第4話



4



「だ〜〜〜もう、歩けない。死ぬ」


シュウは袋を透子に渡して畳に寝そべった。身体が太陽の熱を吸収して最高に火照っている。暑い。疲れた。


透子は冷蔵庫から冷えた麦茶を出してコップに注ぎ、それをシュウに渡す。


「ありがとうございます」

「ご苦労であったな。シュウ」

「これお財布です」


透子がげっそりと疲れた顔をしたシュウを見て少し無理をさせたか?とは思ったが、麦茶をぐびぐびと飲み干して大きく息を吐いたので思わず微笑んだ。


「アジとホッケです。黒鉄が何が欲しいのか分からなかったので、二種類にしたんですけど」

「アジですよ。アージ!アージ!て何回も言ったじゃないですか〜」

何だか久しぶりに聞く黒鉄の声にシュウは目を丸くした。何だやっぱり喋れるんじゃないか。


「まぁ、ホッケは、お夕飯に残してお来ましょう。では、私はお昼ご飯の準備をしますね〜」

「準備って……?え?その脚で?」


それを聞いた透子はケタケタと肺から出るような笑い声で笑った。黒鉄はニタァと不敵な笑みをシュウに向けてから、袋を咥えたまま襖を開けて消えて行く。

「え、あの猫は料理も出来るんですか?」

「くくくっ……そうだな、普通の猫は喋りもしないし、料理も出来ない。ましてや包丁なんぞ握れやしないだろうな」

シュウはまるで自分が変な事を言っているかのようで、透子にからかわれているような気持ちになった。間違って居るなら否定してくれ。猫は包丁が握れるのか?


「なぁに、後で台所でも覗いて確認したら良いさ。黒鉄が包丁を握って、お昼ご飯の支度をしてくれているだろう」

「うう……」


透子は否定しなかった。おかしなことを言って居るのは自分なのか。


「ところでシュウ、お使いはどうだった?」


透子が白い肌をシュウに近付ける。日の当たらない場所で生きる透子の白い肌が少しばかり汗ばんで居るのを感じた。


「なんだか不思議な事があって」

「不思議?」

「透子さんの言っていた神社の人に届け物をした後、その人急に苦しんで、炭を吐いたんです。俺、びっくりして……」


それを聞いて透子は薄ら笑みを浮かべてこう言った。


「そいつは、お前を食おうとしたのさ」

「え、っ……?」

「だから私がお仕置きしてやったんだ。人のお使い人に手を出すのは御法度なのを、彼奴らは分かって居るはずなんだけどねぇ」

透子が遠目に空を見上げてから、シュウに、視線を戻す。あの時の不気味で薄気味悪いあの雰囲気は良くない者が自身を殺そうとして居た、という事なのだろう。シュウは口の中に溜め込んでいた息を吐いた。

「よっぽどお前が美味しそうに見えたんだろう」

透子がシュウの頬を撫でる。

白い肌に艶めいた指先が少しだけシュウの頬に触れた。

透子の瞳に囚われてしまったようにシュウの身体は微塵にも動かなかった。緊張よりも動揺の方が大きかったのかもしれない。人に触れられる経験もなく、こんな風に見つめられる事も、いままであっただろうか。

心臓が高鳴って動けない。


透子は息をふぅと小さく吐いてこう言った。


「なぁに、お前は死なせないさ」


透子は立ち上がって身体の筋肉を伸ばし始めた。空気が流れるように冷たくなって、シュウはやっと手を床につける。まだ心臓の音が壁を叩きつけるように鳴っているようで顔を上げるのも恥ずかしい。



砂糖醤油のような食欲を煽る、良い匂いが漂ってきた。これは本当に黒鉄があの脚で料理をして居るのだろうか。透子が襖の奥を指差す。

シュウが腰を上げて透子が指差す方面に歩き出した。襖を開けると薄暗い廊下に繋がって居たのだが、右側から包丁がまな板を叩く音と香りが漂う。猫が料理をするのを見るのは初めてだ。シュウは息を飲んで引き戸をゆっくりと開けた。


古い木造りの台所である。壁は漆が塗り固められ白く清潔感のある台所だ。ガスコンロや洗面台は在るものの、全体的に古めかしいが、物は綺麗に整頓されている。

そこで包丁を握って居たのは猫などではなく、普通の女の子であった。


黒髪を後ろで束ね、白い割烹着を身に付けて軽快な手さばきで包丁を動かす彼女を見てシュウは唖然とした。

やはり猫などではなく、料理しているのは普通の女の子である。透子の言って居た事は自身をからかっていたのであろう。シュウはモヤモヤした気になって彼女の姿を見詰めた。


「あ……シュウさん。もう少し待ってて下さいね!」


視線が当たるのを感じた彼女は黒髪を凛と揺らしてこちらに少女のような笑みを見せた。


「えっ?」

「わぁ、こっちの姿は初めましてですよね。あはは、恥ずかしいなぁ〜」

顔をほんのりと染めて指先を口元に揺らす。これは女の子である。


「ちょっと、?え??」


「あははーやだな。黒鉄ですよ〜」


声にならない叫びを上げてシュウは固まった。

「まぁ、普通なら無理もないわな」

透子が後ろから這い出る。


「俺は頭がパンクしそうです」

シュウはがっくりと肩を落とした。



お昼時、買って来たアジの干物はコンロで焼かれていた。食卓に並べられたのはご飯と豆腐の味噌汁、出汁巻き卵ときゅうりと茄子の漬け物。日本人のしたるべき食卓である。


「すみません、俺もご一緒して」


シュウは思わず並べられた豪華な食卓を見て恐縮した。


「構わんさ。美味しい物を食べるためのお使いなんだ。仕事をしたお前が食べなくてどうする」

「いっぱい食べて下さいね〜」


透子に続いて黒鉄が和かな笑みでシュウに言った。


「では、いただきます」


シュウがそう言うなり、二人は手を合わせて同じ様にいただきますと続けた。アジは脂が乗っていて身は柔らかくご飯のお供ときて役をこなす。出汁巻き卵と言えど、上品なだし汁がじんわりと滲み出、層は柔らかく積み重ねられ舌触りが抜群に上手い。手慣れて居るんだなぁとしみじみ思いながら、シュウは口を動かした。


「どうですか、シュウさん」


目を輝かせた黒鉄が意見を求む。

「いや、どれも美味しいよ。とても」


シュウがそう言うなりに黒鉄はニタァと、猫の姿の時のような笑みを浮かべて笑った。嬉しい時も何か企んでいる時も彼女はどうやら同じ顔で笑うらしい。そう思えば、猫の姿であろうが今見ている少女の姿も黒鉄と言えば黒鉄である。

実際のところ猫の黒鉄は何処かに隠れていて、この少女もまた自分を騙して居るのではないだろうか。そう思ったりもしたが、それはそれで悪くはないのだ。

お使いをした黒鉄の素振りや雰囲気はそっくりそのままこの少女と一緒だったので、あまり疑うようにも思えなかった。


しかしながら、魚を買う前の駄々のこねようの姿がこの少女だったとは生唾を呑む勢いである。


「見た目よりは、案外食べるのだな」


「そうですね、ここに来てご飯が美味しく感じて」


透子が言ったように、食べる量が増えた。むしろ身体が欲するようになったと言った方が正しいかもしれない。

夏に食欲が湧かない事も多々あるかもしれないが、祖母の作るご飯、黒鉄の作るご飯にしても優しい雰囲気に包まれて食べる食卓がここに来るまでの物と大きく違っているのだ。


「それは良かったな。たくさん食べて、体力をつける所から始めたら良い」

透子はそう言ってシュウが食べる姿を微笑ましく見つめた。



お腹がいっぱいになった所で一息ついた頃、透子が喋る。


「また、お使い頼むな」


何だかこういう日常になるのも悪くはなかった。


「……良いですよ」


シュウは真っ青な青空に目を向ける。



美味しい物を食べるためのお使いだったとしても、こうして彼女達が笑顔を向けてくれるのは嬉しかった。誰かのために何かをする事は、自分の中に空いてしまった穴を少しだけ埋めてくれるような気持ちになる。何かを始めるのは、悪くはない。








「さっそく『お手付き』する輩が出てきましたね」


夕暮れに差し掛かる頃、黒鉄は黒髪の少女の姿で言った。


「ああ、まぁ予想はしていたんだ。彼奴らに取ってあの少年は特別に美味しそうに見えるからな。お使いに出せばほどほどお手付きをせずには居られまい」


透子は目を細め、銀色の瞳を黒鉄に向けた。


「透子様はどうしてあの子を?」

「くくっ…分かっておるだろ?純粋が故に縛らなくとも私の願いを叶えてくれるからさ」

「危険が伴う事も承知でしょうか?」

「私が一度でもミスを犯した事があるか?死なせはしないさ。そしてお前もあの子を守ってやるのが式としての役目でもある」


既に戸は閉められてはいたが、透子はシュウが居る向かいの家を見詰めて喋る。儚く健気ではあるものの、薄く白い肌を併せ持つ透子は強い気を放つように息を静めた。


そして少女から艶やかな濃黒の毛並みを持つ黒猫へと変わる。


「かしこまりました」


黒鉄はそう告げた後、ニタァと猫らしかぬ顔をして透子の手の内に頭を擦り付けた。


少女の姿で透子に甘えるのは引け目があるが、猫の時は御構い無しだった。もちろん少女の姿の時は礼儀やマナーには気を付けてはいるし、はしたないことだってしない。人間らしく上品で気さくな笑顔を振りまく事だって出来る。だが、猫は自由きままだ。人生を時間の波に乗って、人間に踊らされようが猫缶欲しさに精一杯の甘えた声を出す事だってあるがそれもまた愛嬌。包丁があの手で掴めないのは困り物ではあるが。


黒鉄は一度死んでいる。言うなれば、死に掛ける程のダメージを受けたので放って置けばそのままのたれ死んで居た。

そこに現れたのは透子であった。その頃から、昔から今までずっと、透子は、町の守り番としてその町に住んでいた。猫の命を掬い上げたのも気紛れだったのかもしれない。

透子は式を利用して黒鉄に命と、そして新しい姿を与えた。もちろん自分の身の周りの世話をさせる為でもあっただろう。黒鉄は不服に思う事は無く、暖かな温もりをくれる透子に心から感謝せざる終えなかった。

外に居て冷たい雨にうたれ、空腹に飢え、野たれ死なない保証はない。透子が自分の頭を撫で、白い肌で包んでくれる。それだけでよかった。


ただ、それが自分の中の幸せであった。


黒鉄は透子の手の内に頭を入れて身体をぴったりと透子の太ももにくっ付けて身体を休めた。




「……少しばかり、暑いな」


透子が夕暮れに囁く。

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夏色の神様ノスタルジィ てば@ @ariki022

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