その料理屋は川のほとりにある

「泣きたくなったらここを予約するといい」

 料理屋を薦める文句としては、奇妙だと言って差し支えあるまい。ある創作和食の店に連れてきてくれた時の、取引先の社長の言葉だ。

 こぢんまりとした個室しかない店で、居心地はとても良かった。料理も美味く小洒落ている。素材も上質なのだろう、苦手だった生の鯖をすいすい食べられた。

 だからといって涙が出るかといえば否なのだ。よほどの感動屋なら別だろうが、少なくとも俺は物を食べて泣いたことなど今までなかったのだし。

 仕事でミスを連発し、内外から散々お叱りを受けたあの日、この店の存在を思い出したのは単なる偶然だ。帰る実家ももう無いし、そもそもいい大人が親に泣きつくのもどうなんだという話だが。とにかく救いがほしくて予約の電話をかけた。


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 川の音が近い。街灯の少ない路地で、店先のあかりが温かく感じられた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、森島さま」

 引き戸を開けるや、品の良い若緑色の着物の女性に迎えられる。名乗る前から名を呼ばれるのは変な気持ちだった。以前訪れたことがあるとは言ったが、人に連れられて行った一回こっきりで顔を覚えたとしたらかなり特殊な体質だろう。

 通された個室には、当たり前だが一人分のしつらえしかない。漆塗りのテーブルと揃いの椅子が夜の川面のように光っている。

 案内の女性が上着を預かってくれ、音もなく引かれた椅子に掛けさせられる。

「本日はお任せコースで承っております。どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ」

 アルコールは断り、静かになった部屋を見回す。窓の外はすぐ川のようだった。木立のあいだに水面がちらちらとのぞいている。

 テーブルに目を落とす。白い和紙を引いた上に箸が一膳。渋を塗っただけの箸は装飾のひとつもないが、絶妙な太さで美しいラインをしていた。赤い水引で組まれた箸置きが色彩の多くないテーブルにおいて華やかだった。


 ほどなく一品目が運ばれてくる。両手で包み込めるほどの紺青の陶器で、縁が柔らかく波打っている。中心には柑橘の皮と和えたぶつ切りのタコの足が小さな山を作っていた。

 味付けは思ったより甘く、柑橘の正体は金柑と知れた。タコは茹でてあり、弾力はありつつもふんわりと嚙み切れる。遠くにオイルを感じるがオリーブやゴマの強い匂いはしなかった。和風の和え物というよりはマリネのようだ。


 次に出てきた吸い物は、暗い朱の塗りの椀に入っていた。野菜が練り込まれた鶏の団子がメインで、梅の形の麩が浮いている。出汁は複雑に味が絡み合い、何が由来なのかは判別できなかった。口に入れればほどけるような鶏団子は初めてだった。


 透明な切子ガラスに盛られた刺身は伊勢海老だった。薄紫の花も可憐な穂紫蘇ほじそとワサビが添えられている。揃いの小皿にはすでに赤々とした醤油が用意されていた。箸で花穂を刺身に落とす。醤油をつけるのは少しだけだ。噛むほどに甘くねっとりとした伊勢海老に、紫蘇の香りがふわりと上る。ワサビの辛さが後からツンと控えめな主張をした。


 菜の花の和え物には金胡麻がふんだんに使われていた。小鉢はざらざらとした土の質感が残る陶の一部にだけ、つやのない白の釉薬がかかっている。春めく柔らかな色あいのひと品だが、からしが効いていて見た目より凛とした印象を持った。


 焼き魚は白身だったが、種類まではわからなかった。いわゆる焼き物というより、鉄板で揚げ焼にしたような雰囲気がある。皮目のかりっとしたところと、身の柔らかさにメリハリがあった。胡椒が振られていて、急に西洋料理の香りを感じた。


 美味さに心を満たされる気分にこそなったが、あのとき社長が口にした言葉の意味までは理解できない。よほどここが気に入っているのか。


 疑問を残したまま、筍の煮物を食べる。シンプルな味付けにほっとした。


 残りの品数はもう少ないはずだ。つぎに店員が入ってくるとき、香りから揚げ物と知れた。それも天ぷらの類ではなく、フライだ。パン粉の衣が揚がるときの匂い。

 皿を見て驚く。ぎょっとしたと言ってもいい。千切りのキャベツをあくまで品よく盛ったシンプルで白い、つやのない陶器に、小判型のコロッケが載っている。かすかに透けて見える黒っぽい部分に覚えがある。ソースはかかっておらず、粗くひいた胡椒だけが表面に散っている。亡き母がよく作ってくれたかぼちゃのコロッケ。

 まさかと思いながら箸を入れる。温かな明るいオレンジ色の断面が湯気をさかんにたてた。皮もいくらか入るので、アクセントのように暗緑色が混ざっている。油を吸ってさっくりとした衣に包まれたかぼちゃは甘く、塩気はその甘さを引き立てる程度。ほっくりと口の中でくずれていく。ともすれば曖昧になる味にしっかりと輪郭をつけるのが胡椒だ。


 受験の日、就職の最終面接の日、はじめて転勤が決まった日。節目の日に母がいつも用意してくれた自分の好物に、こんなところで出会うとは信じがたかった。


 食べ終わるのを待たずして、涙腺が崩壊した。泣きながらコロッケを食べる社会人というのもどうなんだと冷静な自分がなじるが、今はただ懐かしさに身を任せたかった。なぜ、とはもう思わない。立ち止まってもいずれはまた歩き出さなくてはいけない人生に、力をくれる料理だった。


 店の方でもわかっているのだろう、次の料理はしばらく運ばれてこなかった。

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