川面に灯をともす

 祖父の晩年、身体の自由がきかなくなりとこで長い時間をすごすようになったころ、わたしはよくその枕辺について昔話をきかせてもらった。十歳から十二歳のあいだくらいだっただろうか。都会に育ったわたしにとって、祖父が生まれた山中の村はおとぎばなしの舞台のように幻想的に思えた。

 なかでも好きだったのは夏至の祭りの話だ。一年でいちばん短い夜、ひとびとは町のあかりをすべて消し、ごく小さなろうそくを乗せた笹舟を手にして広場に集まる。村長むらおさ松明たいまつをかかげて先導し、杖をついた年寄りも、赤子を抱いた母親も、やっと歩けるようになったばかりの子を背負った父親も、口をきかずに川に近い山道を歩く。村よりも上流にある、岩だらけの河原が目的地だ。村長の松明から火をもらい、おのおの笹舟に灯をともす。いくつもの手が光を水に浮かべる。幼い子はたのしげに、年老いた者は祈るように。川面をながれてゆく舟は、星よりも明るく、けれど儚くゆらめきながら遠ざかる。ひとびとが村に帰りつくころには、遠く下流に流れ去っていて、だれも笹舟が流れてくるところは見られない。その晩は広場でおおきな焚火をして、あかりの消えた家には戻らないで夜明けを待つ。おとなは林檎リンゴ酒を、子どもは蜂蜜ハチミツ入りの甘いお茶を飲みながら静かに語らう。あまりはしゃぎまわると叱られるが、供されるごちそうは新年にも負けぬ豪華さだという。

 祭りといいつつ、ふしぎな静謐せいひつさにみちた夏至のの話をわたしがなんどもせがんだせいだろう、わたしだけが祖父と留守番していた夜に教えてくれたできごとがある。あとにもさきにも、祖父がだれかにこの話をきかせた場面をみたことはない。だが、わたしの耳には祖父のやわらかくひび割れた声音で、いまも物語が残っている。


―*―*―*―*―*―*―


 十五か六かの、冬の晩だった。私は父とけんかをして家を追い出され、小雪がちらつくなかをあてどなく歩いていた。いつのまにか夏至の祭りでつかう山道に迷い込んだ。行く先には河原しかないが来た道を戻るのもしゃくで、黙って進んだ。そのうちに雪は止んで、雲間からのぞいた白金しろかね色の月が、葉を落とした枝の隙間を縫って足元を照らした。

 おどろいたことに、河原には人の姿があった。白髪はくはつの老婆だった。冬には薄い質素な服をまとい、寒空のもと裸足で立っている。しわだらけの手に夏至の祭りにつかう笹舟があたたかくひかっていた。私は息をひそめて彼女のすることを見守った。なんのことはなく、川面にあかりをそっと手放しただけだった。

 彼女は村へつづく道へ、つまり私のいるほうへ歩いてきた。見咎みとがめられると思った。しかし彼女は私に一瞥いちべつもくれずに脇をすりぬける。

 幽霊かと思って怖くなった。あわてて声をかけると、はじめて私に気づいたとでもいうように彼女は立ち止まる。

「ここでなにをしていたんですか」

を、流しに」

「こんな真冬に?」

 吐息が聞こえ、彼女の顔のあたりが白くけぶった。

「いまじゃあたしくらいだけれどね、昔は月が満ちるたびに来る者も少なくなかったんだよ」

「月……なにか関係が?」

 夏至が満月の日とは限らないではないか。

「松明を持たずに歩けるからさ。かつては今より、あかりは貴重だった。そのぶんだと、灯を流す意味も知らないね」

 彼女は村へ帰る道すがら、夏至の祭りの由来を話してくれた。

「近ごろはすっかりおとなしくなったが、この川はよく荒れたんだよ。村じゅうの家を根こそぎ流されたこともあったって話だ。そりゃあ人も多く死んださ。そういうことがあるたびに、村では娘をひとり、川の神に捧げた。河原と村とのあいだに木とつたに覆われた小島があるのは聞いたことがあるかい」

 いや、と首をふると、彼女はそうかい、とかるく笑った。

「あそこに娘が生きているうちは、川が荒れることはないんだそうだよ。さて、前に氾濫はんらんがあったのはいつだったか、学校で教わったろうね」

「五十年近く前だと」

 村の子供なら授業で聞かされるが、もはや爪痕はどこにも残っておらず、私にとってはとても遠い歴史上のできごとだった。この老婆も、当時はずいぶん若かっただろう。

「そうとも。あたしは十八、妹は十五だった。にえの花嫁に選ばれたのは、あたしの妹だよ。あれからいちども村を水が襲ったことはない」

 つまりあたしの妹はまだあの島にいるんだろうね。彼女は木立を透かして川のほうを見やった。離れて生きている肉親を思うような口ぶりだった。そこらの森から食べ物を得られる土地ではないから、村をつくって畑を耕し、ささやかな港をこしらえて漁に出るのだ。女ひとりで島に流されて五十年を過ごすなど現実的ではない。

「どうやってひとりで、そんな小島で生きていられるっていうんです」

「神の花嫁なら、どうにだってなるだろうさ」

 しんしんと冷える夜更けにもかかわらず、薄い衣いちまいで彼女は平然と歩いていく。土に汚れた素足は木の根にも引っかからず老いた身体を運んでいく。小さく丸まったその背中ごしに、私は彼女の声を聞いた。

「灯を流すのはな、あたしらが花嫁さんを想ってるってことを知らせるためだ。忘れてなんぞおらんよ、ってな。あかりがよく見えるように村では家の火を消しておく。笹舟は川の流れに乗って通りすぎてしまう。いっときのなぐさめにしかならないだろう。だが、ここにあたしが、人であったあの子を憶えている者がいることくらいは知らせてやれる」

 話をきくうちに、彼女からにじむ寂しさが胸にしみて痛んだ。私はたんなる祭りのならわしとして灯を流してきた。本物の祈りをもってそれをおこなう人がいるとも知らずに。

「では、祭りにもう意味はないんですか。私たちは、どうして川の花嫁のことを知らされないまま灯を流すのですか」

 彼女はしずかに首をふった。

「もう贄は出さんことになったからな。古い時代の悪習だと。町のほうでは川をぎょするための工事が進んでいるらしい。人はもう、神をつくり話と決めてしまったんだろう」

 彼女は山道をくだりきらずに足を止めた。村のはずれもはずれ、なかば森にうもれたあばら屋が彼女のすみかだった。私たちは別れのあいさつを交わし、それから二度と会うことはなかった。

 私が出稼ぎで村を離れて数年後、村をひどい水害が襲った。父母もきょうだいも失った。しばらくは友人からの便りもあったが、川はたびたび荒れて家を壊し人をさらい、やがて村そのものが地図から消えた。かくして私は故郷をなくし、ここで生きてきたというわけだ。


―*―*―*―*―*―*―


 たとえば嵐の夜、寝床で眠れずにいるとこの話がふとよみがえる。あたまのなかで、甘く苦く祖父の声を味わうとき、わたしもその村の血を継いでいるのだと考える。女性を島に流して川が鎮まるとは思わない。ひどいならわしだといきどおりを感じることもある。だけど、人を想って流すひかりは、想像のなかであってもあたたかく、かなしく、わたしをひきつける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る