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 緑さんはゆっくり深呼吸をして、私の目を見て言いました。

「お願いです、坊ちゃん。 これが罪であることは承知しています。 それでもお願いする、緑をどうかお許しください。 どうか、坊ちゃんにこれからも、菖蒲お嬢様のフリをして欲しいのです。」

 見上げた緑さんの顔は、しわくちゃになっていました。 その顔を見て、時が経ったのだなぁ、なんて関係ないことを考えていました。 だってもう、答えなんて聞かれる前から決まっていたのですから。

「事故に遭ってから、旦那様は笑うことも忘れてしまいました。 うわ言のように、菖蒲お嬢様の名ばかりを呼び、私はこのままだと可笑しくなってしまいそうで。 敏和坊ちゃんは、神様がくれた最後の希望だと感じました。 酷な頼みであるのは重々承知しております。 だから、坊ちゃんが望むことは全力で御手伝い致します。 菖蒲お嬢様のことも、なんでも聞いて下さいませ。 もう、坊ちゃんしか、旦那様を菖蒲お嬢様に会わせることは、出来ないのです。」

 とうとう緑さんは泣き出してしまいました。 エプロンを顔に押し当てながら、大袈裟なくらい肩を揺らして。 こんな広い屋敷に、ずっと祖父と二人だけで、その祖父が菖蒲さんしか見ていなかったのです。 緑さんの心はとっくに限界を超えていたのでしょう。 そうじゃなければこんな提案、絶対にしない人でしたから。 そういえば、人に頼みごとをする姿も、この時初めて見た気がします。

「顔を上げてよ、緑さん。」

 例え緑さんが望んでいなかったとしても、結論に変わりは無いのです。 頭を下げられるほど、胸の痛みが増すばかりで、私には何の得もありません。 

「私に出来るかわからないけど、頑張ってみるからさ。」

 そう言って笑うことくらいしか、子供の私には思いつきませんでした。 大人の涙は苦手です。 止め方が複雑で、下手したら余計に泣かれてしまうから。 泣きながら、時々笑ったりするから。

「本当に、ありがとうございます。」

 私を抱き締めながら、緑さんは何度もそう言いました。

 こうして、産み落とされた罪は、じんわりと根を張り成長を始めました。

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