船出の朝に
朝七時すぎの港。陽はもう高く、おだやかな海面は楽しげにピカピカしている。定期船は錆止めの赤いペンキ水面から覗かせて乗客を待っている。本土の高校では始業の日だ。初めて船で登校する俺含め三人の生徒を、親兄弟やら近所の人やらが見送りに来ていた。おっちゃんは俺のネクタイを直してくれながら困り顔でまた同じ問いを繰り返す。
「本当にお母さんやお父さんは来ないのかい」
「来ないよ。そういう家なの、知ってるだろ。だからおっちゃんが来てくれるんだし」
「たとえご両親がいらしてても俺は来るよ」
「俺の見送りはおっちゃんだけで十分だって。むしろあいつらより適任」
「そんな言い方するんじゃない」
放任主義が行きすぎて奔放に育った俺を実の子のように叱ってくれるのがおっちゃんだった。海の男らしい武骨な手も、口が重いのも好きだ。網にかかった雑魚やら拾ってきたウニやらをこっそり分けてくれるのも家族らしさみたいなものを感じる。スローライフ的なものに憧れて島に家を買ったくせに、仕事は本土でしているし出張も多い。結果として島は俺の保育所がわりになってしまったわけだ。
「お前も大きくなったな。勉強もできるし、将来は本土で役人でもするんだろう」
「何言ってんの。俺、大学とかで一回は外に住むだろうけど戻ってくるって」
「島には何にもないからねぇ」
「今はほら、インターネットとかいろいろあるし、島で出来る事っていっぱいあると思うんだよ。そういうの勉強して帰ってくるから。でもって、もっとここがにぎやかになってくれたらいいんだけどな」
「良い志だな。がんばれよ」
おっちゃんは眉を下げたまま笑った。信じてなんかいないんだろう。出来のいい子供は都会に出た方がいいに決まっているとでも思っているんだ。小中学校だって廃校の噂は何度か聞いた。島の老人たちの大半と同じように、おっちゃんも過疎で消えていく運命を受け入れてしまっている。緩やかに滅んでいく美しい島なんていうのはある意味ロマンチックかもしれないが、俺は故郷を見捨てるつもりはない。
たとえば半分放置された俺が他人の手を借りて満足に育ってきたことや、修学旅行先で出された刺身が死ぬほど不味く感じることや、小学校のグラウンドで体育をしているとき、海を眺めていてボールを頭部に喰らったりすること。中学校の屋上が島でいちばん高い場所であること。同学年が少ない分上級生や下級生と仲が良いこと。
失うには惜しいって思うのは、未練があるのは、おかしいことじゃないだろう。一度消えたら二度と同じ形には戻れないのは、大人たちも知っているはずじゃないか。
「
おっちゃんが短く俺を呼んだ。
「手ぇ出せ」
てのひらに乗せられたのは、大ぶりのみかんだった。夕日のようなオレンジ色に熟れている。
「餞別だ。持ってけ」
「ありがと」
下手な励ましよりずっと力になりそうだった。たしか死後の世界でものを食べると戻れなくなるんだっけ。生まれてから今までずっと島のものばかり食べてきた俺の体は、強くここに繋がっているんじゃないだろうか。
「ま、家はここなんだし、今生の別れじゃないし、こんなもんじゃないでしょうかね」
「今生の別れとか、難しいこと言うんだな」
「俺だってもう高校生なんでね」
今日は快晴だ。海はいつも以上に青い。新生活の始まりにはうってつけの日だ。なんて、意気込んでみたところで帰る家はここで、大して変わらないのかもしれないけれど。
順番に船に乗り込む。港に向かって手を振りながら、強い日差しに目を細めた。
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