1-7 死、そして…


 どさっという鈍い、重たい音がして、椿の木に何かが落ちてきた。椿はその重みに抗って激しく花を散らしながら、枝をしならせ軋ませながら、そのなんだか全体的には白っぽいものを、手水舎めがけて振り落した。小さく水しぶきがあがり、水盆から水が溢れだした。まるで、つい先ほどまで停滞していた運命の残酷な力が、今この時、再びほとばしり出たかのように。


「あっ……」


 格子窓が、舞の顔に縦縞模様を作っている。大きく見開いた瞳にも細長い橋のような影が渡されている。司の手でやさしく閉ざされたときは桜色に色づいていた唇は、今は無残に、まるでこの廃屋の色にそそのかされたかのように色を失い、歪んでいた。舞は喘ぎ、後ずさった。壁にたてかけていた鞄が倒れた。舞は後ろに倒れるのが嫌さにほとんど無意識のうちに格子窓の方にもたれかかったが、そのためにそれまでならばどうにか見間違いだとして否定できた現実をはっきりと認めざるをえなくなってしまった。


「つ、つか……?」


 司は右腕を水盆の内に浸して、その苔の蒸した縁に頭をもたせかけていた。左腕は力なくぶらさがり、足は椿の花の溜まっているあたりに投げ出されている。開いた目が今はほとんどなにも映さずにこちらに向けられていたが、目線をもたげるほどの力もないのか、社務所までは行き着かないで、参道の乾いた土の上を見つめている。あふれ出る水盆の水が最初は花のために、それからやがては司の袖口から流れ出るもののために赤く染まっていくのを見て、舞は、司の腹の真下あたり、ちょうど司の体と石盆との影が重なっているところにも滴り落ちているものがあるのに気づいた。それは次第に花の色に紛れていったけれども……


「つ……つかさっ!!!!」


 司の背中が呼吸をしようとして微かに動いた。その瞳が舞を見た。弱り切った体にはふさわしからぬ激しい感情の輝きを宿していた。乾いた唇が舞の名を呼ぶ。途切れた言葉だけが舞の耳に届いた。それを聞いたときから、舞の眼差しは、なにかおぞましいグロテスクなものを眺めるものから、愛しい人の悲劇を悼むものへと立ち返った。舞は司の元に駆けつけようと、身を翻しかけた。


「や……めろ……!」


 司の言葉にというよりは、司が地面の上に転がり落ちた音に気付いて、舞は振り返った。司は土の上に倒れ込み、激しく咳き込みながらも驚くべき精神力で立ち上がろうとしていた。舞が見かねて再び向かおうとすると、司は渾身の力を振り絞ったかのように鋭い声で叫んだ。


「来るなッ!!」


 しかし、舞はもうじっとしていられなかった。忍耐の時は過ぎた。もう限界だ。立ち上がろうとしている司のワイシャツの腹の辺りが真っ赤に染まっているのを見た後では。舞は社務所を飛び出すと、もう無駄だと知りながらも舞を留めようとして必死にこちらに向かおうとしている司の元に駆け寄った。司はようやくのことで右膝を突き、震える右腕で地面を突き放そうとしていた。舞は再び倒れ込んだ司の体を抱きとめた。司の背中にまわされた舞の両手は濡れていた。


「司、しっかりして!動いちゃ駄目!!」

「逃げろ、はやく……!」

「一体どうしたっていうのよ?!……司、いやっ!ねぇ、お願い、駄目よ!司!!司ぁっ!!!!」


 興奮し、怯えきって、舞は司の名を呼び続けた。司がわずかに残ったその力を消耗してまで舞に伝えたい言葉を――あるいはそれを言いたいがために奇跡的なまでの精神力を保ち得ている言葉を――掻き消すほどに、舞は司の名を叫び、そして泣き、司の体をきつく抱いた。なにが起こったのかわからないために、舞はいよいよ理性を失ってしまった。今目の前で起きている出来事がわからない。わからないけれど、とにかく認めたくない。司が死んでしまう……!そんなことは嫌だ。絶対に嫌だ。そんなこと起こる訳がない。この平和な、退屈なほどに平凡なこの町の日常で。今まであんなに満ち足りていたのだ。絶えず水面をゆすぶられてはいたけれど、舞の中には愛すべき生活の精神のようなものがあった。どうしてここで全てあふれだして、涸れはててしまうのだろう。


(ありえない……こんなことありえない……)


 舞は司の頬に頬を寄せて、司の体をますます強く抱きしめた。


(死なないで、司……こんなことは夢よ!)


「舞……」


 どさりという音がした。なんだか聞き覚えのある――舞は途端に心と体とを包んでいた狂気の熱が冷水を浴びせかけられたかのように突如さめゆくのを感じた。それは舞の背後にいた。二人を追い、司を襲い、かくも傷つけたそれは。司が低く呻いた。


「舞……」


 司が再び呟いて、舞の頬に手を当てた。乱れた、か細い呼吸をしながら、そんな些細な行為さえも辛そうに舞を見上げる司の顔に、物狂おしい夕日が宵闇に遠く押しやられるときの空の色にも似た、絶望と諦めとそして舞への愛情とが入り混じった表情を、舞は見た。


「逃げろって……言ったのに……」

「……司を置いて逃げられなかったの…………」


 舞の声はたちまち司の言葉からそっくり受け継いで哀調を帯びた。その眼差しも。舞は司の言葉に、全ての終わりを悟ったのだ。司は死ぬ。舞も死ぬのだ。悩み笑い揺蕩い続けてきた短い人生が終わる……


 司は舞の後頭部に左手を伸ばして、自分の肩へと押し付けた。きっと、舞が振り返らないように。舞はこれまでとは違う性質の涙をこぼしながら、死の恐怖をこらえるべく必死に歯を食いしばった。体が震えた。逃げ出せることなら逃げ出したい。でも司が一緒でなければ無理だ。一人で逃げるなんてありえない。でも、司は起き上がることすらできない。司の命はすでに尽きかけている。素人目に見たって、司の傷が深すぎることぐらいはわかる。だから、舞もまたここで死ぬのだ。


(こわい……司が一緒なのに。まだ死にたくない。まだやってないことが沢山あるのに……お父さんやお母さん……お姉ちゃん……美佳……みんなにもう二度と会えないっていうの?つい一時間前まで、なんともなかったじゃない……いや、死にたくない……!)


 すさまじい力で地面に投げ倒され、叩き付けられたのはきっと「それ」の仕業なのだろうと、舞は思った。舞は額を土の上に打ち付けた。世界が旋回した。視界が白と黒に激しく移り変わり、頭ががんがんと疼いた。


「逃げろッ!!!!」


 視界も定まらぬなかで聞いた司の声はかすれ、それ故に鬼気迫るものがあった。その時、舞はようやく自分を投げ飛ばしたのが他ならぬ司であったことを知った。舞は二人が抱き合っていたところから拝殿の方へと数メートルほど近づいたところに、自分の姿を見出した。そして、元いた場所では、司がおぞましい怪物と対峙していた。おぞましい怪物――全くそうとしか説明のしようがない。


 「それ」は、濃い灰色の被毛に覆われた生き物で、全体的には狼によく似ている。ただ、狼を含む自然界の生き物たちがまだしも持ち合わせている愛らしさや頼もしさのようなものは皆無であり、自然界の倫理を大きく外れすぎた悪意の化身に他ならない。大きく裂けた両耳のすぐ下から羊のように渦を巻いた黒い角が猛々しくも宙に突き出ていて、小さな凶悪そうな目は赤く燃え、口元には鋭い牙が剥き出しになっていた。


 舞は声を失い、その場に竦みあがってしまった。かくも恐ろしい怪物に対して司が持ち得る武器といえば、先ほど舞を突き飛ばしたすきに咄嗟に拾ったらしい朽ちかけた柄杓ひとつであった。舞の目には、その柄杓が司自身の姿のように見えた。傷つき、命尽きかけ、それでも怪物に立ち向かわなければならない、司の姿に。


「……駄目っ!!!!」


 舞が立ち上がったとき、すでに全ては遅かった。司の体は怪物の角に突かれて撥ね飛ばされ、大きく宙を飛んで、手水舎の裏に落ちた。しかし、司もただで転んだ訳ではなかった。柄杓の柄が朽ちかかっているためにその尖端が錐のようにとがっていたのを、司は怪物の目に突き刺したのだ。怪物は恐ろしいうなり声をあげながらもだえ苦しみ、土の上を転がった。だが、たとえ怪物が舞に向かっていようとも、舞はたまらず司の元に駆け寄っただろう。


 司は椨の木陰に静かに横たわっていた。静かに――そう、もう何の音もなく――舞はそれを認めるまで、司の名前を呼び、体を揺すぶり、胸に耳をあて、水盆の水を手で掬ってその頬にかけ……甲斐のない努力を、すなわち司の生を確かめようとする努力を続けた。しかし、制服が血と水に濡れて重たくなるころに、ようやく自分の行為に果てのないほどの意味のなさを見出した。それは永久に意味のない行為であった。司は死んだ。舞を救おうとして。否、司は舞を救った。怪物はまだ舞に向かってはこない。逃げようと思えば舞は逃げられたのだ。


「……司を置いて逃げられなかったの…………」


 舞は同じ言葉を繰り返し、司の隣に膝を落とした。舞は司の頬に手をあててその顔の上に屈みこんだ。土と血に汚れた顔を、舞は必死に水で洗い流したのだ。それでも司は目を覚まさなかった。目を閉ざした司の顔は疲れ果てて眠っているかのようだ。世にも信じがたい悪意との邂逅のために、命を落としたとはとても思えない。


(ああ、司……死んでしまったんだ……)


 涙も出なかった。世の中が突如として沈黙と空白とに立ち返った気がした。耳を塞ぎたいほどの沈黙と、目を瞑りたくなるような空白とに。多分この世というものは、舞と司の間を隔てているわずかな空間に凝縮されてしまったのだ――だって、それ以外のものがあったとして、なんだというの?


 舞は司の手をとった。重ね合わせた掌は確かに温度を作ったけれど、それは舞は確かめたいと思っていたものとは異なりすぎていた。幼い日の思い出がもはや生の残骸としか思われないほど、虚しくちらばってしまったのと同じように、その温もりももはやなんの意味も持たなかったのだ。舞は、この手のために生きてきたというのに。この手が冷めないように、ただそれだけのために、二人の関係が変質することさえも恐れていた。それなのに、こんなにも無遠慮に手を重ね合わせられる、今となっては……


 うなり声が舞を振り向かせた。痛みからようやく立ち直ったらしい怪物は、右目に柄杓の柄の残骸を突き刺したまま、血をしたたらせ、凄まじい憎悪で舞を睨みつけていた。怪物が身を屈めた。恐らく、舞に飛びかからんとするがために。しかし、舞はもう逃げようという気力さえ起らなかった。


(死ぬのはいや。それは変わらない……でも生きようと思えない……司を失ってしまっては…………)


 舞の脳裏にひとつの言葉が響く。うたた寝の中で聞いた言葉。あの夢を見たのは、今日の昼間だった。なのに、遠い昔のことのように感じられる。そうだわ、だって、あの夢の中の出来事は遠い遠い出来事だったんだもの。


「幸せに、なって…………」


 舞は大きく目を見開いた。涙が一つ頬を伝った。


「私……!」


 その時、手の甲に零れ落ちた涙の雫が俄かに光り始めた。懐かしく、愛おしい色。司との思い出が詰まったこの町の象徴である桜の花の色に。そうして、全てが桜色の光に包まれた。

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