第二話 覚醒
2-1 夢とめざめ―巻き戻ったその日
「舞……舞…………」
いつしか目を瞑っていたらしい。薄目を開けたとき、舞の体を包んで揺蕩っているのは薄淡い桜色の霧であった。どこまでいっても見通せない。だが、そのために懐かしく愛おしい。舞はこのなかであればひどく安堵できた。
「舞……」
どこから聞こえてくるのであろう、この優しい女性の声は。鈴のように可憐な澄んだ声だ。聞き覚えのない声だが、舞はこの声の主になれば身をもたせかけられるような漠然とした信頼を知らず知らずのうちに抱いていた。
「誰?」
ゆったりとした優雅な袖や裾の動きで霧を払って現れたのは、一人の若い女性であった。亜麻色の豊かな髪が腰元まで波打ち、つややかな睫毛の下からやわらかく微笑みかける瞳は舞と同じ翡翠色。結い上げた髷に挿している銀の簪には藤の花房が揺れ、ややもするとさびしげな輪郭の傍らに彩を添えている。女性は藤色の
「舞……ようやく会えましたね」
「あなたは……?」
女性は舞の問いには答えずに、ただ悲しげに微笑んだだけだった。そして、舞が見つめるうちに微笑みは萎み、ただ悲しみと切なさとだけが砂地の上の波の跡のように残された。舞を慈しむ瞳が潤んでいた。
「舞、時間がありません。わたくしは貴女と長いこと一緒にはいられない。だから大切なことだけを……あぁ、舞、思い出して。貴女がなぜ生まれ変わってきたのかを」
「なぜ、生まれ……?」
「あれほどの悲劇の後で、今たった一つの奇跡が起きつつあるのです。貴女はこの奇跡を逃してはいけない。それがどんなにつらく悲しいものであろうとも……今の貴女にはそれを乗り越える力があるのですから。舞……いいえ、京姫よ。もう一度戦うのです。そして、今度こそ幸せになって――わたくしは、いつも貴女を見守って…………」
突然、女性の背後から光が差して優しい面差しを影が遮った。だが、舞はその頬に、温かな雨滴を受けたような気がした。
舞はそこで目を覚ました。携帯電話のアラームがけたたましく鳴り響き、東向きの窓から差し込む日差しがカーテンを透かして壁紙からクッションのようなこまごましたものまで薄いピンクに統一してある部屋を明るく照らし出している。枕元に置かれた古いテディベアのぬいぐるみ、窓辺に並べられたサボテンたち、勉強机に飾られている小学校の遠足の時の集合写真――見慣れた、見飽きるほど親しいものの数数が舞を取り囲んでいる。舞は自宅の寝室のベッドの上で、いつもと同じ朝を迎えたのであった。
「……夢?」
上体を起こした舞は、習慣のせいで反射的にもなっている俊敏な動きで携帯電話のアラームを止めた。そして、初めてそこでほうっと溜息を吐いた。なんだ、全て夢であったのか――もちろんそれに越したことはない。あんな生々しく、長い、そして恐ろしい夢を舞は見たことがなかった。そもそも舞はほとんど夢というものを見ないのだ。それにしても、この疲労感はなんだろう。なんだか全身が重たくだるいし、特に腕のあたりが痺れているような気がする。舞はぼんやりと携帯電話を眺めやって、その待ち受け画面に白黒の子猫が身を寄せ合っている後ろ姿のあることに気づくと、つい携帯電話をぎゅっと抱きしめた。それは、恋が叶うという噂のある待ち受け画面で、友達が教えてくれたものを舞は使っていたのである。もちろん、司との恋のために……ああ、よかった。司は死んでないんだ。全部夢なんだ……!舞は彼女らしからぬ疲労を、喜びが噛みしめていくうちからじわりと胸にひろがって、たちまち追いやってくれる気がした。
嬉しくて、舞はベッドをきちんと整えると(これも祖母仕込みだった)、丁寧に髪を梳り、セーラー服に袖を通して、軽やかな足取りで階下のリビングに向かおうとした。その時、階段の途中で、なにか小さなものがどこからともなく転がり落ちてきて、舞の足を留めさせた。舞が拾い上げてみると、それはピンク色の房のついた桜の花の形の鈴であったが、その鈴が水晶のように透き通っていて、振ってみると、音のない代わりにその中でごく小さな桜の花弁が無数に舞い上がって、その時初めて鈴は桜の色を持ち得るのであった。スノードームを振ると、色とりどりのラメが舞い上がるのによく似ていた。舞は思わず感嘆の声をあげた。
「おはよう、舞。五秒以内にそこをどかないと突き落とすわよ」
背後から降ってきた低い声に、舞は我に返った。恐る恐る振り返ってみると、姉のゆかりが、寝起きならではのすさまじい機嫌の悪さをもはやオーラにまで出してにおわせながら、貞子さながらの形相で妹を睨みつけている。長い前髪がまだ手入れしないままなので、ますます貞子によく似ている。
「お、おはよう、お姉ちゃん……」
「なにしてんのよ、こんな階段の真ん中で」
「えっ?あっ、あのさ、これ見つけたから。これ、お姉ちゃんの?」
舞はやや名残惜しい気がしながらも桜の鈴を姉へと手渡したが、ゆかりは怪訝そうな顔で鈴を自分の前でぶらさげて一振りしてみると、すぐに舞に突き返した。舞はその時、先ほど舞が振ったときのように鈴の内部で桜の花弁が舞い上がらなかったことにすぐ気がついた。
「違うわよ、あたし、お守りとか信じてないし。それは綺麗だけどさ。さっ、さっさとどいて。こちとら朝練なの」
「お、お疲れ様です……」
舞は鈴をポケットに仕舞い込み、とにかく姉に突き落とされないうちにと階段を駆け下りた。居間では父親がすでに席に着いていて、コーヒーを啜りつつも新聞を広げ、母親が鼻歌をうたいながらテーブルにトーストや目玉焼きや紅茶のポッドなどを甲斐甲斐しく並べていた。母はすぐに娘たちの登場に気がついた。
「あら、おはよう。ゆかり、すごい寝癖がついてるわよ」
「……後でなおす」
低い声で呻きながら、ゆかりは自分の椅子に就くと、自分のマグカップに冷たい牛乳を注ぎ込んだ。舞の方は母親に対してもう少し礼儀正しかった。舞は父と母におはようを言って紅茶を淹れると、ミルクで大分薄めてからそれを小さく一口飲んだ。
「舞、なんか疲れた顔してるわね」
自分も食卓について母親が言う。舞の母親という人はいつも明るい陽気な人で、二人の娘のうちの姉の方がこの母親と見た目はよく似ていたけれど、性格をよく受け継いだのは妹の方だった。見た目でいえば、舞は父親の血筋の方が濃い様子であったが、代々作家やら学者やら難しい職業の精神を継いできて、一族のなかでも久方ぶりに会社員の職業を選んだ父親には人が好い割にどこか気難しい頑固な部分があって、ゆかりの方が、そういう時の苦々しげな父親の表情を真似るのに長けていた。そのせいか、父とゆかりはひどく仲がよかった。
姉の方が中学の時から桜花市内にある私立水仙女学院に通わされていて、舞が公立中学に通わされているという事実があっても、舞はそれを父の贔屓だと思って僻むようなことはしなかった。姉は小学生の頃からとびぬけて優秀で、反面に舞はバレエや日本舞踊といったお稽古ごとに集中しすぎたせいか、座って勉強すること事態が苦痛であった。勉強のできない自分が私立受験をして、運よく水仙学園に入ったとして、楽しくやっていける自信はない。大体自分には姉のように全国模試で十位以内に入るというようなことは無理だ。同じ土俵に立てば、どうしても劣等感に苛まれることになる。そういう訳で、父親は舞の勉強の方はすっかり諦めて、別の方針で可愛がっていた。舞は自分でもたまに恐ろしいほど父親に甘やかされていると感じることがあった。
「……ゆかり、進路希望は出したのか?」
父親がコーヒーカップを持ち上げるついでに新聞の端から目を覗かせて尋ねた。
「一応ね。でも第五希望まで思いつかなかったから、適当にカタカナのめちゃく
ちゃ名前が長い大学書いておいた」
「ねぇ、お姉ちゃん、もしかして、私、その大学にも入れなかったりして……」
「あんたは大学より高校受験の方を心配しなさい」
姉はトーストを口の中いっぱいにしながら言った。その時、舞は夢の中の出来事を思い出した。菅野先生との会話――そうだ、三者面談の日程表!
「あっ、おっ、お母さん!あれ!忘れてた、あれ!!」
「落ち着きなさい、舞。制服を汚すわよ」
のんびりと目玉焼きの黄身をフォークでつぶしながら、悠長に母が言う。
「あれ!三者面談の日程表!」
「あら、そういえばそんなものが……でもね、悪いんだけどお母さん、ちょうどあの週がとっても忙しいのよね。ほら、ちょうど展覧会の時期でしょう?お母さん、お手伝いしなきゃいけないし」
「だったら別の日程立てるから、備考欄に書いといてって先生が言ってたよ」
「そう、じゃあ悪いけどお願いしようかしら……」
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