1-2 「告白しないの?」

「ああ、ああ、朝早くからご苦労ですねぇ」


 舞たちの卒業とともに定年を迎えるという、一癖も二癖もある菅野先生は、それをネタに笑いをとっている禿げ頭の汗を群青色のハンカチでぬぐいながら、舞に日直日誌を手渡した。いつもへらへらと笑っているが、意外にも深い窪みの奥に据わっている目は、どことなく理智の輝きを感じさせないでもない。だが、それを見抜くには、舞はまだ幼すぎた。


 いい加減だという美佳の批評にも関わらず、先生の机の上はきちんと整頓されていて、机の奥に並べられた背表紙のなかには『桜花市の伝説の成立過程――螺鈿伝説の系譜――』やら、なんとか氏全著作集やら、『万葉集全注釈』といった中学生には難しそうなものもある。ただ、今そうした本たちは、菅野先生の頭を煩わせてはいないようで、舞たちが使っている国語の教科書の相当古びたのだけがひろげられている。


「そういえば京野さんは、三者面談の日程表を出していましたっけねぇ?」

「えっ?ああっ!そうだ、今日お母さ……母から受け取るのを、忘れて……!」

「では、明日にでも持ってきてくださいね」


 昨年度の担任なら、こういうときはひどく叱っただろうに、酸いも甘いも噛み分けた菅野老師はあっさりと舞を解放してしまった。舞はきょとんとしたまま職員室を出たが、祖母の厳しい躾を受けて育ったわりに、母譲りのそそっかしさも持ち合わせる舞には、菅野先生のような担任は天の采配かとも思えた。舞は真面目なくせにしょっちゅう物を忘れるので、決して悪い人ではない前の担任教諭はすっかり困惑してしまっていたのである。


 舞の祖母は藤間流の日本舞踊の師範だった人で、情愛が深まるほどその人に対する厳しさが増すという古きよき日本人のお手本のような人だった。夫と早く別れたことも影響しているのかもしれないが、晩年、祖母が舞に語ったところによると、祖母の娘時代には今では考えられないほど厳格な躾がされたのだという。だから、祖母の舞に対する態度はまだ甘いというのが彼女の認識であった。そんな訳で、婿である父親がたじたじになるぐらい気の強い人であったが、舞が九歳のときに交通事故で足を骨折してからは、すっかり意気消沈してしまい、その反面身内に対する細やかな情愛が表出してきて、それまで祖母を恨んでいた人すらもその変わりぶりに様々な意味で涙を禁じ得なかったほど。優しさと愛に満ちた幸福な最期を遂げた。


 その祖母が産んだ二人の娘のうち、妹の方が舞の母にあたるのだが、この人はあの祖母が育ててどうしてこうなるのかと思うぐらいおっとりしていた。感情の起伏がさほどなく、いつも穏やかで、物事に落胆するということも滅多になかったが、ただ舞の妹か弟になったであろう子どもを流産してしまったときだけは半年以上もの間、悲しみから立ち直れないでいた。その折に、舞とその姉は祖母の元に預けられていたのだが、祖母はこの機会をのがすまいとばかりに、ゼロではなかった姉妹の礼儀作法を徹底的に鍛え上げた。おかげで舞と姉のゆかりは少なくともひと時ばかりは母のことを忘れられた。それに、祖母と過ごした時間は、姉にとってはともかく、舞にとってはその後も忘れられない大切な思い出となった。舞は祖母の教えを生涯の教えにしようと誓った。


「誰に対しても礼儀を忘れずに、親切にするんですよ。べたべたずるずる相手に甘えるようなことは、たとえ家族同士であってもいけません。どんなに親しい人にも毎日きちんと挨拶するんです。そして、身のまわりは常にきれいに整頓しておいて、身なりも清潔にしておきなさい。派手な服より清潔な服のほうが百倍値打ちがあるんです。それから正しい言葉で話しなさい。目上の人には……」


 祖母の言葉はその後も延々と続くのだが、舞はすっかり諳んじていて、姉のゆかりを呆れさせまた怯えさせていた。姉とて祖母を愛していることは舞と同じなのだが、舞がどうしてかくも強く祖母を敬愛するのかは理解できていなかった。祖母は幼馴染との恋の物語を、かわいい孫の姉の方に話すのをすっかり忘れていたのであった。



 舞が教室に入ろうとしたその時、一人の少年が入れ違いに教室を出ていこうとして、二人は思いがけず正面から向かい合った。と、互いの姿を認め合った瞬間に、二人の頬にさっと朱が差した――それは相手の目には映りにくい微細な変化であったが――舞は日直日誌とともに抱えていた出席簿やらプリントやらをばらばらと取り落としてしまった。


「あーあ、なにしてんだよ」

「お、おはよう!」


 祖母の教えを頑なに守ろうとしたわけではない。ただ嬉しい驚きが、舞を混乱させて、ついいつもの習慣に走らせたのだった。少年は書類の上に屈みこみ、半ば怪訝な顔をそして半ばおかしそうな顔をしながら、


「おはよう」


 と、不自然な挨拶に返礼した。


 舞はしばらく書類をまとめている少年の顔に見入っていたが、ようやく状況を思い出して慌てて自身も屈みこむと、ばらばらになったプリント類を集め始めた。舞の顔はまだ幾分赤かった。それに悪いことに、鼓動の方は先ほどよりずっと高まっていた。


(嫌だな、慌てることもないのに……)


 舞は居心地の悪さと甘酸っぱい思いとを同時に噛みしめながら、意味もなく耳に髪をかけてみたりする。本当に慌てることはないのだ。彼とはこれまでも何百回と顔を合わしてきているし、これからもきっと……いや、それは分からないけれど。でも、幼馴染相手にこんなに緊張するのはばかげている。それだけは分かる――結城司ゆうきつかさとはごく幼いころからの付き合いだ。舞はいつの間にか、もしかしたら一目彼を見たときから、司に恋をしていた。その見る人に好感を抱かせるような容貌のためばかりではない。確かに、涼しげな目元や、かわいらしくさえある少年らしいやわらかな薄い唇と宵闇のような薄紫の瞳、すらりとした鼻筋や、青く透けて見えるほど艶やかな黒髪は、多くの女子にとって魅力的だ。でも、それにも増して舞をときめかせるのは、その柔らかな物腰と屈託のない明るい態度の方であった。結城司は真に心の優しい少年だった。さすがに中学生の男子ともあれば、軽口を叩いたりからかったりもするけれど、それさえも相手への気遣いと親しみに満ちていた。舞は彼の優しさに何度救われたことだろう。小学生のころ道に迷ってしまったとき、涙で前も見えない舞の手を引っ張ってくれたのは司だった。汗ばんだ手の温もりを、舞はあの小さな手の触れた場所にそのまま残して成長してきた気がするのだ。司と向かい合うとき、たとえそれが他愛のない冗談の応酬の時間であっても、舞はその手の温もりを抱きしめたくなるような衝動に駆られる。そしてそうした充実とともに、もう一度彼に触れたいような切なさとを……


「ほら」


 一足先に立ち上がった司がまだ屈んでいる舞に書類を差し出した。


「ありがとう」

「今日日直か?」

「うん」

「頑張れよ。日直はよく授業中当てられるぞ」

「えっ、あっ……!やばい!」


 慌てて教室前方に張り出されている時間割表をのぞき込んで今日の授業を確認した舞は、思いがけず司の胸の方へと身を乗り出す羽目になった。触れてもいない司の体温を頬にかかった影に感じて、舞はどきっとする。司は二人の近さに気付いてかそれとも無頓着なのか、舞がやや名残を惜しみつつ身を引くまでその場を退くようなことはしなかった。


「やっぱり、英語が……」

「おっ、頑張れよ」

「ま、またバカにして!」


 司がにやにやと笑っているのは、舞の英語の苦手さを知っているからなのだ。司は舞が授業中にとんでもないミスをやらかしてクラスが大爆笑の渦に包まれても好意的に微笑むだけであったけれど、一対一となると、たまに直近のひどいミスを取り出してきてからかうことがあった。さらに悪いことに、そういう司は何の教科においても頗る成績がよいのである。だから舞はどうしたって言い返すことができない。司は誰にとっても好ましい優等生で、その地位は小学生のときから脅かされたことはついぞなかった。


「バカになんかしてないだろ、ただ頑張れって」

「そ、そういう態度がもうね……!」


 わかったと言わんばかりに司は舞の頭をぽんぽんと叩く。舞は下唇を噛んで黙り込む。人前では幼い頃のような触れ合いはなかなか難しいのだけれども、今日は他に人もいないから司も思いがけず大胆になるのだろう。そうだ、昔からよくしてきたことだ。特に意味なんてない。


「つ、司はどうして今日はこんなに早いの?」


 きっと司の伸ばした腕の影になっているから、赤らんだ顔を見られまい。それに、こんな当たり前のことように頭をなでてくる司に対する屈折した思いにも気づかれまい。


「ああ、テニス部の朝練」

「行かなくていいの……?」

「今日、顧問の先生が風邪だからできないって言われてさ。それで暇なんだ」

「そ、そう……」


(それって、もしかして誰か早起きのクラスメートが登校してくるまで教室で二人きりってこと?)


 舞の胸がざわつきはじめたが、司はにこりと舞に笑いかけて教室を出ていってしまった。お手洗いにでも行ったのであろうか。まだ電気のつけていない、朝日が廊下側より差し込む静かな教室で、舞は日付と日直の氏名とをチョークで書き直し、教卓を乾拭きし、出席簿とプリントの束とを教卓の上に置いて、日直日誌に今日の時間割を写しはじめた。舞はそわそわしながら司の帰ってくるのを待ったが、司は戻ってこない。そうこうするうちに、他のクラスメートたちがぱらぱらと登校しはじめて、朝練明けの美佳も額の汗をタオルで拭いながら教室へと駆け込んできた。美佳の後からは、「佐久間、廊下を走るんじゃない!」という隣のクラスの先生の声が聞こえてきた。


「いやー、間に合った。セーフ、セーフ。舞ちゃんは随分早くきたから暇だったでしょ?」

「うん……」


 落胆を押し隠して舞は微笑む。司は美佳より五分ほど早く教室に戻っていたのだが、舞のところには立ち寄ることなく、仲のいい男子たちと話し込みはじめてしまっていた。美佳の肩越しに、同じテニス部の友人らに囲まれて笑う司の顔が見え隠れしている。舞が盗み聞きしたところでは、司は廊下を歩いている途中で彼を贔屓にしている社会科の先生につかまり、その手伝いをさせられていたらしい。舞はなんとなくだが、司の優等生ぶりに対してじれったさを覚えた。こんな気持ちは初めてなのだが。


「おうおう、まーた結城の方ばっか見て」

「しーっ!」


 美佳はさして大きな声を出した訳でもないのだが、舞は慌てて指を唇に当てた。少し離れたところで集まって話をしていた友人たちが、美佳のささやきを聞きつけてこちらを見ながらくすくす笑った。舞はそっちに向かって手を振り上げたが、結局彼女たちの笑いのさざなみを一層誘っただけだった。どうしてだかは舞自身にはわからないのだが、舞の恋は友人たちによく知られていた。


「告白しないの?」

「いつもそればっか!しないったら……まだ」

「早くしないと取られちゃうぞ」

「だ、誰に?!」

「……あんたこそ声が大きいわよ。知らんって、そんなん」


 ちょうどその時チャイムが鳴って、まだ菅野体制下にすっかり慣れた訳でもない生徒たちは昨年度の習慣で慌てて座席についた。菅野先生はそれから五分ほど経ってからやってきて、連絡もそこそこに最近覚えた小噺を一つぶつけたので、2年A組の生徒は危うく全員そろって一時間目の授業に遅刻しそうになった。

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