、体育館と本棟をつなぐ渡り廊下をぱたぱたと駆けていった。


「いつもは全然飛ばないから怒られるぐらいなのに……」


 しかし、不幸はたった一つよいことをもたらした。あんまり驚いたおかげでどうやら心に火は戻ってきたようだ。二階の廊下を抜けて、一階の用務員室のすぐ目の前に降りられる中央階段の方へ向かっていた舞は、校庭で砂を巻き上げながらサッカーに興じる男子たちの楽しそうな声を素直に羨ましいと思った。そして、ふと足を止めたところで、結城司の姿を認めた。


 ちょうど今、結城少年は相手側からボールを奪い、巧みなドリブルでゴールに向かっていたところであった。舞は思わず声をあげたくなった。「頑張れ、司!」――司の専門はテニスであったけれど、運動神経は優れていた。小学校の頃、一年ほどサッカーチームに参加していたこともあって、サッカーも得意であった。単に技術がすごいというだけでなく、状況判断力にも秀で、思いやりがあり、フェアプレイの精神が強かったので、チームメイトにも相手チームにも好かれる稀な逸材であったのだ。中学でサッカー部に入らなかったのは、技術の点では今までサッカーチームを続けてきた他の男子たちにかなわないと悟ったことと、テニスへの愛情があったためと考えられる。でも、司は体育や昼休みのゲームでは常に優秀な選手であり続けた。


 司は一人、黒豹が鈍重な狩人たちを交わすように相手チームの守備を潜り抜け、味方の手助けもまるで必要としないまま、鮮やかなシュートを決めた。「やった!」舞は思わず叫びそうになって、口を両手で覆い、なんで授業中であるはずの生徒がこんなところで暢気にサッカー観戦をしているのかと訝る教頭先生に愛想笑いを向けた。教頭先生が職員室に消えてしまうのを待って、舞は再び校庭に目を戻しながら、その時にはすでに喜びに一滴の墨が零されていることに気づいた。それは教頭先生のせいではない。日差しが急に陰ったためでもない。舞は応援していたその人が、元の司でないことを一度は舞を喜ばせた光景の中にまざまざと実感したのであった。


 走っている結城少年は、まるで以前の司のように舞には見えた。だが、本当に元の司だったら、誰にもパスを送らず、たったひとりでゴールに向かうようなことをしただろうか。司はいつだって試合に真剣だったし、たとえ体育の試合といえども手を抜くなんて絶対にしなかっただろうが、でも常に周りの人々への心遣いを忘れなかった。ゴールへ向かおうとする彼の傍にはここぞとばかりに活躍を望んでいるチームメイトたちもいたのだ。それなのに結城少年は脇目もふらず一人でゴールしてしまった……


 それが道徳的によいこととか悪いことだとか、サッカーの戦略としてよいとか悪いとかそういうことではなく、さらには結城少年が前の司と違うという事に幻滅したということでもなく、舞は、自分が容易に幻に騙されて、結城少年を元の司だと思い込んでいたことにささやかな怒りと悲しみを抱かずにはいられなかった。シュートを決めた結城少年に誰も駆け寄ってこないのを――いや、たった一人、サッカー部のキャプテンの東野恭弥ひがしのきょうやだけが迷惑そうな少年の肩をばんばん叩いていたが――見てもわかる。あれは、舞の知っている司ではない……


 ふと、結城少年の目と舞の目とが行き合った。舞は宵闇のような彼の目に奥行がまるでないことに気づいた。以前の司の瞳は、凝視するのをためらわれるほどそこに深みがあった。見つめていれば、星々のきらめきや月の神秘を、夜半のしじまを、そしてその後に来る暁の輝きまで窺わせてくれるような、見つめている者をやわらかく包んで一つの宇宙にいざなってくれるような豊かな諧調があった。それは、司が目の前にしている者をどこまでも抱擁しようとする姿勢をそのままに映し出していたのだ。しかし、今向き合っている目は……少年は振り捨てるかのように舞の視線を払った。その目の中に、彼が誰に対しても潜在的に抱いているのであろう軽蔑と無関心さ以上のものはなにひとつ認められなかった。舞は窓枠に置いていた手を取り落とした。

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