2-3 「先生、転校生は?!」
次第にクラスメイトたちが集まってきて、舞に挨拶をしたが、舞はどことなく落ち着かない心地であった。転校生が来ることをまさか舞は約束した手前漏らさなかったけれども、耳ざとい女子たちはとうに聞いていて、しかもそれがかっこいい男子だったと言って大騒ぎをしていた。男子たちは呆れたような顔をする者もいれば、そんなことも無頓着にプロレスごっこかボクシングごっこに夢中になっている者もあり、女子たちほどには関心をそそられない様子だ。これがかわいい女子が転校してくるという段だったら、どんなにそわそわしてみせたことやら。舞はそっちの方がよっぽど面白かったのになと思った。
時計の針が進んでいく。教室はどんどん賑やかになっていく。舞はその賑やかさのなかに溶け込めない心の内に、次第に自分の不安の正体を探りだしたような気がしていた。司がいないのだ。優等生の司だから、遅刻なんて在り得ないのに始業五分前になっても、美佳が慌ただしく教室に駆け込んできてもなお、やって来ない。舞の席の右隣の列、一番後ろに設えられた(つまりは、背が高くて、先生が目を離していても信用できる生徒のみに許されている特等席である)司の席はがらんと空いている。まるで――そうだ、まるで、誰の席でもないみたいに。どうしたのだろう。具合でも悪いのかな。美佳に司のことでからかわれない一種の気味悪さのようなものに耐えかねて、舞はついに美佳に言ってしまった。こんなことを言えば、美佳がここぞとばかりに舞の恋心をはやしたてると知りながら。
「ねぇ、美佳、司はお休みなのかな?」
「
美佳は怪訝な顔で、クラスメイトの女子を指さした。
「違う、翼ちゃんじゃなくて……もういじめないでよ!」
「何言ってんの?一体誰のことよ?」
「だっ、だからっ……!つ、司だってば!結城司!!」
美佳の顔は当惑を示した後で、急に真面目になった。反対に真面目な顔から当惑を浮かべはじめたのは舞だった。二人の親友は――こんなこと二人の友情が始まって以来初めてなのだが――お互いのことが理解できない苦しさだけを突き合わせて、しばらく見つめ合っていた。チャイムが鳴っても尚、二人はしばらくそうしていた。
「……あんた、さっき転んだときに頭でも打ったんじゃないの?」
美佳はそう言って冗談に紛らわせてしまうと、早いところこの場を切り抜けたいとでも言うように席に着いてしまった。そんな冷たい態度をとられたことは今までなかったし、なによりも美佳が司を知らないふりをするということにショックを受けて、舞が愕然としていると、美佳は一度着いた席からもう一度舞のところに戻ってきて、舞の頭をぽんと軽く撫でた。そうして償いをしているつもりなのであろうが、肝心のところはまだなにも解決していない。だが、舞が協議を持ちかけようとしたところに、菅野先生が来てしまった。
「おはようございます、みなさん」
起立と礼の後で、菅野先生は禿げ頭を群青色のハンカチで拭きながら、明るく間延びした声で言った。
「今日もとっておきの小噺を覚えてきたのですがね……」
「先生、転校生は?!」
最前列に座っていた栗木という小柄で気の強い女子が先生を遮った。先生は楽しそうに笑った。
「おやおや、もう知っているのですか。さすがに女性の地獄耳にはかないませんな、なんていうと女性に失礼ですかね。まあ、よろしい。知っているものなら焦らさずに紹介しましょう。今日からみなさんのクラスメイトになる、結城君です……」
(ゆ、う、き?)
美佳がちらりとこちらに一瞥を寄越したのに、舞は気付かなかった。心臓が早鐘のように脈打ちはじめた。クラス中が息をひそめているなかで、扉が開き、一人の少年が開け放たれた扉からすっと現れて教卓へと歩きだす。青く透けて見えるほど艶やかな黒い髪、整った横顔、すらりと均整の取れた体つき、そして、宵闇のような薄紫の瞳――舞は声をあげそうになるのを必死で抑えた。だって、こんなの、自分を驚かせるための冗談に決まっている……
(司……!)
少年は菅野先生からやや距離を置いたところで立ち止まり、興味津々な目線を投げかけてくる新たなクラスメイトたちの方を向いた。期待に胸を膨らませていた女子たちはある意味は報われ、別の意味では裏切られた。確かに少年は稀な美貌を持っていた。彼が元々生まれ持ってきたものは、女子ならば魅了されずにはいられないような類のものだった。しかし、彼が生まれた後で身に着けてきたものが、彼の完璧すぎる美点を冴えわたらせるとともに台無しにしていた。その目つきの冷やかさに、思わず誰しもが凍りついた。微塵も物怖じしていない、目に映る誰しもを見下し切ったような態度にも。動じていないのは、菅野先生だけだった。
「では、結城君、お手数ですが自己紹介をどうぞ」
「……結城司です。よろしくお願いします」
硬く、尖った声だった。菅野先生が名前を黒板に記す間もないほど、簡潔な自己紹介だ。ぞんざいにならない程度に少年が頭を下げると、慄いた生徒たちのなかからぱらぱらと疎らな拍手があがった。
「結城君、せっかくですから、御出身なども……」
先生が黒板にチョークを置いたまま振り返って言った。
「……京都出身です」
「前の中学は?」
「嵯峨野第三中学です」
「この町は初めていらっしゃったのですか?」
と先生が尋ねると、少年は考えたのちに、
「生まれはこの町みたいですが……」
と、やや歯切れが悪い返事をした。しかし、名前を書き終えてしまった以上、菅野先生もそれ以上のことは聞き出せなかった。先ほどまでの活気が嘘のように白けきった教室の空気に気付いてか気付かずにか、先生はとびきり陽気な声で歌うように言った。
「では、みなさんとご同郷ということですね。みなさん、どうぞ親切にしてさしあげるように。それで、席は、あの一番後ろにご用意いたしました」
「……ありがとうございます」
少年が歩いてくる。舞の傍らを通り過ぎようとしている。舞は少年と目を合わせないよう咄嗟に俯き、両手の震えを必死で隠そうとして机の中に突っ込んだ。たまたま忘れていたのか、机の中に入っていたシャーペンに舞の震える指があたって、それがころころと床に転がって落ちて、少年の足元を遮った。舞は慌てて謝り、拾い上げようとしたが、少年は冷やかな、蔑むような目つきで舞を見遣ったのち、シャーペンを避けようともせずに上履きで踏みつけて、舞の横を通り過ぎていった。
(嘘……!)
舞はシャーペンを拾い上げることすら忘れて顔を覆った。
(これは嘘よ……!なにかの冗談か、さもなければまた夢に決まってる……!あんなのは、あんなのは、司じゃない……)
教室移動のためにクラスメイトたちが立ち上がりはじめても、舞はそのままでいた。一体いつ、誰かがこれは冗談だと宣言してくれるのかと待ち構えて。美佳が動かない舞を見かねて来てくれた。美佳はシャーペンを拾って、机に置かれている舞の肘と肘の間に置いた。
「舞、行こうよ……」
「冗談じゃないの……?」
「なにが?」
舞はゆっくりと掌の間から顔をあげた。押し付けられていたせいで額に張り付いている前髪からのぞいている舞の顔は、いつものかわいらしい赤らみはどこへやらすっかり青ざめ、瞳だけが異様なほどに輝いていて表情はない。美佳はぎょっとした。舞の変貌の理由がすっかり分からないせいもあって。
「ま、舞……?あ、あんたどうしちゃったの?!」
「私がどうかしちゃったの?それとも、みんなが……司が……」
司の名を聞いた途端、美佳が眼鏡の奥で目を細めた。
「舞、あんた転校生と知り合いなの?名前知ってたよね?あいつが自己紹介する前から」
「……知らない」
「でも……」
「知らない。あれは私の知ってる司じゃないもん……!」
「舞?」
(司はどこなの?どこにいったの?私の知ってる司はどこ……?!)
立ち上がった舞は、そのままふらふらと二三歩進んで崩れ落ちた。美佳の声に気付いて、のんびり行動する主義のクラスメイトたちや、たまたま廊下を歩いていた羽山先生が駆けつけてくれた。舞がなにも訴えないうちから、皆は、舞は保健室に行けねばならないものだと見なし、美佳と先生が保健室まで付き添ってくれた。舞はそこで、一人で落ち着いて考えられる時間を得られたのだった。
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