1-4 「逃げるぞ!後ろは見るな!!」

 部活の練習のある美佳と別れ、舞が帰宅の道を歩み始めたのは午後三時ごろのことだった。今日は日本舞踊のお稽古もない。その代わり、宿題と取っ組み合わなければならないけれど。春の午後は少し曇り始めて風が強い。でも五月の体育祭の時期にでもなれば、もう暑くてかなわないほどになるだろう。それまであと一月だ。


 大通りから外れたちょっとした小さな通りにも、歩道に沿ってツツジの垣根が巡らされ、ピンクや白の蕾をちらつかせていた。街路樹のハナミズキはたおやかな痩身にローブをまとい、木蓮の花は頬の上に春の恵みを受けて嬉しさに顔を綻ばせている。人並み以上に気が利くつもりで結局人並みな人々が庭先に飾り付けているパンジーやペチュニアの鉢植えのけばけばしい色より、舞はこういう優しい色に心惹かれる。こんな些細な彩りが普段は舞の心をときめかせもするのに、この日の午後に限っては夢の涙が後を引いてなんとなく心が弾まない。それに、美佳の言葉も引っかかる。なぜ美香は今更あんな風に煽り立ててくるのだろう。


 もし司が他の女の子にとられてしまったら……付き合ってもいない以上とられたもなにもないのだけど――それはあまりにも耐え難い。向けられる微笑みがもしかしたら唯一無二のものかもしれないと密かに期待するからこそ、舞は司を直視できるというのに。


(ずっと一緒にいたんだもの。他の誰よりも)


 舞はなんとなく不当な扱いを受けているような憤りと、それが道理にあわないことを知っている小さな理智とのはざまで苦しみながら、胸中呟いた。


(誰よりも司のことを分かってる気がするのに、でもそのくせ司の好きな人すら知らないんじゃない。でも、他に司のことで知らないことがどれぐらいあるっていうの?なんでたったひとつ、わからないことが、それだけが、どうしてこんなにも重要なんだろう。生まれたときからずっと一緒に育ってきて、お互いのことがすっごく大切な存在だってことはよくわかってる。でも、それだけじゃ足りない。私の欲しい椅子はもっと大きいんだ)


 溜息が思わず零れる。


(でも、そんな椅子に座ってなにになるの?誰かに譲らなくちゃいけない日だってくるかもしれないのに。一度そこを離れたら、司との大切な絆も消えちゃうかもしれない。どっちがいいんだろう?このままでいれば、少なくとも今の絆はなくならないで済むけど……でも……)


 ふと、桜の花びらが舞の頬に触れた。大通りから風にさらわれて、こんな些細な小道に迷い込んだと見える。舞は頬から薄桃色の花弁を指でそっと剥がして、掌の内に置いて見つめた。と、舞の目は一瞬、それを紅の鳥の羽根と見紛えた。美しい金の模様を散らした巨大な鳥の羽根だった。舞はこんな大きな、絢爛な羽根をした鳥を今までに見たことない。舞の胸に鋭い痛みが走った。


「幸せに、なって…………」


 舞は夢の中の声を思い出す。あれは女の声だった。知らないはずなのに、どこか懐かしく、そして舞に深い悲しみを呼び起こす。一体誰なのだろう。どうして幸せになってなどと……舞は十分幸せだ。確かに悩みはあるけれど、毎日が平和で家族に恵まれ、友人もたくさんいるし、司が傍にいる。どうして、あの声は息苦しいほどに懐かしく、愛おしいのだろう。あんな声の持ち主を舞は知らないというのに。それに、今、花を鳥の羽根と見間違えて、どうしてあの夢の声など思い出したのだろう。

 その時、再び意地悪な風が花弁を連れ去っていってしまった。舞は慌てて手を伸ばしたが、花弁のほのかな桃色は薄曇りの空の白さにたちまち紛れてしまった。「あっ」と力のない声が漏れた。と、背後でその声を打ち消すような明るい笑声がする。


「何してるんだよ」


 不思議な、そして曖昧な喪失感に打ちひしがれていた舞は、自分でも知らず知らずのうちに、愛しい声に振り返る仕草にもどことなく気だるげにも見えるもの悲しさを漂わせていた。司は幼馴染の見知らぬ表情に思わずはっとした様子だった。こういう時の舞からは、いつもの可愛らしい天真爛漫な輝きは消え失せて、代わりに高貴な触れがたい印象が漂っていた。


「舞……?」


 恐らく舞の正体を見極めようとして司が瞬きをした途端、見知らぬ舞はいなくなった。代わりに、ほのかに顔を赤らめて、恥ずかしさに慌てている年相応の少女の姿があった。どうやらいつもの舞である。


「つ、司……!後ろにいたなら声かけてくれたっていいじゃない!」

「いや、一人で面白そうなことやってるから、邪魔しちゃ悪いかなって」

「なによー、面白そうなことって!人が真剣に……」


 舞は口をつぐんだ。真剣に、なんだというのだ?確かに夢からそのまま引きずってきた舞の感情は真摯なものであったけれども。司は少し眉をひそめたが、微笑んだままで肩をすくめると、先を促そうともせずに舞の隣に並んだ。彼にとっては当たり前にも見えるそんな動作が、どんなに幼馴染を喜ばせ、苦しませるかを知らないまま。


 しばらくの間、二人は黙っていた。その沈黙が、居心地がよいのか悪いのか、舞には判然としなかった。多分、居心地がよい訳ではなかっただろう。沈黙を、二人にとっては全く似つかわしくない沈黙を守り続けることは、二人の関係のあきらかな変質を示唆していたから。しかし、かといってこれまでのように他愛のないお喋りでこの瞬間をやり過ごしたとして、もはや舞はすなおな気持ちで幸福を感じることはできなくなっている。司との間に交わされるどんな言葉も笑いも、舞がそれを真に求めていないという理由だけで、たちまち偽りになってしまう。どんなに楽しげな微笑みで縁どっても、結局は中になにも詰め込めていないから、振り返ってよく見てみれば後悔の溜息を吹き込む空間ばかりで膨らんでいる。舞は変化を求め、同時に変化を恐れている。先に幸福が保証されていない限り、自分の手ではなにも変えていたくはない。だが、変わらないでいる苦しみも、司を完全に喪失する痛みよりはまだましだというだけである。


 舞は段々泣きたくすらなってきた。大好きな司と二人きりで歩いているというのに幸福になることができない自分がひどく憎らしく感じられた。


「久しぶりだな、一緒に帰るの」


 話題に窮したように司が言うと、舞はほっとすると同時に沈黙を守ってくれていたほうがまだ二人の間に奥行があったような気がして、司を恨めしくも思った。


「だって、司、いつも部活じゃない」

「まあな」

「また、来月には大会でしょ?」

「あぁ」

「そしたら、また忙しくなるね……」


 舞はなるべくそっけなく言い放つように心がけた。だって、司が忙しくなったとして、舞にはなんの関係もないはずなのだ。多分、司のなかでは。しかし、聞き流されると思っていた台詞に、司は思いがけず顔をあげた。舞が慌てて目を逸らしていなければ、なにか問いかけようとする司の口元が見えたことだろう。だが、そのときの舞はもはやなにものも見つめていなかったし、幼馴染の優しい瞳によって勇気づけられさえすれば形を得たかもしれない司の問いかけも言葉になることはなかった。二人はまた沈黙の溝に足をとられかけた。


「こ、今度の大会は応援いけるといいな!」


 すかさず放った言葉の意味を舞自身あまり理解していなかった。舞はもう不自然な――それは今までの二人の仲を思えばあまりにも不自然だった――気まずさに陥りたくないゆえに、咄嗟に溝の上に差し出せる板切れをそれがどんなものなのかも吟味せずに突き出したのだ。司には嬉しそうに笑うだけの裁量はあったが、舞がそう言っておいて今更慌てているのにはあきらかに当惑の色を示した。


「そうだな、たまには来てみるといいかもな……」

「この間は、行けなかったもんね」


 ちょうど去年の秋の大会の日に、舞は日本舞踊の発表会があったのだ。ずしりと重い鬘と体を締め付ける衣装にのしかかられて吐き気さえも覚えながらも、舞は一人舞台を浴びて、暗闇のなかで時たま沼底の魚の尾びれのようにきらめく人々の無数の目を相手に戦っていた。同じころ、司も必死に戦っていることを信じて。


(あの時の方がずっと司が身近にいるように感じたのに……あんなに離れていたのに。今はこんな近くにいても司のことが分からない)


 ふと、二人の指先が触れた。二人ははっと手を引っ込めた――そこで触れ合ったのはなんであっただろう、爪でもなく皮膚でもなく――できることならば、舞は立ち止まりたかった。こんなにはっきりと自分の心を探り当てたというのに、触れ合った指先の甘い痺れのうちに意味も見出さないでいることはもはや不可能だった。世の人はまちがっている、と舞はまだやわらかな心に食い込む痛みに打ち震えて思った。恋なんていうものは、少しもよいものではない。こんなにも苦しくて、こんなにも悲しくて……


「なあ、舞……」


 舞は恐ろしくて顔があげられなかった。切り出した司の声は変わらぬ色調を帯びているように見えて、舞のようにごく親しい者にしか聞き取れぬであろう確かなざらつきを含んでいた。


「俺、前からさ……」


 「やめて!」咄嗟に叫んだつもりだった。舞は大きく目を見開いている自分の姿に、もっとも喜ばしい結果でさえ拒むつもりであった己の臆病さを認めてしばし呆然とした。私は幸せになることすら、怖いのだろうか。冷えゆくばかりのぬるま湯に浸かっている方が、寒いかも暑いかもわからない外に飛び出すよりはよほどましだと言うのだろうか……舞は司の驚いたような顔から、きっと自分は司の言葉を――もしかしたら気まぐれな、他愛もない話題だったかもしれないものを――遮ってしまったのだろうと思った。だが、それは間違いであった。


「舞……」


 舞の名前を呼びながら、司の目は明らかに舞の肩越しにあるなにかを見つめていた。司の顔がみるみるうちに蒼白になっていく。からかってるのかしら。なんの悪戯なの?――そこまでひそかに言い切る前に、舞はたちまち背筋におぞましいほどの寒気を覚えた。司が舞の肩越しに見つめているものは、そして舞が背中に感じているものは、あのうたた寝の夢に見た暗闇のなかの悪意にも劣らない。振り返ろうとしたところを、司が舞の手首を掴んで留めた。司はそのまま走り始めた。


「つ、司……?!」

「逃げるぞ!後ろは見るな!!」


 叫びながら舞が振り返るのを防ぐかのように、司はますます強く舞の手首を握り締め、より前の方へ、自分の方へと引き寄せようとした。舞は決して運動神経の悪い方ではなかったけれど、それでも普段テニス部で走り回っている司と同じ速度で走れるわけもないので、つい足がもつれがちになる。だが、逃げ切らなければならないほどの悪意が間近に迫ってきていることだけはわかる。それは追ってきているのだ。

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