1-5 「いい子で待ってろよ」
司は追ってきているものを撒こうとするためか、曲がり角や裏道を見つけ次第そちらの方へ飛び込んでいく。気付けば舞たちは大通りを遠く離れて住宅街を外れつつあった。花が消え、人の気配は失せた。車の音も小さくなっていった。両脇をブロック塀に挟まれた細くて舗装されていない、陰気な民家の裏にある道を抜けると、舞たちは突如として、急カーブのある比較的大きな道路にぶつかった。司は一度そこで立ち止まった。舞は膝に片手をついて息を整えた。カーブに沿って弧線を描いているガードレールの下は急斜面になっていて、一面畑と野原とがひろがっているのが見える。広野の中央を鉄色の川面が仕切り、その上に渡された白い鉄橋を見覚えのない色をした電車が音もなく通り過ぎて行った。電車は広野の終わりに群がっている小さな山々の向こうからきたらしい。のどかそうな景色に見えるが、しかし、この町にもこんなうら寂しい景色があるのかと舞が意外に思ったほど、ひろがる見知らぬ土地は殺伐としていた。曝け出された畑の土の色は乾き、白々しくくすんだ空の色と遠いところで手を結んでいた。舞は吐き出される自分の吐息の音すら他人のそれに聞こえるほど、自分を囲む風景に対して疎外感を覚え始めた。舞にとって懐かしく親しいものはただ司だけだ。手首をつかんでいる司の手がゆるんだことをよいことに、舞は司の掌に掌で以って返した。そこに生まれた温度は舞を安堵させた。
「大丈夫か?」
「う、うん……でも……」
不意に、二人は薄い日の光を一点に集めていかにも不機嫌そうに反射しているカーブミラーの隣に、朽ちかかった看板のあるのを見つけた――
司が振り返るのを見て、舞は我に返った。追ってくるものは、どうやら舞たちを見失ったらしかったが、司はまだすっかり安堵していないようだった。
「ねぇ」
舞はたまらず言った。
「ねぇ、一体どうしたっていうの?なにから逃げてるの、私たち……」
「知らない方がいい」
司は舞の顔を見ようともせず、目の前の階段を見て思案しているようだった。
「言っても信じないだろうし、見ないと信じられないならいっそ見ない方がいい」
「どういうことなの?私たち……危ないの?」
司はようよう顔をあげて舞を見たが、その目にはまるで初めて舞の存在に気付いたような訝しげな面持ちがあった。これからどうすべきか思案するその表情がそのまま残っていたせいかもしれない。けれど……舞は急に不安になった。なんだか司が別の人間に変わってしまったような気がして。舞のなかでは、恐怖よりも困惑が先に立った。一体なにが起こっているのか。どうして司はこうも自分に追ってくるものを見せまいとするのか。司はどうしようというのか――どんな世界の変質が起きて、舞をこんな見知らぬ土地にまで押しやったのか――馴染みあるのはつないだままにしている掌の温度だけだ。幼い日に道に迷った舞の手を引いてくれたあの日から、たった一つ変わらないもの……
「とりあえず、ここを降りるぞ」
司はまるで人に聞かれることを憚るように静かに言葉を区切りながら言って、手を離すと、舞の左肘のあたりをそっと押して先に進むよう促した。舞は従うしかなかった。どんなに普段と違っているとはいえ、司は司なのだから。舞は崩れかけている石段から足を踏み外さないように慎重に、けれども足早に降りていった。途中であやうく足が滑りかけたときなどは、司が思わず声をあげそうになる口元を片手で抑え、もう片方の手で舞を支えてくれた。濡れたような照葉樹の葉は斜面をくだるごとにその照り返しのなかにすら陰気な色を募らせた。舞は時々、はためくセーラー服の隙間から風に撫でられたというのでもなしに、背中に悪寒を覚えたが、次第に目に見えて焦りを浮かべてくる司の、いつもならば震えてしまうほど間近にある体から発せられる熱気が、そんな寒気を断ち、薙いだ。まるで舞が振り返ることを制止しているかのようでもあった。木漏れ日が二人の頬に落とす模様はめまぐるしく変化していた。息をはずませながら懸命に足を動かす舞は、延々と続いていく石段と森の景色のなかにもはやなにものをも見出せなくなっていった。
黒く塗られた古い鳥居が立ちはだかって、ようやく階段は終わった。舞は一息つこうとしたが、司はそれを許さなかった。舞を後ろから抱えるようにして走り出すと、鳥居をくぐってすぐ左脇、参道をはさんで
司は舞を社務所の中に引きいれた。薄暗い社務所の隅に、舞はしゃがんでいるように言われた。中はがらんどうで、床板が剥がれかかっているうえに埃を被って白くなっているのが、格子窓から差し入る日の光に照らされて見えた。多少じめついて、古びたにおいがしたけれども、長い間放置されていた割には清潔な部類だろう。少なくともこの緊急時にあたって制服のスカートで腰をおろすのを躊躇うほどではなかった。舞は格子窓の真下、参道を臨む方の隅に座らされたが、司が自身は腰をおろさないでどこかへ行こうとする素振りを見せると、慌ててその袖に取りすがった。
「待って!どこいくの、司?!」
司はしっと指を口にあてた。司は腰をかがめて外から格子窓越しに姿が見えないように注意していたが、直後に素早く顔をあげて外を確かめ、また身を縮めた。
「舞、静かにしてろ。絶対大丈夫だから」
「大丈夫ってなにが?……どうしろっていうの?!教えてよ、ほんとに、なにが起きてるの?司はどうするの?置いていかないで……!」
「舞……」
司は舞の両肩に手をかけた。舞の翡翠色の瞳がその色をぼやかしながらも司の瞳にぶつかった。司の顔は変わらず蒼白で、その意識は今明らかに舞の上から離れていた。それでも、今この一瞬、舞が唇を噛みしめたその一瞬、司の目の中に確かに舞が映り込んだ。そしてその輪郭には、切ないほどの強くこまやかな愛情が隠し切れないほどに明瞭に滲み出ていた。もしこんな状況下でなければ、舞は確かにそこに、ここ数年来の悩みに対するひとつの終着点を確かめ得たはずだった。喜ぶことも悲しむこともできない舞は、司の指が痙攣したように震えるのをセーラー服越しに感じて、そっと持ち上げた手を司の二の腕にあてるだけだった。
「司……」
「……絶対に外を見るな。このまま座ってるんだ。たとえなにが聞こえても、動くんじゃない。物音もたてるな……なにが起きてるかわからなくて怖いだろうけど、終わったら全部説明するし、舞が心配するようなことはなにもない……いいな?」
「でも……!」
司は舞の額の上からそっと自分の掌をかぶせて瞼をやさしく閉じさせた。司の手はそのまま滑って舞の雛人形のような精緻で小さな鼻先をこすり、薄い唇に触れた。舞の顔から手が離れる最後の時、司の人差し指はなごり惜しげに舞の下唇の上で逡巡していた。舞がうっすらと唇を開くと、ようよう離れかけた指先にあたたかな力が添えられてきて、下唇を押し上げた。舞はその感触はきっと唇と唇で触れ合うよりも甘美だろうと思った。
「耳を塞いでろ。そう、それでいい。じゃあ、いい子で待ってろよ」
私、子供じゃないったら――もし、あの清らかな接吻の感触に舞がこれほど感動し、それをこれほどまでに愛おしんでいなければ、そんな言葉もついこぼれたかもしれない。舞は恐怖と不安と困惑の頂点に見つけた愛が、春のように舞に慈雨を注ぎ込みはじめたの見て(あるいは聞いて)、埃っぽい廃神社の社務所には全く似つかわしからぬ幸福に酔いしれていた。そうすることができたのだ、司のおかげで――司が扉をそっと開き、そっと社務所を出ていくのを薄く白い掌を透かして聞こえる音と気配とで感じたときも、舞は手に入れた幸福を疑おうとはしなかった。司を信じよう。司を待とう。司の言う通り、なにも危ないことなんてない――これらのことを信じて待つことはどんなに楽しいことか。二人の関係の変化を嘆き、拒もうとした十数分前までの舞はどこにいったのか。どこかへいってしまって、本当によかった!舞は司の言いつけどおりに耳を塞ぎ、目を閉ざして座り込みながら、もう身の危険などということをほとんど案じもせずに、桜色の未来を描き続けた。私は幸福になれるんだ……!司が戻ってきさえすれば……
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