3 あなたとふたりで逃げ出した
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祖父の家で過ごす初めての夏休みは、とても忙しない日々でした。 広い屋敷の探索から始まり、緑さんの手伝いをしながら宿題を片付け、空いた時間はとにかく祖父のところへ行きました。
「菖蒲さん、アメリカはどうでしたか?」
「えっ。」
「語学留学に行っていたんですよね。」
「あ、えぇ、そうでしたね。 でもこうしてすぐに帰ってきてしまいました。」
「合わなかったのですか。」
「いいえ。 アメリカには、松葉さんが居ないからです。」
今にして思うと、十四の子供が自分の祖父に向けて放つ言葉ではなかったでしょう。 あの空間に第三者がいたなら、なんてマセたガキだと、気持ちの悪い奴だと罵ったことでしょう。 でも、開かない瞼越しに菖蒲さんを見つめている祖父は、唇を噛み、顔を背け、ありがとう、と小さく呟いたのです。
「予定よりもずっと早く帰国してしまったので、お父様に会いたくなくて。 だから、緑さんにお話して、夏休みの間だけ此処に身を置かせてもらうことになったんです。」
「そうなんですか! えぇ、そのほうが良い。 是非、是非そうなさってください。 部屋は沢山ありますから、お好きにくつろいで!」
手を握りながら大きく振って、子供のように興奮を抑えきれない様子で、ベッドから身を乗り出していました。 本当に、祖父は祖母が好きだったのでしょう。 当時はまだ恋をしたことが無かったのでわかりませんでしたが、幸せが溢れ出ていて、きっとキラキラ眩しい物だと感じました。 だからこそ余計に、私には程遠いものなんだ、と。
「松葉さん。」
「はい、なんでしょうか。」
「松葉さん。」
握った手。 枯れ木のような手に、優しく唇で触れました。 祖父の手は微かに跳ね、触れたのが何かを探るように、空を掻きました。 包帯から覗いた口が小さく開いて、短い息を吐きました。 枯れ木は僅かに熱を持ち、ゆっくりと引いていきました。
祖父は私が部屋に来るたび、包帯から覗く口元を綻ばせ、真っ白な手を伸ばしました。 その手を包むように握って、ベッドの横にある椅子に座ると、低く優しい小さな声が、たくさんのお喋りを始めます。
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