現世編―螺鈿の巻―

第一話 白昼夢

1-1 始まり―桜花市と少女について

「幸せに、なって…………」


 舞は大きく目を見開いた。涙が一つ頬を伝った――




 桜花おうか市の取り柄といえば、町全体にわたされた十字路に沿って延々続く桜並木ぐらいなもので、こればかりはさすがに桜の名を冠しているだけはあるのだが、それ以外はこれといって目立つところのない凡庸な町だった。


 一応は都内にありながらも都心からのアクセスはすこぶる悪く、私鉄の一本が桜に誘われて気まぐれに踏み込んできてしまったといった程度のもの。ベッドタウンになる夢も潰え、人口は年々減少し、時代に取り残された人たちが幅を利かせられるたったひとつの桃源郷以上のものになり上がる見込みもなく、昨年の台風で倒壊した桜の木二本もまだ植え替えられていない有様。町の人々でさえ、さすがにこのご時世ともなれば外の世界も見ているから、「春以外はなにもない」というほどであった。


 しかし、なにもないというのは人間が犯しやすい表現上のミスであって、木々を色づかせる秋風やら、肌を穿つような真夏の木漏れ日やら、人々の夢にしめやかに降り積もっていく純白の雪の奇跡やらは、この町を訪うことを決してやめてはいなかった。それに江戸時代には宿場町として一通り栄えた場所で、遠い万葉の歌にもこの場所(というかこの辺り一帯)を詠んだ歌があるくらいだから、歴史は一通りではなく、細やかな史跡にも富んでいる。確かに都会的な雰囲気はなかったが、まるっきり田舎というわけではもちろんないし、歩道は全て貝殻のような白い石で舗装され、景観を悪化させる看板・広告類にその空が汚れることもなく、下劣な落書きが静かに憩うパン屋のシャッターを飾ることもない。地方都市のごてごてした無理に騒ぎ立てているような雰囲気にくらべれば、桜花町のほうがよほど清涼で好ましい。


 それに、この町にはもうひとつよい特色と言えることがあって、それが世にも稀なる少女が暮らしているという点なのであるが、先にこの少女の住まいを記しておこう。町を俯瞰してみると、町の中央にある桜花神社のところで二本の国道がちょうど十字状に交差しているのが分かるのだが、少女はその国道によって仕切られた四つのブロックのうちの左下、方角でいえば町の南西側にある地区の、とある慎ましやかな一軒家に暮らしていた。ここは比較的新しい家が立ち並ぶ地域で、町に二つある中学のうち、市立桜花中学に通っている生徒の大半はこの地区に住んでいる。この少女も例外ではない。ところで、この少女がなぜ世にも稀なる少女であるのかは、追々分かっていくことであろうが、この少女の内面のちょっとした美点やかわいらしい立姿のことを指しているのではないことだけ、あらかじめ述べておく。



 少女は今、終わりかけの桜の下を暢気に学校へ向けて歩いている。花弁は、あたかも不機嫌な美女といった風情の少し強すぎる四月の風に吹かれて、夥しく散っていた。少女はやや神経質なほどに明るい茶色の髪に手をやって何度も整えなおしながらも、唇に満ち満ちたささやかな喜びをしまいこむことは決してなかった。少女の表情には大概そういう優しい微笑が浮かんでいた。


 京野舞きょうのまいは今年の七月で一四歳になる。世の一般的な中学生が体験している苦労以上の苦労は知らず、また喜びに関しても同様であっただろうが、こうした日常のささやかな風景に美しさを見出す感性だけは突出していた。花や小鳥の仕草はいつも舞を喜ばせたものだ。殊に桜となると――桜は今、荒れたる風の女神に翻弄されているのだが、朝日を浴びて白く瞬きながら、一種恐ろしいほど夥しく降る桜の花は、舞にとっては心惹かれるほど幻想的に見えた。なにか遠い記憶を蘇らせるような。それは、こうして来る年も来る年も桜の花に撒かれていたはずの先祖の記憶であるのだろうか。舞は人知れず高尚な麗しい空想に浸ったが、舞も尋常の人間であり、学校へ向かって歩く一中学生である以上(そしてなにより上を向いて歩いていた以上)、些細な段差につまずいてこけることは避けられなかった。そして、ようよう我に返った意識に友の明るい笑い声を浴びせられることも。


「美佳!!」


 白いハイソックスの上、姉に手伝ってもらってちょっと丈を短くしたセーラー服のスカートから覗く膝をさすりながら、舞は笑い声の主を咎めた。親友は、ずっと前から舞の後ろ姿をそうして観察していたらしい。同じセーラー服を着た三つ編みの少女は笑い声を一層高くしながら近づいてきて、それでも舞を助け起こしてくれた。


「いやあ、今のは傑作だったわ」

「どうして声かけてくれなかったの?!」

「だってあんた面白いんだもん……動画とっとけばよかった、ほんと」

「や、やめてよ……!」


 恥ずかしさでほのかに顔を赤らめる舞に構わず、美香はふと真面目な顔になって、眼鏡越しに舞の膝に鋭い一瞥を放った。佐久間美香さくまみかは小学校からの舞の友人である。三つ編みに緑色のふちの眼鏡というちょっと文学少女を思わせる恰好を舞と知り合って以来好んでしつづけているのだが、よく見てみれば細くしまった四肢に活発さと機敏さがみなぎっていることがわかる。皮膚は浅黒く日焼けしていて、頬にはいくらかそばかすも見えている。美香は女子サッカー部のエースなのだ。


「怪我してないね、よしっと。ところで舞さん、今日は早いんじゃない、どうしたの?」

「日直なの。先生から日直ノートもらいにいかないと」


 二人は再び学校へ向かって歩き出していた。学校までは三本目の通りを右に曲がってさらに五分ほど歩かなくてはならない。もう慣れたこの通学路だが、いつも朝練で早い美香と歩くのは久しぶりだった。


「そりゃお疲れ様だけど、菅野先生って朝一に行かなくても全然大丈夫らしいよ。理沙が言ってたけど」

「あの先生緩いもんね」

「いい加減なんだよ、悪く言えば。授業も雑談で半分使うし」

「でもいい先生って話だよ。先輩が言うには……菅野先生のこと嫌いな人って、聞いたことないな」

「歳が歳だから、ちっちゃいことじゃ怒んないしね。それに引きかえ馬場ときたら……!」


 美佳の演説を一頻り傾聴しおわるころには、舞はもう校門にたどり着いていた。市立桜花中学は、市が少ない予算で頑張って立て替えてくれたので――噂によると耐震設計に問題があったのを指摘されて慌てて対応せざるを得なかったとのことだが――二年前に完成したきれいな校舎を春のほのかにくもった空の下に誇らしく聳え立たせていた。四階建ての校舎の壁は淡いカナリアイエローで、校門に対して垂直に建てられており、体育館だけが校舎と対面するように別棟になっていて、二階の渡り廊下で結ばれている。校門を入ったところが様々な植物を植えたりビオトープを設置したりしている自然豊かな中庭で、その右手に聳える校舎を隔てたところに広大な校庭がある。美佳の練習はそっちの方であるから、二人は校門を入ったところで別れ、舞は中央玄関から校舎へ上がって二階の職員室へ向かった。舞は今更気にもとめなかったが、中央玄関の上では桜花中学のエンブレム――黒い縁の円の中に金の縁をした桜の花弁の図と銀色で桜花の字――が真新しい校舎を飾っていた。

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