第5話

 僕は何を描いているんだろう。


 あれは確か二年生の時の図工で作った表札だ。

 一五センチくらいの四角い板に家族の名前を書いて、空いている場所に自由に絵をかくんだ。その絵に絵の具を塗って出来上がったら透明な板を表に張って完成だ。

 僕は絵がヘタッピーだからできるだけ大きな字で

 『おおとも せいじろう』

 『なな子』

 『しょう太』

 って書いてる。


 それを見た先生に、これじゃ絵を書く場所がないわよなんて怒られてる。

 僕はどうしても授業中に絵がかけなかったから宿題になっちゃったんだ。


 あれは僕の家のリビングだ。

 表札の絵を描こうとしてうんうん唸ってる僕がいる。


 その傍をテキパキと掃除しているお母さんが何度も通りかかる。

 そしてチラチラと僕の表札を覗いては『ヘタッピー』なんて言ってくる。

 僕はうるさいなーって言いながら頑張って絵を描いている。


 お母さんは何度かウロウロした後、いきなり僕の隣に座ってきた。

 僕は勢いで椅子から落ちそうだ。


 『祥太祥太。ね、お母さんにもちょっとやらせて?』

 そういうとお母さんは転がっている筆を拾って勝手に絵を書き始めた。

 お母さんがすらすらと筆を動かすと、綺麗な花や鳥がどんどん出来上がっていった。

 僕はスゴイって思いながらも『勝手に書くな』なんて文句を言っている。

 でもあっという間に僕のヘタッピーな表札は、キレイな花や可愛い鳥でいっぱいになった。


 お母さんは絵がとても上手だ。絵だけじゃなくて、歌も上手だったし色んな楽しいことを知っていた。そして僕をその楽しい場所に色々と連れて行ってくれた。その頃は僕よりも速い球を投げていたっけ。


 お母さんは完成した表札を持ち上げて『どーだ!』なんて言っている。乾いていない絵の具が表札からダラっと垂れて絨毯に溢れた。

 僕は雑巾を持ってきてお母さんに文句を言っている。

 絨毯を拭いた後、表札にフーフーと息を吹きかけている。

 お母さんの綺麗な絵と僕のヘタッピーな絵がごっちゃになっている。


 お母さんは僕の頭に手を載せて笑っていた。

 するとお母さんはちょっとだけ悲しい顔になって、『お母さんも、もっとかまってほしいんだけどなぁ』なんて小さく言っていた。

 言ってくれたら僕が遊んであげるのに。変なの。


 でも僕はこのとき、表札がとっても嬉しくてあんまり気にしなかった。

 ワクワクしながら学校に表札を持っていったら、家の人に手伝ってもらっちゃダメだって先生に怒られたっけ。


 そうだ。僕はお母さんが大好きなんだ。




 僕はゆっくりと目を開けた。自分の部屋のベッドの上だった。

 そっか。寝ちゃったんだ。夢を見たのかな。


 窓の外は暗かった。まだ朝じゃないみたいだ。

 僕はベッドから起き上がって部屋の鍵を開けて一階に降りた。

 一階に灯りはついていなかった。

 僕はゆっくりと玄関をあけて外に出た。


 空の下のほうが少し明るい。


 僕は玄関の表札に手を伸ばした。

 僕のお気に入りの表札には仕掛けがしてある。

 誰も知らない、僕だけの秘密の仕掛けだ。

 一枚の板に見えるけど、こうやって下の引掛けを外すと……。


「おはよう」


 僕は朝の挨拶をして少しの間表札を見ていた。


 そして表札を元に戻すと部屋に戻ってもう一度ベッドに潜り込んだ。



 次の日、僕は恵さんに起こされて目が覚めた。

 いつもどおりご飯をたべて、練習の用意をしてグラウンドに向かった。


 僕はなんだか、まだ頭の中がふわふわとしているみたいだった。

 だから早く練習に行って体を動かしたいと思った。

 今朝、ユウナの姿は見なかった。



 その日の夕飯、ユウナは少し調子が悪いからといって一緒にご飯は食べなかった。


 僕はこのあと、きっと昨日の表札の事で父さんに怒られるんだろうと思った。

 怒られるのは嫌だったけど、僕は少しだけ父さんに怒られたいと思っていた。

 父さんに怒られたら、きっとこのモヤモヤした気持ちがスッキリするんじゃないかと思っていたから。


 でも父さんも恵さんも、表札のことは何も言ってこなかった。

 ふたりとも、いつもどおりに話をしていた。


 なんで怒らないんだろう。なんで何も言わないんだろう。

 昨日の僕は、ひどい態度だったのに。昨日の僕は、とってもおかしかったのに。


 僕はなんだか余計に気持ちがザワザワとしてきた。

 父さんがなにか僕に話しかけた気がしたけど、僕はここにいちゃダメな気がして階段を駆け上がった。


 二階にあがるとユウナの部屋のドアが少し開いていた。

 僕は悪いことをしていると思いながらも隙間から中を覗いてみた。


 するとユウナは机に座って何かを見ている。

 ユウナは手に持った何かを見つめながら、とても寂しそうな顔をしていた。

 僕は目を細めると、ユウナが手に持っているのは写真だと気がついた。


 僕は瞬間的に、それはダメなんだって思った。

 そう思ったら僕はユウナの部屋のドアを勢い良く開けてしまっていた。


 ユウナはびっくりした顔で僕を見た。

 僕はユウナの近くまで行って、手に持っていた写真を取り上げた。


 恵さんが小さなユウナを抱っこして、知らない男の人が恵さんの肩に手を載せて三人が笑って写っていた。

 三人ともすごく優しく笑っていた。


 僕は、力任せに写真をふたつに破った。


 ユウナは驚いて声が出なかった。


「これは、だめなんだぞ!」


 僕はユウナに向けてそう怒鳴ると、破った写真を持ったままの手が小さくブルブルと震えているのがわかった。その震えは足にも伝わって体に力が入らなくなってきた。そして目も震えてきてボンヤリとしてきた。


 ユウナが口をぎゅっと結んで大きな目に涙を溜めながら僕を見上げているのが滲んで見えた。


 僕はユウナの部屋を飛び出して自分の部屋に駆け込んだ。


 僕の心臓は壊れるんじゃないかと思うくらいに大きく動いてドンドンと音をたてていた。

 僕の両手は破った写真を持ったままだった。


 これはきっとユウナのお父さんなんだ。写真を見たらすぐにわかった。

 二つに破れた写真を机の上に置いた。

 僕は、ユウナの大事な、大切な写真を破ってしまった。


 でも、これは父さんや恵さんには見せちゃダメなんだ。

 僕達が悲しそうな顔をしちゃだめなんだ。


 だって、そうすると父さんや恵さんが悲しむから……。


 僕は急に自分がなんでイライラしているのか分かってしまった。


 僕は急いでセロハンテープを持ってきて、テープを短く切った。

 破ってしまった写真を裏返して二つをくっつけた。

 破ってしまったところにテープを貼るけど、おかしいな。うまくくっつかない。


 ……そうだ。僕は悲しかったんだ。

 このままじゃ、お母さんの事が忘れられてしまいそうで……。

 僕は、きっと……。

 きっとそれが……。

 いやだったんだ……。


 なんでだろう。テープがなかなかくっつかない。


 それは大きな水の粒がテープに落ちて、すごく濡らしてしまっているからだ。


 ちゃんと直したいのに……。

 僕はお兄ちゃんなのに。



 長かった夏休みがもうすぐ終わってしまう。

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