1-3 「幸せに、なって…………」
「あんたさ、結城のどこが好きなの?」
「えっ……」
昼休みに二人並んで廊下の窓から校庭を眺めているとき、美佳が言った。元気にサッカーボールを転がして遊んでいるのが司を含んだ男子たちの集団で、つい給食の前に体育の時間があったばかりだというのに(そして先ほど昼食をたらふく詰め込んだばかりだというのに)もう元気に動き回っている。舞がようよう司から目を逸らして友人を見遣ると、美佳は窓外の日差しに背を向けて、日に焼けたうなじを温めながら、黒々とした前髪をかきあげて、どことなくふざけたような、真面目なような顔をしていた。
「小学校の頃からずっと好きだったのは知ってたけど、いつからなんだろって思ってさ。それに、どうして好きになったのかも聞いたことなかったし」
「えっと……私もよくわからないんだけど……」
「なにそれ」
「いつの間にか好きだったの。本当に。気付いたら、好きで……ずっと一緒にいたせいかもしれないけど。ほら、親同士が仲よかったからね。前も話したかもしれないけど、お母さんと司のところのおばさんが出産の時、一緒に桜花病院に入院してて……」
「それで、一緒の日に生まれてきたって話でしょ」
「う、うん……」
「まあ、この子たち、まるで一緒に生まれる約束をしてきたみたいね!」母親同士はそんなことを言って笑い合ったのだという。「もしかしたら、前世で恋人同士だったりして!」。
「別に、前世なんて信じてる訳じゃないし、同じ日に生まれてきたのも偶然だって分かってるよ。それに、司のこと好きなのもそのせいばかりじゃないし。関係ないって言ったら嘘になるけど」
最後に小さく呟いた親友の顔を、美佳は見遣る。今、舞は美佳にならって窓に背を向けて、思い出を手繰るように両手の指を腹の前あたりで絡ませ合って俯いている。春のくすんだ青空より降り注ぐ真昼の日差しに照らされて、短く明るい茶色の髪は透け、その髪の先が振れるか触れないかぐらいのところに小さくそびえている肩の稜線は、青いセーラー服の襟で切り取られているところを残してぼやけていた。舞の横顔は何もかもが小作りで品が良く、少し雛人形を思わせる。だが、そのいきいきとした頬の赤味、絶えず笑ったり怒ったり泣きそうに歪んだりしている唇、それに大きく見開かれた清んだ翡翠色の瞳の輝きのために、ややもすると人を突き放しかねない冷たい雰囲気が見事に取り払われていた。舞は同性の厳しい目から見ても十分に可愛らしい部類に値する。優れているのは容姿ばかりではなく、友としてのその性質に関してもだ。それでいて、羨ましいとは思わせても妬ましさを覚えさせないのが舞の特徴で、舞は向かう者全てに受容と情愛との優しい微笑みを浮かべてみせるのだ。美佳は舞の女友達としては最古の部類であったから、そうした舞の美点をよく知っていた。だから、舞が、嫌味なほど欠点のない優等生・結城司に恋をしていたとしても、それはとりわけ不相応なことには思えない。大体、二人は幼馴染であるのだし、両方とも美点を兼ね揃えた男女同士であるのだから、むしろお似合いでさえある。美佳は見た目によらない分析能力でそう判断して、かつ二人の恋が幸福な結果をもたらすだろうことも予測した。あとは、友の数少ない欠点――それこそが恋の成就を妨げているのだが――それだけを、補ってやるだけだ。それが友人としての自分の役目であろう。そうだ、たとえ……
「そういえばさ、美佳は好きな人いないの?」
一足早く物思いを抜け出て、舞が尋ねる。
「あんたね、恋愛だけが青春だと思ってんでしょ?」
「そ、そんなことないけど……!」
「そりゃあ美香様にふさわしい男がいるならいいけどね。中学生ごときにいる訳ないでしょ。まだガキなんだから」
「お、同い年だよ?」
「精神年齢はいつも女子の方が三つ上なの。すなわち話があうのは三つ以上年上の男子!わかった?」
「えっ、えぇ……そうかなあ?」
ちょうどその時、予鈴が鳴った。こうしてはいられない。今日の放課後は、今週末に行われる水仙女学院中等部との試合に向けて練習があるのだし、舞を焚き付けるなら早くしなければ。試合が終わるころにはいい結果を聞いていたい。そうすれば、あたしもきっと……美佳は教室へ戻ろうとする舞の背後から飛びついて、その肩に腕をまわした。空回りしていないだろうか。大丈夫だろうか。男子たちが慌ててボールを片づけている校庭の様子を見るふりをして、美香は窓に自分の笑顔を映す。いつも通りの元気少女・美佳ちゃん。恋愛や男になんか興味のないサッカー少女・佐久間美佳の姿がそこにあった。
「なっ、なに、美佳?!」
「告白、しないの?」
「だからしないって!!」
舞の声が大きすぎたので、周囲の生徒が振り返った。舞は美佳に羽交い絞めにされながらも、真っ赤になってどたばたと手足を振り回し、なんでもないからと周囲に謝った。
「どうして?」
「だって、もしうまくいかなかったら、もう……!」
「もう友達に戻れない?」
「うん……」
暗い未来を想像して、舞の瞳が切なげに揺れる。きっと舞にとってそれ以上の悲劇はないのだろう。司と二度と話せなくなる。司と二度と笑えなくなる。それは確かにどんなに辛いことだろう。美佳は表情が曇りそうになるのをすぐに取り払った。
「でも、司を他の女子にとられるのは嫌なんでしょ?」
「もちろん。でも、司との関係が崩れるよりはまだましだよ」
「本当に?」
舞は言葉では答えずに頷くと、美佳の腕をするりとすり抜けて、足早に教室に戻ってしまった。「あっ」と間の抜けた声が美佳の口より漏れる。美佳は、舞の可憐な顔が突如強張って、たちまちのうちに人形のような冷やかさがその頬の上に霜のように降りくるのを見た気がした。舞のあんな顔を、美香は数えるほどしか見たことがない。だが、美香は傷つかなかった。自分の揺さぶりがある程度以上の効果を成したことを、賢い美香は悟っていて、殊勝な友人らしく笑い溜息をつくだけの余裕もまだ十分心のなかにあったのだから。もしかしたら、この後に苦しい時間が来るかもしれないけれど……
五時間目の国語の時間、舞は珍しく居眠りをした。「本当に?」美佳の言葉に悩みに悩むうちについ眠ってしまったものと思われる。「本当に?」私は本当に、司が他の女子と笑い、手を取り合っている光景を見ても微笑んでいられるのだろうか……その方が、玉砕するよりよかったと本気で思えるだろうか。
夢の中で、舞は暗闇の中を駆けていた。四方を覆う澱んだ闇はすさまじい熱気とおぞましい悪意を湛えており、少しも見通すことができない。舞はただ、自分の息遣いと、前を行く人の手の冷たさとを感じていた。それから素足が踏む岩のごつごつとした感触とを。舞の足の裏は焼けて痛んだ。しかし、今はそれよりも胸が痛い。こんなことをしてはいけない。走るのをやめなければ。だが、前を行く人の歩調は緩まない。細い指が震えている気がする。暗闇だから、指先は過敏にその人の恐怖を感じる。そして、疲れ切った体に鞭打ちながら一刻も早くこの闇を抜けようとする悲痛なほどの思いも――
「幸せに、なって…………」
突如、その人の手によって白い世界へと押し出されたとき、舞はびくっとして飛び起きた。ちょうど菅野先生の構えていた教科書が頭上にあったので、舞の頭はその背表紙に直撃し、声にならない声が口から漏れ出た。と、たちまちクラスが爆笑の渦に包まれた。菅野先生は舞の頭を心配して余計みんなを笑わせたあとで、優しい声で舞に音読を言い渡した。
立ち上がった舞は、すっと頬を流れ落ちた一筋の涙に驚いた。だが、それは教科書の影に隠れて、誰の目にも留まらなかった。
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