2-2 「いつもとなにかが違う」
無事に母親から日程表を受け取って、舞はいつもより少し早い時間に家を出た。少し風の強いけれど、よく晴れた春らしい気候の日であった。住宅街であるからこの辺りはいつも静かであるけど、住み慣れた者にはその表情のうちがよく分かる。すましこんでいる家々の中では、コーヒーを淹れたり、トーストを焼いたり、食器を片づけたり、階段を何度も駆け下りたり、嫌がる子供に服を着せようと奮闘したり、目覚まし時計の音に慌てて飛び起きたり――そんな日本のどんな町のどこの家でも行われるようなことが、やはり繰り広げられているのである。舞は後ろ手で門を閉ざしながら、そうした家々を眺めてみて、思わず微笑んだ。そうした日常はあまりにもごたついていて騒がしくて、抱きしめるのもためらわれるほどだけれど、やはり愛すべきものである。舞がこれから送る日常も、きっとその中で暮らしている分にはつまらないものであろうけれど、失い難いものであるのだ。司への恋にまつわる苦しみも……舞は元気に歩みだそうとした。
と、舞は一歩歩き出したところで足を止めた。一体なにが舞を立ち止まらせたのであろう。舞は思わず振り返ってみたが、そこには先ほど舞が愛おしみを新たにしたいつもの景色しかなかった。なにも変わってはいない。それなのに、なぜ……?
(違う……)
舞はひそかに呟いた。
(違う……なにかが違う……いつもとなにかが違う。でもなにが?)
舞の頬の横を、風が突き抜けていく。舞は髪の乱れぬよう、右耳にはさんで押さえる。
大通りに出た舞を、夥しい桜の花弁が迎えた。それを見ると、舞の心も自然に和んだ。現実に見るものの美しさが根拠の薄弱な不安に勝ったのである。舞はふと、今朝拾った鈴のことを思い出し、ポケットの手を入れて取り出してみた。本物の桜吹雪を背景に鈴を掲げながら振ってみると、やはり音はしないまま、内部に色が満ち満ちた。舞は小さく歓声をあげた。直後に段差につまずいて転んだのは、最早お約束としか言いようがない。ついでに、友の笑い声を浴びせかけられることも。
「美佳!!」
舞は笑い声を咎めながら、こんなことを夢でもやっていたな、正夢になったのかな、それともこんなこともう何度も繰り返しているのかな、などと考えていた。美佳は夢の通りに舞を助け起こしてくれた。
「いやあ、今のは傑作だったわ」
「もう!面白いからって見てないで話しかけてよ!」
「だって、一人で夢中になってるからさ。それ、なんなの?」
美佳は舞の手にぶらさがっている鈴を指さして尋ねる。
「今日、家の中で拾ったの。多分どこかで買ったかもらったお守りだと思う……親戚のおばちゃんにもらってそのままポッケに突っ込んでたのかも。きれいでしょ?」
「へぇ、確かにきれいねー、こんなん初めて見た。縁結びのお守りだったりして」
「そ、そんな訳ないでしょ!親戚のおばちゃんがくれるようなのだもん……!」
舞は美佳が司のことでなにかからかってくるものかと警戒した。だが、美佳は例の明るい笑声を立てただけで、舞を小突きもしなかったので、舞はやや拍子抜けがした。
「そりゃそっか。でも、大切にしときなよ、お守りなんだし。ところで舞さん、今日は早いんじゃない、どうしたの…………」
職員室に着いた舞は、いつもの机にてっきり先生がいるものと思っていたのが、生憎不在であった。極力動かないでいることがモットーであるような先生なのに、お手洗いにでも行ったのかしら。舞は不審に思いつつ待っていたが、なかなか先生は戻ってこない。見かねた隣のクラスの羽山先生が、舞にどうしたのかと尋ねてくれた。菅野先生から日直日誌を受け取りたいのだと答えると、美しく温厚な羽山先生は舞に同情してくれた。
「あら、そうだったの。ごめんね、もっと早く気づいてあげなくて。菅野先生は今日クラスに転校生が来るっていうんで、今その親御さんとお話し中なのよ」
「えっ、転校生ですか……?!」
そんなこと夢で聞いていない――舞は胸をわくわくさせながら自分自身に文句を言った。それと同時に、喜んでいる胸の鼓動がどこか不安を孕んでいるのに気がつかない訳にはいなかった。羽山先生はそうと頷いて、それからあっと言って、ぴかぴかに磨き上げた五本の爪で口元を覆った。
「そうだ、言っちゃいけないって言われてたんだ。先生から発表があるまで、秘密にしてね。多分朝のホームルームまでだから」
「はい、もちろん」
「そうそう、それで日直日誌ね。この机にあるの持っていきなさいな。私から菅野先生に言っておいてあげる」
「ありがとうございます!あっ、そうだ。申し訳ないんですけど、これを菅野先生に渡していただいてもいいですか?三者面談の日程表、すっかり出し忘れてて……」
羽山先生は必ず渡すと約束してくれた。舞は再び礼を言って職員室を離れた。
職員室前にあるクラスのロッカーから出席簿とプリントの束を引っ張り出して抱えると、教室に至るまでの道のりで舞は転校生について想像をめぐらせた。男子だろうか、それとも女子だろうか。舞のクラスの比率は女子の方が少し多いから、他のクラスとの兼ね合いも考えると、男子かもしれない。かっこいいといいけれど……舞はそこまで考えて、自分の浮気心を責めた。
(私には司がいるじゃない……!)
しかし、「私には」と言えるほど司の存在は確実なものだろうか。舞はそれを考えた途端、急に世の中の色が一度に灰色になってしまった気がした。胸のあたりが針でつつかれたように感じた。今朝はあんなにも自分の幸福を信じられたのに、乙女心はなんと移ろいやすいことか。秋の空と性質が違うだけに、その移ろいやすさは一層乙女の胸に堪えるのである。
(でも、どんなに辛くったって、司をなくすよりましなんだから……!)
舞は慌てておぞましい怪物の影を頭から振り払った。自分の戒めるためとはいえ、あの悪夢だけは思い出したくなかった。司の死など、一度見れば十分だ。あんなものを、いくら無意識下とはいえども想像できた自分が憎らしい。人間というのはなんと不吉なことを平気で考え付くのだろう……
教室には誰もいなかったので、舞はちょっとだけがっかりした。司と入れ違いになることを望んでいたのだが、なにもかも期待通りにはいかないだろう。事実、夢は今朝の美佳との邂逅こそ見せてくれたものの、転校生の来訪のことは知らせてくれなかったではないか。舞は拗ねた様子で、出席簿とプリントを教卓に叩き付け――それから大反省してもう一回そっと置きなおした。なんだか今は亡き祖母に怒られたような気がしたのだ。
「舞、幸せになってね。おばあちゃん、舞のこと見てるからね。舞が幸せになるのだけが、おばあちゃんの楽しみなのよ」
ふと思い出した祖母の最期の言葉は、連鎖的に舞の頭の中に次々と違う声の、しかし全く同じ意味の言葉を呼び起こした。今朝見た夢の美しい女性の声――今度こそ幸せになって――そして夢のなかの夢(なんと不思議な表現だろう)で聞いた、悲痛な女の声――幸せに、なって……どうしてこうも人々は舞の幸せを願ってくれるのだろう。舞は嬉しくも切なくも感じて、静かに首を振った。
「おばあちゃん、私は幸せよ……」
舞は声に出して呟く。
(幸せなの。幸せに浸りきってて、わからないだけで……ねぇ、おばあちゃん、幸せでいると、不安になるものなのかな?)
後の言葉は祖母だけに聞こえるよう、そっと胸の中で。
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