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緑さんは私を祖父の部屋に案内しました。 居間から直接伸びる二階への階段を上がった奥。 一番日当たりの良い部屋です。 白い鉄製の扉を開けると、消毒液の香りが真っ先に届きました。 バルコニーへ続く窓の横、介護用の大きなベッドの上に、男性がいました。
男性は、顔を包帯でぐるぐるに巻き、点滴に繋がれた姿で、見えない目を此方に向け、首を傾げました。
「緑さん。 誰か、来たのですか?」
あぁ。 その声は、確かに祖父のものでした。 私の大好きな、優しい祖父の声です。 緑さんに背を押され、祖父に近づき、なんと声をかけたら良いのか迷いました。 おじいちゃん、と呼ぶわけにはいきません。 助けを求めようと振り返りましたが、いつの間にか緑さんは部屋から出ていました。
「どなたですか?」
祖父は少し声を低くし、私に向けてそう言いました。 これ以上黙っていてはいけない。
「松葉(まつば)さん。」
とりあえず、祖父の名を呼んでみました。 すぐに言葉を続けようとしましたが、祖父の様子が変わって、思わず止めてしまいました。 祖父は慌てたように手櫛で髪を整え、乱れた寝巻きを直したのです。 そして私より少し上を見つめ、嬉しそうに綻んだ口元が、言いました。
「菖蒲(あやめ)さん、来てくれたのですね。」
私を見て、祖父は確かに、そう言いました。 一瞬、何故その名が呼ばれたのかわからず、でも、私はそこで、全てに気付いてしまったのです。 面白いくらい、もしかしたら十年先の未来すらおぼろげに。 私は、全てに、気付いたのです。
菖蒲、は、祖母の名前でした。 私は幼い時から祖母によく似ていると言われてきました。 特に声の特徴が似ている、と。 未だ変声期を迎えていなかった私の声は女と言っても違和感が無かったので、目の見えない祖父が間違えてもおかしくはありません。 今の祖父にとって、この声の持ち主は菖蒲さんのみなのです。 孫の敏和など、存在しないのですから。
そして、結婚前の祖父にとって、菖蒲さんはまだ、想い人。 その菖蒲さんがわざわざ自分を訪ねに来た。 そう思っているのです。
否定をしたら良かったのでしょう。 すぐに訂正したら良かったのでしょう。 でも、包帯の奥にあるのであろう祖父の笑顔を想像して、私の口から零れたのは、たったの二文字。
「はい。」
その二文字が、最初の罪。 私が祖父に犯した、始まりの罪でした。
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