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膝に顔を埋めて、ゆっくりと息を吸う。 線香の匂い。 アルコールと、スルメの匂い。 喪服に染み込んだ、少し古臭い匂い。
「人はいつか、死ぬんだよ。」
父さん。 あぁ、父さんの声がする。 懐かしい、父さんの声。 低くて、しっかりと響く、男らしい声。 大好きだった。 大好きだったはずなのに、もう思い出せないんだよ。 だってもう、会えないまま何十年も経ってしまったのだから。
「海へ行くの。」
葬儀場の香りが、夜の海に変わる。
「ロクショウサン。」
今度は、母さんの声だ。 私よりもっと薄い色素で、日本人とアメリカ人の血を、綺麗に半分ずつもらったような、そんな母さん。 いつも大袈裟なくらい感情を表に出していたのに、その日電話越しに聞いたその声からは、何一つ読み取ることが出来なかったんだ。
「何か困った時は、この番号。」
無理だよ、無理だ。 繋がらないよ。 分厚い、使い込まれたノート。 文字がびっしり詰まった、あのノート。 逝く人は何だって皆、私に全てを預けていくのだ。
「大丈夫ですよ。 大丈夫ですから。」
伸ばされた、枯れ木のような腕。 包帯。 消毒液の匂い。
「私は貴方の側に居ますから。」
口元だけで微笑んだ、うそつき。 貴方は私に、嘘しか吐かなかった。 それは、私が貴方に嘘しか吐かなかったから。
「としかずくん。」
どうすれば私は万人から褒め称えてもらえたのか。 どうすれば私は、貴方を堂々と弔えるのだろうか。
「ビビはね、ビビは、去勢したんだ。 去勢したから、女の子になったんだよ。」
深く息を吸えば、再びアルコールの匂い。 寿一が隣に居る。 相も変わらずにビールを飲みながら、寿一が、側に居る。
私の、好きな人が。
「としかずくん!」
肩を揺すられ、咄嗟に顔を上げた。 さっきまで聞こえなかったざわめきが、一気に襲ってくる。
「としかずくんってば!」
隣の彼を見たけれど、彼は首を横に振り、顎で前を指した。
「呼ばれてるのは俺じゃなくて、ビビだよ。」
あぁ、そうだった。 ここでのとしかずは、彼じゃない。
「敏和くん、大丈夫?」
私の名前だ。
「あたしの、名前。」
十四歳の時、私はビビでも、敏和でもなかった。
「アヤメサン。」
あぁ、私は、本当に罪を重ねる気など無かった。
「あやめさん。」
ただ、居場所が欲しかったんだ。
「菖蒲さん。」
いくら悔いても、もう遅い。 現実は少しも変わらない。 そんなことはわかっている。
だから、だからせめて、どこかの誰かに、出来ることなら何も知らない、今後も交わることなど無いだろう赤の他人に、私のしたことを打ち明けたい。
これは、私の罪。 長い長い、恋のような嘘の話。
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