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「お久しぶりです、菖蒲さん。 こんな格好でお恥ずかしい。 どうぞ、くつろいでください。」

 犯してしまった後では、何を言ったところで言い訳にしかならないのです。 が、こんなにも嬉しそうな祖父を目の前にして、他に何が言えたでしょう。 わかっていました。 これはその場しのぎでは済まされない嘘であること。 とても簡単に吐いてはいけないものであること。 それでも私は、本当の名を飲み込み、そっと祖父の手に手を重ねました。 骨に皺だらけの皮膚が張り付いているだけの、冷たい手でした。 まるで庭に放置されていた枯れ木のようで、優しく擦ると、祖父は首を忙しなく動かして。 可笑しな話ですが、子供をあやしているような気持ちになりました。 目の前の彼よりも、私はずっとずっと幼いのに。 見えない祖父の顔を見つめていると、周りの空気と時間がやんわりと動きを止めて。

「お茶を淹れてきましたよ。」

 そして、暴れだしました。

 背後の扉が開いて、咄嗟に手を離しました。 心臓がバクバクと鳴って、振り返ることを躊躇いました。 本当に、このときの私は後先を考えず、直感のようなもので罪を犯したのだと思います。 冷静に、あともう少し考えたらわかることでした。 この屋敷にはもう一人が居て、この嘘は二人きりでしか成り立たないことを。 まだ子供であった私にとって、大人に怒られることは何よりの恐怖でした。 ましてや、今緑さんに嫌われたら、せっかく見つけた心安らげる居場所を失ってしまう。

 犯した罪への最初の懺悔は、まったくもって自分の都合ばかりで行った、仮初めの薄っぺらいものでした。

「緑さん、嫌だなぁ。 菖蒲さんが来るならそう言ってくださいよ。」

 祖父は無邪気にそう言いました。 振り返れない私の背後、緑さんの表情は、包帯で巻かれているわけでもないのに、見えてきませんでした。 あの時緑さんは何を思ったのでしょう。 父が死んだ時のように。 母から電話が来た時のように。 私の頭は動くことをやめて、気付いたらリビングに居ました。 祖父とどんな会話をしたか、緑さんにどんな言い訳をしたか。 どうして一人でここに居るのか。 ちっとも覚えていないのです。

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