「旅行者」

 飛行機を操縦していた。複葉機の操縦席で風をよけるマフラーとゴーグルで顔を覆って、青空と雲とを突っ切って飛んでいた。目下には緑の草原を羊の群が悠々と、けれど小さく走っていた。遠くには海も見えた。

 友人の機関士が僕に聞いた。

「どこまでいくつもりなんだ?」

 青空の中で気持ちがいい僕は答えた。

「どこまでもさ!」

 僕は操縦桿を引いて、空高く、機体を上らせようとした。しかし急に湿った風が吹いてきた。飛行機よりももっと強い力で立ち上る風が吹いていた。上昇気流、つまり低気圧だった。この湿った風が上空で冷えて雨になるのだ。しかも、この風は、とびきりの嵐になる予感だった。

「どこまでいくつもりなんだ!」

 友人が繰り返した。

 僕はまた答えた。どこまでいくつもりなんだ、と。



「起きたか?」

 徒歩旅行で長らく一緒に歩いていた友人は、僕に言った。春の日差しで少しだけ暖かくなった草原の端っこで、僕らは一眠りしていたのだった。

 カバンの中には明日の分のパンしかなかった。この時期はまだ山野の食べ物はほとんどなくて、仕方なく川で冷たい水をのどがキュッとする程度に飲んだ。

「この辺りまで来ると故郷の風ってものを感じるよ」

 友人はそう僕に言った。僕は塗れた口を拭いながら彼に答えた。

「そういうもんかい。

 ──ああ、そうさ。なんだ、バカに機嫌が悪いな。

 ──そうでもないよ。

 ──いや、気にするのもわかる。俺たちの旅はここで一区切りだからな。俺は親父の工房に帰る。おまえはどうする? どこまでいく?」

 僕はドキリとした。しかし友人に他意のないことはわかっていた。僕は答えた。

「できれば国を一周したいね。職人手帳に工房の名前を書きつられながら。

 ──あんまり流れるなよ。なんならうちで……。

 ──いや、それはいい。でも困ったら頼む。そのときはよろしくな」



 友人はそこで別れていった。僕は安堵するような、やはり一人きりの旅への不安というような、不思議な気持ちになった。

「回れ回れ 風車よ回れ 子供も回れ みんなで回れ」

 僕は一人きりになり、杖代わりの棒を手にして誰もいない畑を歩きながら歌った。突然、突風が吹いて僕の帽子を吹き飛ばした。転がっていく帽子を追いかけていくと、小屋があり、農具の手入れをしている老農夫がいた。手元には僕の帽子があった。

「すみません、僕の帽子が……」

 言い終わらないうちに農夫は僕に帽子を投げてよこした。

「旅の職人だな。この先の街にはなんにもないぞ。早く先を目指した方がいい。どうせ野宿続きなんだろう」

 僕は農夫にこの先、どの辺りなら仕事の口があったり、栄えている街があったりするかを聞いた。

「鍛冶屋ならあの街、機械工ならこっちだな」

 それから農夫は手帳を見せろと言って、僕の職人手帳を眺めた。そして少し冷ややかな態度で言った。

「ま、おまえがなにをしたいかだな」

 僕は農夫に別れを告げた。



 クランクを回し、エンジンが初動の煙を上げる。機関士の手を借りずとも飛べるはずの僕は、けれど、もがいているばかり。それもそのはずだ。

 僕は行き先を知らない。

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