1-6 「司、はやく帰ってきて」
しかし、そう長いこと暢気に夢見ていられるほど、舞はロマンチストでもなければ愚かでもなかった。確かに乙女のロマンと俗に称されているものはやはり舞の中にもあって、ややもすれば命が危険にさらされていることにさえもときめきを感じかねないほどのロマンティシズムに、舞は十三歳の少女らしく浸っていたのである。しかし、五分と経たないうちに、幸福も陶酔もたちまち消え失せた。現状を省みようとする冷静な理智と不安とが再び萌してきた。あれからなにかが変わった様子はない。司はどうしてこんな人気のない場所に舞を一人で置いていくような真似をしたのだろう。どんな危険が後ろから迫っていたとして、少女一人を廃神社に放置する方が――それも目も耳も使わないようにさせて――よっぽど危ないと思うのだけれど。大体司はなにから逃れ、なにに立ち向かっているのか。どうしてなにひとつ舞に教えようとしないのだろうか。
舞の手は剥がれ落ちた。なにも聞こえない。恐ろしいほど静かだ。いや、鳥の声がしているかもしれない。木々の枝先を風が撫でているかもしれない……舞はこの神社に伝わる噂話をにわかに思い出した。廃神社にはよくないものが寄り集まるという。この場所だって例外ではないのだ。もちろん、こんな昼間にとは思うけど。
(このまま司が戻ってこなかったらどうしよう……)
舞は目を閉ざし続けることで、恐怖と戦おうとしていた。目を開けてしまえば、司が指先で残していった庇護のしるしのようなものがなんだか解けて消えてしまいそうな気がしたのだ。
(このまま夕方になったら?暗い中一人で待つことになったら?そんなこと耐えきれない!なにより司は大丈夫なの?危ないようなことをしていないよね……せめて司が事情を説明してくれれば、私にだってどうやって行動すればいいのか考えられたはず。それとも私はばかだから無理だっていうの?司、はやく帰ってきて。こんな風に考え続けなければならないなんていや。お願いだから、はやく帰ってきてよ。まさか、司、死んじゃったりしないよね……?)
舞はとうとう耐え切れずに薄目を開けた。それから、思い切って全部の目を開けてみた。先ほどとなにも変わらない、白けた廃神社の社務所の内部。よくよく見ていると、天井の隅にはクモがたくさん巣を張っている。それが風にかすかに揺られている。クモの巣というものが、理想通りに完全な形で柱や桟や天井に渡されているのをみると、あの冷やかな糸で拵えられた平面はそこだけ空間を切り取ろうとしている刃のように見える。羽虫や蝶の世界はたしかにそこで切り取られている。
舞は空いた手で膝を抱えた。目を瞑っているより目を開いている方がましだということがわかった。なにもわからないのは耐えられない。たとえ社務所の中だけであったとしても、見えている方がいい。しかし、何かが起こっているという気配がまるでないのはなぜだろう。司はどこに行ったんだろう?舞をからかっている訳ではなさそうなのに。
(からかわれててもいい。その方がずっといい!私を笑いたいんなら好きなだけ笑ってほしい。こんな風に司の言いつけを守っておびえている私を今この瞬間は笑っててもいいから、この次の瞬間にはでてきて!みんなで顔を出してよ!司、美佳……他の友達が一緒でもかまわない。ほら、今!ほら、今!……さあ、次の瞬間には、みんな笑いながら出てくるはず)
しかし、楽しげな笑い声はついに起こり得なかった。舞は床に直に座っているせいでお尻のあたりが痛くなりはじめたのを覚えた。正座には慣れているけれど、段々と足も痺れはじめてきた。つまりは、もう全てがほとんど限界を指し示していたのである。
舞はなにも考えずに膝をたててみて、瞳の端になにか閃いたのに気づいてから司の警告を思い出した。舞は慌てて身を屈めたが、外から舞をうかがっているものはなにもないようであった。それに、何も分からないままでいるのは嫌だ。司を探しにいこう。もし民家があれば、そこで事情を話して助けてもらおう。電話も借りられるから、家にも連絡がつく。よく考えれば始めからそうすればよかったのに、なんで司はそうしなかったのだろうか……
舞は完全に慎重さを捨てきれないままでいながらも、少しずつ格子窓から頭をのぞかせていくようにして外の景色を窺った。砂利のない、剥き出しの土の参道。舞が見て左手の奥にもうほとんど壊れかかっているはずの拝殿、右手側に鳥居と石段。ちょうど参道の奥に手水舎が見える。屋根は朽ちていて木製の骨組みだけが残っているがそれさえもすでに傾きかけ、竹の柄杓だったと思しきものがたった一つだけ、転がっている。石の水盆は黒ずんでいて半ば苔が生え、元々あった水なのかそれとも雨水が溜まったのか、水面が揺れて日差しが描く模様を遊ばせているのが見える。先ほど閃いて見えたのはこれだったのだ。その水面に、すぐ隣に植えてある椿の花弁が零れていて、その色がなんともない水を匂い立たせるかのように舞の目には見えた。舞は椿の花に目を移した。真紅の椿の彩だけが、この陰鬱な緑に噎せかえりそうな神社のなかでたった一つ、舞の目を楽しませるものであった。舞は咢ごと落ちてその根本に輪を描いて散り積もっている花の死骸から生きた花へ、艶やかな緑の合間に点在する花の色を追って、目線を椿の木の上へ上へと伸ばしていった。
椿の木は朽ちかかった手水舎の屋根の柱とほとんど同じ背丈であった。ふと、舞は椿の木に手を差し伸べかけているような隣の椨の枝へと目をやって、そこにも紅の影が揺れていたので驚いた。椨の枝に椿が咲いているだなんて。舞の耳が水滴の固い葉の面に弾ける静かな音に目覚めるとともに、舞はその紅が上枝から滴り落ちてきて供給されるものだということに気付き始めた。
突如、あの悪寒が戻ってきた。
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